Home Sick Child14

「蓮二」
「…え?」
「また目、開けて寝てる。携帯鳴ってるよ」
目の前で大きな音を上げて鳴り続けている携帯電話にも気付かなかった。
そんな様子に精市にまで呆れられてしまった。
しっかりしなければ。そう自分に一喝して電話を受けた。
日本を離れるにあたり、弦一郎は携帯電話を用意してくれた。いつでも連絡が取り合えるように、と。
今朝、弦一郎はこの家を出て行った。精市は最後まで精一杯の笑顔で弦一郎を送り出した。
その後少し発作を起こしかけたが、不安定な気持ちがそうさせただけで今は回復して張り切って部屋の掃除をしている。
電話の相手は空港近くのホテルに滞在している弦一郎だった。
明朝早くに出発する為、跡部が用意してくれたらしい。
精市に代わろうかと言ったがそれは断られた。
どちらかといえば弦一郎の方が淋しがっているのだろう。
声を聞けば帰ってきたくなるなどという軟弱な精神ではないにせよ、やはり心が残ってしまう。
精市の様子を自分経由で聞きだしただけで電話を切った。
その直後だった。廊下の端で何か物音がしたのは。


「どうした精市。雑巾でも踏んで転んだか?」
廊下の突き当りには洗面所がある。
そこへ雑巾を洗いに行ったのだろうと、物音がした方へと足を進めた。
「お…おい精市?!」
予想に反して、雑巾を踏んで無残に転げる姿を想像していた思考は一瞬にして凍りついた。
左胸を掻き毟り這いつくばるその姿は、発作の時のもの。
「大丈夫か?!しっかりしろ精市!!」
慌てて台所に戻り、水の入ったペットボトルと薬の入ったケースを手に精市の元へと駆け寄った。
小さな発作なら薬を飲んで暫くすれば落ち着く。
だが水を飲ませようとしてもすぐに吐き出してしまう。
頭の中に最悪の状態を示す言葉が浮かんだ。
「…………大発作?」
以前発作で倒れる姿を目の当たりにしたがその時以上に苦しそうで、真っ青になった顔は死人を思わせるようなものだった。
こうなってしまえば一刻も早く病院に連れて行かなければ手遅れになってしまうかもしれないと、ポケットに突っ込んだままの携帯を取り出し救急車を呼ぶ三桁の数字を押した。
電話の相手に住所と病状を努めて冷静に伝え、電話を切った後再び襲い来る現実にパニックを起こしてしまいそうになった。
こんなに苦しそうにしているのに何もしてやれない。あいつは、弦一郎はいつもこんな気持ちでいたのだろうか。
知らせなければと思った、まだ日本にいる弦一郎に。今なら帰ってこられるかもしれない。
そう考え再び携帯を手にして登録された弦一郎の携帯番号を呼び出した。しかしその動きは掴まれた腕に阻まれる。
「……精市?離してくれ。弦一郎に連絡―――…」
携帯を手にしている右手首は骨に食い込むほどに強く握り締められた。
「…駄目だ…………絶対……っ…に……知らせないで…くれ……絶対に…っ」
「何を言って……今ならまだ…」
「―――っ駄目だ!!」
本当に苦しい筈の精市が驚くほどの強さで言葉を遮る。
必死の形相にそれ以上何も言えなくなり、とにかく救急車が到着するまで少しでも楽になればと抱き寄せて背中を擦ってやった。
弦一郎と離れて暮らす事は、精市にとっては命取りなのだ。
だがお互いの思い遣る気持ちを知っている。
どうする事もできない板ばさみ状態の中で、今は精市を楽にしてやる事が大事だとイライラを募らせ救急車の到着を祈った。


救急車が到着するまでに要する時間は約六分と言われている。
この住宅街にサイレンの音が聞こえ始めたのは電話をしてから七分半後。
遅い!
不甲斐無い自分の行き場の無い怒りを到着した救急隊員への八つ当たりで晴らしてやろうと、出会いに一発怒鳴り散らしてやる。
すぐさま病院へ搬送された精市は一刻の予断も許さない状況だそうだ。
次に大きな発作が起きれば命も危ないかもしれないと弦一郎が言っていた事を思い出した。
やはり、精市の事を思えばこの事を知らせた方がいいかもしれない。
だが精市は頑としてそれを許そうとはしなかった。
CCUに収容された精市は医師相手にうわ言の様に弦一郎に知らせるなと言っているそうだ。
固く閉ざされた自動ドアの前で、携帯のディスプレイを見つめた。
弦一郎の携帯番号が表示されている。あとは通話ボタン一つで通じる。
親指が動いた、その時。後ろから大きな金切声が聞こえてきた。
振り返ればガウンを着たCCUのナースが仁王立ちしている。
「何考えてるんですか!病院内で…しかもここで携帯電話の電源切らないなんて!!」
銀色の携帯はひったくられ、勢い良く電源を落とされてしまった。
そしてそれを付き返し、ナースはCCU内へと消えていく。
あまりの勢いと迫力で言い返す事もできず、また弦一郎へ連絡しなければという気持ちも引っ込んでしまった。
数分後、冷静になって自分の姿を見て自嘲的な笑いがこみ上げてきた。
震えている。
精市をここに連れて来るまでは何かを考える暇もなく、ただ必死になっていた。
今冷静になってみれば漠然とした恐怖が襲ってきたのだ。
軽々しく精市の面倒をみると言ってしまった事への己の愚かさ加減が今更ながらに身にしみてきた。
精市の面倒を見るという事、それは命を預かるという事そのものを意味している。
何をおいても弦一郎から精市を奪ってしまう事は許されない。
「………何をやっているのだ俺は…」
震えが止まらず自分自身の足で立っていられない。
CCU前の廊下の壁にもたれかかり、そのままズルズルとしゃがみ込んだ。
頭を抱え、目の前をバタバタと忙しなく走り抜けるナースを見ないようにした。
前に発作で入院した時は隣に弦一郎がいたから何とか耐えられていたのかもしれない。
「これでは…俺の方が先に参ってしまう………」
落ち着け、と。
何とか立ち上がり回れ右すると病院の正面玄関へと向かった。
外の空気にあたれば少しは気が落ち着くかもしれないと。
大きく深呼吸を一つして気持ちを落ち着け、携帯の電源を入れた。
途端に鳴り響く着信音。
驚いてディスプレイを見れば、相手は弦一郎だった。
何というタイミングだろう。
五回目のコール音を聞いてから通話ボタンを押した。
「もしもし」
『蓮二か?今大丈夫か?』
「あぁ……何か用か?」
努めて冷静になろうと、ついいつもよりも不機嫌な声になってしまう。
『いや、特に用があるわけではないのだが…幸村はどうしている?』
いきなりの核心をつく質問に一瞬声が出なかった。
言ってしまおうか。
今、病院だと。
大きな発作を起こして危険な状態だと。
しかし口を開こうとした時、先刻の精市の姿が思い出された。
死の瀬戸際で、なお弦一郎を思っていた事を。
「精市ならはばかりだ」
咄嗟に口をついた言葉はそれだった。
『………本当か?本当に何もないのか?』
「ああ」
『そ……そうか…俺の取り越し苦労ならいいのだ』
「取り越し苦労?」
合点のいかないその言葉に思わず聞き返してしまった。
さっさと切ってしまうのが得策だというのに。
『いや、何でもない。少し嫌な予感がしたのだ。幸村に何かあったのではないかと』
「え…んぎでもない……」
縁起でもない、と怒ってやろうかと思ったのに出てきたのは情けないほど小さな声。
冷や汗が背中を伝うのを感じた。
『…悪かった。変な話でわざわざ電話をして』
ではな、と小さく漏らすと弦一郎は電話を切ってしまった。
何て勘の良さ、いや、もう勘なんて野性的なものじゃ説明はつかないだろう。
遠く離れていても弦一郎には解ってしまうのかもしれない。
精市の些細な異変も。
精市はいつも真っ直ぐに瞳を見て話してくる。
自分よりも少し背の低い精市の顔を覗けば、綺麗な瞳とぶつかった。
とても深くて、時々とても哀しい色に見えた。
何故か。
たぶん、自分の置かれている立場が心に引っ掛かっているからだろう。
そんな精市の些細な変化をいつも弦一郎は見逃さなかった。
普段は鈍感な弦一郎も精市には驚くほどの勘のよさを見せる。
二人の積み重ねてきた時間がそうさせるのだ。
やはり黙ってはいられない。
携帯を取り出しリダイヤルボタンを押した。
数回のコール音の後、先刻の電話の主の声がする。
『蓮二?やはり何かあったのか?』
「……すまない。…嘘を………ついてた。本当は今病院だ」
『病院?……幸村は?!今どんな状況なのだ?!』
「………CCUに入ってる…まだ詳しい説明は受けてないから解らない…だが………」
危険な状態だ、とははっきりと言わなかったが弦一郎には充分伝わったらしい。
『すぐに行く!!』
「弦一郎!!……落ち着け…本当にそれでいいのか?…精市はうわ言のようにお前の知らせるなと言っている……
解るか?今あいつが何を望んでるか……」
『……解った…』
電話口で噛み付かんばかり勢いで言っていた弦一郎も少し冷静になってくれたのか、そう一言残し電話を切った。
再び流れる無機質な音。
これでよかったのだと電源を落とし、再び病院の中へと戻った。

幸い適切な処置のお陰で精市は事なきを得た。
それでも暫くの入院が必要だという事で、一旦家に帰り入院に必要なものを大きなバッグに詰めていく。
ふと、携帯の電源を切ったままだった事を思い出して慌てて電源を入れた。
メールが入っていないかと問い合わせると、一件。
相手の想像はついていた。
「やはりな……」
弦一郎からだった。
操作の度に鳴る無機質な電子音は邪魔なので消してしまっている。
カチャカチャとボタンを押す音が自分以外誰も居ない部屋に響いた。
件名は幸村に伝言。
本文を見れば一言、側に居てやれなくてすまない、だった。
精市の気持ちは充分に伝わっていたらしい。
感情のまま帰ってくる事はしないという事だろう。
だったら安心させてやらなければとリダイヤルした。
精市の無事を知らせる為に。


【続】

 

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