浄玻璃ノ鏡3
元は高野で僧兵をしていた銀は光に乞われ、暇をみては武芸を教えていた。
それが故に師範と呼ばれていたのだ。
光は僧ではなかった為、時折小間使いをするだけで日々時間を持て余していた。
だからその時間だけを楽しみにしているようだった。
光は器用で少し教えるだけでどんどんと技を吸収していった。
他の僧侶らは光が境内で荒事をする事に渋い顔を隠さなかったが、光は気にせず楽しそうに日々鍛錬を積み重ねている。銀も住職より小言を聞かされていたが、光の頼みを無下には出来なかった。
何より光の嬉しそうな顔を見る事が銀のささやかな楽しみになっていたのだ。
「随分上手なったなぁ。もうわしの教える事はないかもしれんな」
「えー!そんな事言わんともっと色々教えてくださいよ」
手にした木刀を軽やかな動きで振りながらつまらなそうに言う光を見て、銀は苦笑いを漏らす。
「これより先は護身の枠を越えた殺人剣や。あんたはんには必要のない事やろ。今まで教えた事を繰り返して技を昇華させたらええ」
まだ不満げに口を尖らせる光の頭を二度三度と撫でてやると、少し機嫌を直したようで少し離れて素振りを再開した。
幼い好奇心が自らの身を危険に飛び込ませるような事をさせているものだと思っていた。
しかしそれが光の秘めたる恐ろしい思いがさせていたとは、その時の銀は思ってもいなかった。
銀は近頃里に下り、仏に経を上げて回るようになった。その際、時折耳に入れていた噂があった。
この近辺には化け物が出るという言い伝えがあるのだ、と。
その伝承は様々であったが、たいていは解りやすい鬼の話であった。
恐ろしい鬼がやってくるからちゃんと言う事を聞きなさいと子供に言い聞かせるような。
しかし寺から一番近くにある集落で聞かされた鬼の言い伝えは少し形を変えていた。
ただのおとぎ話ではない、鬼の話。
それが伝わっていた。
初めて見る銀の顔に、集落に住む人々は興味を示し、そして銀の人となりに触れ心から彼を歓迎した。
だが親しくなるにつれ、より深い話を聞かされるようになり、鬼の話が出たのだ。
「あんたはんも随分な貧乏くじ引きはりましたなぁ。よりにもよって高野からあの寺に来るやなんて」
貧乏くじという言葉に銀は眉を顰めた。
確かに総本山である高野の寺から比べれば位も低く、同じ山の中にあるとはいえ待遇は雲泥の差だ。
しかしあの寺はそれはそれでなかなかにいい寺であると思っていた。
何より光がいる。
それ以上の事は何も望まなくてもよいと考えていた。
「あの寺に…何かあるんですか?村の皆に同じような事を言われました」
話をしていた老翁は一瞬言葉を詰まらせたが、銀を真っ直ぐに見据え口を開いた。
「あの寺には、鬼がおりますのや」
また人々の作った単なる言い伝えだろうと呆れたような表情を見せる銀に、老翁はそれも想像のうちだと少し視線を落とした。
言い淀んだ理由は様々であろうが、銀の見せた態度が一つの原因である事も間違いではないだろう。
銀は少し反省して聞く態勢となった。
「それは一体どういう……寺には僧が数人おるだけですが…」
「いてますやろ、一人。少年の姿の子が」
少年と呼べる年の頃の者はあの寺には一人だけだ。
銀もまだ弱冠ではあるが落ち着いた雰囲気から老けて見られてしまう為少年というには些か無理がある。
そうでない事を願いながら、だが不安は胸に染み渡り拭う事が出来ない。
緊張に裂けそうなほど高鳴る心臓を抑えながら言葉を待った。
しばらく口を閉ざしていた老翁だったが、一つ溜息を聞かせた後、ぽつりぽつりと語り始めた。
それは今を遡る事更に以前。
京が都ではなかった頃から伝わる話だった。
当時の都に棲み、人々に畏怖の念を抱かせていた鬼がいたと。
その鬼は人々に忌み嫌われ、持って生まれた妖力で人の形となったものの鬼と解る度に人々から迫害を受け、逃げて逃げて姿を隠し、それでも人の温もりを求め何度も人里に下りては接触を図っていた。
だが積もり積もった人への不信感はついに爆発して、大江山へと隠れてしまった。
それが何故この離れた地にやってきたかは解らないが、ここでもまた鬼として人々に恐れられる事となってしまったようだと思っていた。
しかしこの集落の人々は鬼を恐れている様子はない。
歓迎している様子もないが、だからといって嫌っているわけでもなく、上手く共存しているようだった。
話を聞かされてからの帰路、銀は上手く回らない頭を必死に働かせて光への言葉を考えた。
あのような話を聞かされ、いつもと同じようにとはいかないだろう。
「あ、おかえりなさい師範!」
銀の帰りを待ちわびていただろう光は寺の大きな門の前にしゃがみ込んでいた。
「またそんな薄着で…風邪引くで」
「今度はちゃんと下にいっぱい着てますぅー」
憎たらしく唇を尖らせる光を見て、銀は苦笑いを漏らしながら頭を撫でてやる。
そして早く温かい屋根の下へ行くよう促した。
本堂脇を通り過ぎ、光が普段過ごす別棟に入り履物を脱ぎながら銀はふと我に返った。
自分が今、いつもと変わらぬ様子で光に接しているという事に気付いたのだ。
光は光であり、たとえどのような者であれ思いは揺るぎ無い。
実のところあのような話を聞かされても、今一つ信じ切れていない部分もある。
突然やって来た余所者の光を不審がっているだけなのではないかとも思っていた。
だがそうではないと思い知らされる出来事があったのは、それからすぐ後の事だった。
それは銀を絶望の沼へ叩き落とし、荒廃した心を植え付け、今まで銀の中にはなかったどす黒い思いを抱かせる切欠となった。