浄玻璃ノ鏡7
それから二人は逃亡者として京を離れた。
火事で死んだと思ってもらえてれば良いが、そうではない場合お尋ね者となって行方を追われているかもしれない。
銀は光を連れ、東奔西走した。
時には人の出入りの多い町に、時には獣道を掻き分け洞穴に。
そうして二人の行きついた先は、銀にとっては懐かしい高野にある小さな集落、その外れにある小高い丘に建てられた廃寺だった。
村人達は突然にやってきた銀と光を不審がる事もなく、過去に何があったかを問う事もなかった。
この寺の元の住職は高齢の為亡くなってしまい、以来誰も仏に手を合わせる者がいないままふた月が過ぎたらしい。
この仏を守ってくれるならばいつまでもここにいてくれて構わないとまで言ってもらい、銀はここに腰を据える事にした。
やはり噂は本当だったのか、と銀は寺から里を見下ろした。
高野の寺にいた頃に聞いていたのだ。ここは脛に傷のある者が集まるならず者の隠れ里である、と。
この村は以前にいた寺の近くにある集落よりも静かで、心を落ち着かせるには打って付けだった。
光も里の者と打ち解け、寺の手伝いもよくしてくれていた。
この地で二人静かに暮らせると信じていた。だが時は無情で二人を裂く闇はすぐ側まで近付いてきていたのだ。
それはこの地に腰を据えて丁度一年が経った頃だった。
「光。顔色が優れんようやが……具合悪いんか?中入って休んどり」
庭の掃除をしている時、青白い顔でふらりと大きな木に寄りかかる光を見て銀は心配そうに近付く。
「いや……大丈夫、ですよ…」
「大丈夫そうやないから言うてるんや。言う事聞き」
銀の強い言葉に光は渋々といった様子で本堂に入った。
小さな寺だが本尊は立派だ。
たとえ自分のような穢れた者でも仏は救ってくれるだろうかと、光は静かに佇む本尊を見上げた。
「俺は人を不幸にするだけやと思ってた……けど、こんな俺でも……師範は愛してくれた。必要やって、言うてくれはった……せやからあの人の咎は全部俺が背負っていくから……どんな罰も受けるから……せやからこれからも師範……を…」
寺に住んでいた光だったが、こんなにも強い思いを込めて拝んだのは初めてだった。
仏はこんな風に願いを言い叶えてくれと乞う相手ではないと解っている。
それでも願わずにはいられなかった。
こんなにも自分に幸せを与えてくれた人の幸せを。
彼は常々光に語っていた。
また人の心に恐怖を与え、不幸を撒き散らし修羅道に銀を落としてしまったらと不安を覚える光に対し、それを静かに否定する。
「逆や。それは逆やで光」
「逆?」
「せや。光は己の心を映す鏡や。せやから光の側におったらいつも心清くおれるんや。光に恥ずかしない自分でおれるんやで」
光は浄玻璃鏡や、そう言って銀は落ち込む光を励ました。
地獄で沙汰を言い渡す為、その者の善悪の行い全てを映すといわれる鏡。
光はそれであるから、光が人々を闇に落とすのではない、人々は光に映し出された己の醜さを見ているだけだったのだと、銀は何度も何度も諭していた。
それは光の心に光明を与え、長き苦しみから解放されるきっかけとなった。
光はそれから数日高熱にうなされた。
こんな風に光が体調を崩す事など今までになかった為、銀は為す術もなく、ただ見守る事しかできなかった。
「し……はん?」
寝込んでから数日、寒い朝だった。外の冷気で熱い額が冷えたお陰か光はようやく目を覚ました。
不眠不休で看病をしていた銀には少し疲れがあったが、光の瞳を見た瞬間それも吹き飛んだ。
「光…?具合はどないや?水、飲むか?」
「……師範…そんな顔せんといて下さい」
しっかりとした声に、不安が少し拭われる。
もう大丈夫なのだろうかと思ったが、光は静かに最期を告げた。
「何ちゅう顔してんっすか……俺は……人間とは違って……死なんねやから」
「……光」
「これは……死やなくって……ちょっと、休むだけなんですよ……体が癒えたら……また起きてきて、何もなかったみたいに……腹減ったって言うて戻ってくるから……やから……」
光の表情は晴れやかで、強がっている様子もない。
彼の長い人生の中でもう何度もあった事なのだろう、落ち着いた様子だ。
そんな光に触発されるように銀の心も落ち着き、ゆっくりと手を握ると安心させるように微笑みかけた。
いつも見せていた銀の柔らかい表情にホッとしたように光は静かに目を閉じる。
「解った。わしはずっとここで待ってるよってな、ゆっくり休みや。ずっと……ずっとや…」
銀の言葉は光の耳にも届いているだろう。
ありがとうの言葉を残し、穏やかな表情のまま光は永い眠りに就いた。
それから銀はゆっくりと休めるよう本尊のすぐ裏に木棺を置き、そこに体を収めた。
死んでいるわけではないというのは彼の強がりではなく、本当に光は眠っているだけなのだ。
体は温かく、今にもむくりと体を起こしてお得意の毒舌を聞かせてくれそうな気がする。
「色んな事あって疲れてたんやな……すまんかったなぁ…体ゆっくり休めてや…」
ようやく落ち着き、この地で幸せに暮らせるものだと信じて疑わなかった。
それでもきっと光は約束通りにまた元気な姿を見せてくれるはずだ。
銀は約束通り光が目覚める日までここで待とうと、静かに木棺の蓋を閉じた。