浄玻璃ノ鏡6

夜になり、明日の出奔に備え今夜は早く床に就こうかと布団を敷いていると、突然銀の頭に直接叫び声が響いた。
光が呼んでいるのだと瞬時に察した銀は転がるように廊下を進み、今朝あんな光景を目の当たりにしてもう二度と近付きたくはなかった住職の部屋へと辿り着いた。
今度ははっきりと僧達の声が聞こえてくる。
その内容から、荷造りをしている事が露見して、逃げる事は許さないと脅されているのだ。
銀は光の正体を知ってよりこちら、多少の違和感を覚えていた。
寺の者は何故光をここに住まわせているのか。
里の者は何故光を恐れないのか。
最初は鬼である光を引き取り、里の者へ危害を加えないようにしていたものだとばかり思っていた。
それが民の為に出来る仏の教えであると、そう思っていた。
だが真実はそうではなかったと、住職のどす黒い声に気付かされてしまった。
「お前がおらんようなったら……この寺は上がったりや。里のもんからお前の力抑える祈祷や言うて金巻き上げられへんようなるやないか。こんなええ金づる……みすみす手放してたまるかい。逃げるなんか絶対に許さんさかいな!!」
この寺の者は光をわざと追い詰め、鬼である姿を里の者に見せた後、怒りを鎮める祈祷とすると称して里の者から差し出される金品を騙し取っていたのだ。
仏の教えを説く者とは思えぬ非道な姿に銀は言葉を失った。
次の瞬間、殺したる、という強い思いが銀の中に伝わってくる。
光の憎悪が痛い程に心に流れ込んでくるのだ。
光が何故あれほど武芸に拘っていたのかがようやく理解出来た。
彼はその手でこのような輩を葬りたいと考えていたのだ。
だがあんな奴らの為に光の手を汚させてたまるものか、と沸々と湧き上がる怒りに体を震わせ、部屋と廊下を仕切る襖に手をかけた。
だがつっかえ棒でもしているのか一向に開く事がなく、銀はそれを思い切り蹴破った。
「ん……ぐ……!」
あかん、ここに来たら殺されてしまう、と光の声が頭の中に響く。
彼らならその罪を光一人に被せ銀を殺す事も雑作ない事だろう。
だが銀はそれよりも先に行動に出た。
朝よりも酷い姿、口には声を上げぬよう手拭の猿轡を咬ませて着る物を剥がれ、腕を頭の上で縛られた状態で梁に吊し上げられている光を見た瞬間、銀の中にあった理性は全て消え去ったのだ。
その巨漢からは想像もつかない程の速さで部屋の隅に行き、そこにある燭台を手にすると次々と僧に襲いかかった。
鈍い音と共に血飛沫が部屋に飛び散る。
それと同時に油坏から灯り用油が火のついたまま部屋に飛び散った。
「光…今助けたるからな」
事切れた僧達や炎上を始めた畳や壁には見向きもせず、銀は部屋に置かれた行燈から蝋燭を取り出すと光を吊り下げる縄を焼き切った。
「すぐ逃げるで。この火や。わしらも一緒にここで死んだように見えるやろ」
「……んー!ん!……う…」
無理だ、火の回りが思った以上に早い。
光は自分を置いて逃げるよう必死に銀に訴えかける。
だが銀は光を抱えると急いで自分と光の部屋を回り出奔の為にまとめた荷物を持つと火を掻い潜り寺の裏口から外へと飛び出した。
表門の方は火事に気付いた村人達が集まり始めている。
姿を見られないよう細心の注意を払い、銀は山道へと駆け出した。
一先ず身支度をしなければどこへ行く事も出来ないと、銀は普段滝行をする際着替えなどに使っている小さな小屋へと向かった。
山道は雪で覆われ、草履を履く足に突き刺さるような冷たさが襲う。
だがそんな事など物ともせず、銀は光と大荷物を抱えたまま山道を突き進んだ。
やがて辿り着いた沢の小屋は寺とは打って変わって静寂に包まれている。
銀は中に入り、荷物を下ろすとそっと光を下した。
「寒ないか?火は使えんからな……堪忍やで」
ようやく縄や猿轡を解いてもらった光はまだ何が起きたか把握しきっていない様子で呆然としている。
銀はとにかく体が冷えてはいけないと風呂敷に包まれた荷物の中からあるだけの着物を出し、光の体を包んだ。
光を抱き締める事で銀自身も暖を取れる。
徐々に温もる体とは対照的に、思考は冷静さを取り戻していく。
とんでもない事をしてしまった。
仏門に身を置きながら人を殺めてしまったのだ。
しかし後悔はしていない。
あのままでは光がどんな目に遭う事となるか。
恐らくは自分も殺されていただろう。
仏の御側に召される死を恐怖と思った事はない。
だが自分がいなくなれば誰が光を守るというのだ。
あの場所に光を一人置いて逝く事、それは死よりも恐怖だった。
犯した罪はこれから償い生きていくより道はない。
「俺の……俺の所為なんです」
「光?」
腕の中でぽつりとそう呟く光の声に、銀は驚き少し体を離した。
顔を覗けば何かに怯えている様子で銀を見上げている。
先刻あれほど酷い目に遭っていた時は涙ひとつ見せていなかった光であったが、今にも泣き出しそうに不安定な表情を見せている。
「俺が、俺が側におったから!師範が…師範が人を……!」
「光、落ち着き。何を言うてるんや……あれはわしが」
「違うんです!!」
一体何に怯えているのかが解らず混乱する銀に、光は荒ぶる心を抑え、声を絞り出した。
「違うんです……ほんまは、ね……人を襲ったり、するんやなくて……人の心に修羅を植え付け人の道を外させる…それが、鬼なんです……」
思わぬ告白に銀は言葉を失った。
直接手を下し、人を襲うのが鬼だとばかり思っていた。
だからこそ人々に恐れられているのだと。
だが本当は人の心の弱さを引き摺り出し、修羅道へと落とす事こそが鬼の本質だと言う。
何をするわけでもない。
ただ側にいるだけで人は鬼を恐れ己の弱い心を露呈させ、その綻びはやがて人々を大きな闇へと飲み込むのだ。
「俺が師範を……人殺しにしてしもた…」
「ひか…」
嫌な予感がして光から目を逸らす。
しかし一瞬早く光の瞳が暗く光り、頭の芯が揺れた。
「く……やめ…」
「ごめんなさい師範……全部忘れて下さい。ほんで逃げて下さい……後は俺が全部引き受けますから」
徐々に薄れる意識を必死に保とうとする銀と光の間で見えないせめぎ合いが生まれた。
だがすぐに銀の強い意志が光の力を上回り、それを跳ね飛ばした。
「そんな事しても一緒や。たとえ忘れたとしてもわしの犯した罪は変わらん。記憶消したところで心に姿のない蟠りが残るだけや……」
「けど……」
俯きはらはらと涙を零す光を抱き寄せる。
身じろぎ、嫌がる素振りを見せるが銀は決して離さなかった。
「光の所為やない。あれは……ただの嫉妬や」
「……え?」
「光に無体働いとるあいつらを許せんかった……大事な光を誰にも触らせたなかった。それだけや。わしの醜い嫉妬がさせた事で、光が気に病む事ないんや」
ずっと抑えつけ、秘め続けた心の内は自然と口を割って出た。
光は何を言っているのだと呆然としている。
当然だろう。
まさか己がこのような劣情を抱いていたなど思ってもいなかったはずだ。
しかし光は唐突に不機嫌な表情を見せた。
やはり嫌だったか、と思ったが光の思いはそこではなかったようだ。
「信じられへん!師範が俺の事……絶対嘘や!!」
「嘘て……わしは嘘なんか言わへん。光が愛しいて愛しいてしゃあないんや」
「嘘や!信じひん!」
僅かに見える光の膨れた表情に、それが拒絶ではなく照れ隠しの悪態であると気付いた。
いつもの光に戻ったと安心した銀は、日が昇る前にここを出ようと言い、あと少し体を休めるよう言った


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