浄玻璃ノ鏡5
光の正体が人々の恐れる鬼であると解ってからも、銀は変わらず光を可愛がった。
最初はぎこちなかった光も態度を和らげ、二日も過ぎれば同じように銀に甘えるようになった。
だが光の持つ力はそれだけに止まらず、破滅の闇へと既に踏み入れていた事には、
この時銀はまだ気付いてはいなかった。
銀は寺よりも更に山奥へと入り、滝行を行う事が度々あった。
寒い季節、それも明日は大晦日で寺では忙しなく僧達が働き回っている中ではあったが銀は身を引き締め新年を迎えたいと滝へと向かった。
そして禊の後、すっかり冷えた体とすっきりと冴えわたる頭を連れて寺に戻る。
朝の勤行の時間であるはずなのに本堂には誰もいない。
おかしい、何かあるとすぐに察した。
澱んだ空気が辺りを漂っているような気がするのだ。
銀は急いで着物に着替え、その空気がより濃くなる方へと足を進めた。
「光!光!!」
廊下に面した障子を順に開け、中を検めていくが一向に誰の姿も見えない。
ざわざわと騒ぐ胸を抑えきれず、銀は珍しく息を切らせ足音高く廊下を進んでいく。
そしてついに普段足を踏み入れない寺の一番奥、住職の私室へと辿り着いた。
ここにいる、という予感はくぐもる光の声が耳に届いた事で確信に変わった。
銀は声もかけずいきなり襖を開けた。
大きな音を立て、襖は勢いに負け廊下へと倒れる。
だが銀は中で繰り広げられる光景に目を奪われた。
光は俯せ状態で僧達に畳に押し付けられ、手首は胸の前で締め上げられている。
銀には負けるがそこそこに体の大きな僧が光の脚の上に乗り、体の自由を奪っていた。
「な、にを……」
大勢で無体を働いているのかとカッと頭に血が上った。
しかし光の姿を見てそれが早とちりかもしれないと思い直す。
泣いている様子はなく、強い瞳で周りの者を睨みつけている。
その瞳は赤く、唸り声を上げる口からは鋭く尖る牙が見え、額と髪の狭間には小さな角も見えていた。
「光…どないしたんや……」
理性を捨て、暴れ回ったが為に縛られているものだと思っていた。
だが以前感じたような、頭の中心がぐらりと揺れる感覚に襲われる。
そして頭の中に光の声が直接響いた。
『たすけて……たすけて師範!!』
その声を聞いた途端、銀は反射的に光を押さえつける僧達を力いっぱいに突き飛ばし、光を抱き起した。
肩に立てられた爪が痛いが、怯える光を宥める事で必死だった。
落ち着くようにと何度も光の背中を撫で、力強く抱き締めた。
「師範……もう、大丈夫です」
「そうか…よかった」
突き飛ばされた僧達は壁や畳に強かに体を打ちつけ、各々痛む体を擦っている。
しかし銀を責めるような事は言わず、住職に目で促され退室していった。
「ご院主……どういうつもりなんですか……光を、こんな目に遭わして」
部屋の奥で座ったままじっと僧達の行いを見ているだけだった住職に向け、銀は今までに見せた事もないような厳しい態度を見せた。
光は嫌がり怯えていた。
それを黙って見過ごすような真似を非難する事は咎ではない。
住職もそんな銀の思いを汲んでいるのか何も言わなかった。
気持ちは全く治まらなかったが、銀はまだ動けない光を抱き上げ退室した。
光を部屋まで連れて行き、そこで手首を縛る縄を解いてやった。
赤く染まった肌が痛々しいと、銀はいつも懐に忍ばしている軟膏を取り出しその傷跡に塗りこんでやる。
先刻まで荒い息で肩を揺らしていた光だったが、それが治まるにつれ光の姿は人の形へと戻っていった。
「……落ち着いたか?」
「は、はい……あの、ありがとうございました……」
「いや。怖かったやろ。あんな目に遭うて……すまんかったなぁ。今まで気付いてやれんで」
いつもあんな風に押さえつけられていたのだろうか。
だったらそれに気付いてやれなかった事が不甲斐ない。
銀は視線を落としたまま光の手を握り、思いつめた表情を見せる。
それに不安を覚えた光は目を泳がせ恐る恐る銀の様子を伺った。
「もうこんなとこにおったらあかん」
「え……?」
いつも以上に重い声が耳に届き、光は上手く理解出来なかったと首を傾げる。
一体何を言い出すのだ、と。
「逃げるんや。早よ、ここから……新年明けたら、寺の混雑に乗じて逃げ」
普段はあの噂もあってか人の寄り付かない寺ではあるが、正月は寺参りにやってくる村人が多いのだという話は他の僧達に散々に聞かされていた。
その忙しい最中であれば、誰にも気付かれず逃げられるかもしれない。だが光は首を縦には振らなかった。
「……こんなとこでも、俺にはここが居場所で…やっと見つけた…」
「わしも一緒や」
「え?なん……」
「わしも一緒に行こ。わしはこんなとこもうごめんや…」
光を蹂躙して平気な顔をしているような僧の元での修行など絶対に耐えられない。
銀は光に誰にも見つからないよう荷物をまとめるよう指示すると、自分も荷物をまとめた。
そしてあんな事があった後だが気持ちを抑え、不審がられないよう日課に勤しんだ。