Home Sick Child13

それから話は驚くほどの速さで進んでいった。
跡部から連絡が入り、三日後弦一郎は強化合宿の為に日本を離れる事になった。
相変わらず強引で強行だ、と文句を言いながら荷造りをする弦一郎を手伝う。
精市は少しでも安心させようと夕食の片付けをしている。
それが安心させる事に繋がるか不安を植えつける事になるかは、割れてしまった食器の数々が物語っているが。
「弦一郎…今は海外でも梅干ぐらいは手に入るぞ」
「う…うむ……しかし俺はこれがなければ飯が終わった気がせんのだ」
「荷物が増えるだけだろう。我慢しろ」
「真田」
下らないやり取りをしていると、いつの間にか片付けを終えた精市が背後に立っていた。
その手にはポラロイドがある。
「はい、撮って」
「む…俺がか?」
突然差し出されるカメラと精市の顔を見比べ、弦一郎が渋い顔をしたが言われるがまま構えた。
「そう。はい蓮二はこっち」
「何?俺も写るのか?」
「早く早く」
言われるがまま精市の隣りに立ち、写真に納まる。
機械からべろりと出てくる紙をしばらく眺めていると、微笑んだ精市といつもと変わらない自分の顔が浮かび上がってくる。
「これも荷物に入れておいてね」
ようやく突然の写真撮影の意味が解った。
呆気に取られていたが弦一郎も言われるまま、持って行くつもりをしている手帳にはさんでいる。
「そうだ、蓮二これを…」
「何だ」
差し出された紙に書かれていたのは精市を思っての事ばかりだった。
こんな時はこう対処してくれ、こんな症状が出たらこの薬を飲ませてくれ、
休診日や夜中に何かあったらこの救急センターに問い合わせろ等。
弦一郎が一人精市を残して行くのが不安な気持ちはよく理解できた。
精市も本当は不安で不安で仕方ないのだろう。
最近よく眠れないのだと言っていた。
だからどうしても言えなかった。先刻起きた、あの出来事。



細い裏路地。
そう、ここは精市に拾われた場所。
買物を頼まれて商店街に行った時、ふとあの影を見つけてしまった。
きっと誰も気づかなかっただろう。ずっと一緒にいたから気づいたのだ。その影に。
「………赤也…」
商店街にある料理店の裏口から続く路地。
その片隅にあるゴミ捨て場で倒れているその影。
それはずっと怯え続けていた影の正体だった。
「柳さん……」
ボロボロになったその姿を見ても、手を差し伸べる気にはなれなかった。
しかしそのまま立ち去る事も出来なかった。
「何をやっている」
「…ってー……あいつら体格差も考えず思いっきり殴りやがった………」
思いきり殴られたらしい左頬は青紫色にはれ上がっている。
心配も呆れもない、ただ無の感情に支配されていた。
「まだ危ない事をやっているのか」
「それしか稼ぐ方法なかったから…でももう足洗う」
「俺は帰らないからな」
守らなければならない大切な存在がいるのだから。
逃げるばかりでは何の解決にもならない。
そう思ったから、この路地に足を踏み入れたのだ。
きっと誰も気付かなかったであろう、ここに男が倒れていたなんて。
でも気付いてしまった。一瞬感じた不穏な空気に。
誘われるまま裏路地に入ると、やはりそこに居た。
この世で一番憎くて、そしてこの世で一番かけがえのない存在が。
「俺はもうお前の元には帰らない」
もう一度宣言した。
自分自身に言いきかせるように赤也に言い放つと、意外な言葉が返ってきた。
「………解った」
「―――え?」
あれだけ執着していた人物からの、あまりにも呆気ない別れの宣言。
自分から言い出した事なのに、何故か心に大きな穴が開いた。
「…すみませんでした………今まで…全部…乾さんの事も…………」
乾、乾貞治は親友の名前。
一番の被害者かもしれない。
「今更謝ったとしてどうなる!あいつは―――…」
「確かにな…けど大丈夫っスよ…………今は普通に生活してるし…アンタにも会いたがってる」
「……本当か?」
殴られた腹が痛むのか言葉は途切れ途切れ。
だが何かを伝えようと瞳は真っ直ぐに見据え、動けなくなってしまった。
「………俺は一生許してもらえない…ぐらい…解ってた…から……平気………だ…よ……ハハ……アンタは今…幸せなんだろ…?……あの…幸村とかいうやつのとこで…」
黙って頷けば、穏やかな笑顔が返ってきた。
そして一言。
「………ならいい…っス…」
小さく言い残し、赤也は立ち去った。
それを呼び止めることもなく、見送る事しか出来ない。
その背中は、一緒に住んでいた頃よりも小さく感じた。
赤也は一瞬足を止め、振り返る。
「あ…そだ。誕生日…おめでと……今年は…一緒に祝えないけど…これだけは言いたかった」
そう言われて初めて気付いた。明日が十九回目の誕生日だという事に。
そして、出会ってから初めて二人離れた場所で誕生日を迎えるという事に。

弱っていた赤也の姿が忘れられない。
誰よりも側にいて、誰よりも大切な存在だったはずなのに。
歪みが見え隠れする赤也の感情も受け入れるつもりだったのに。
それでも逃げ出してしまった己の弱さを何度も悔いた。
狂気とも思える独占欲を、心の奥底では喜んでいる部分もあったのだ。
だから別れを切り出した時、本当は縋りついてくれるものだと思っていた。
いや、それを望んでいた。
しかし別れをあっさりと受け入れられ、本当は自分の方が捨てられた様な感情に支配されていたのも事実だった。
一人に出来ない。一人にさせたくない。
あんなに弱っている姿を見せられてしまい、一瞬でもそう思っている事に今の自分の気持ちが一体どこに向いているのかを悟ってしまった。


「何故名字で呼ぶ」
「だって…」
あれは家を出てすぐの頃。
突然赤也は兄と呼んでくれなくなった。
兄と呼ぶ事を照れているのかと思ったが、違うらしい。
「だって、何だ」
「いつまで経っても弟扱い受けてる感じがするんだもん…」
「なら名前で呼べばいいだろう」
「いいじゃん別に!!」
「他人行儀な感じがする」
しかしそれが狙いだったのだ。
後々に気付いた事だったが、赤也は家族としてではなく一人の男として自分を見たかったのだろう。
弟をなくした淋しさと、同時に手に入れた恋人のくすぐったさ。




「……赤也…」
見なくなっていた赤也の夢を久しぶりに見て目を覚ました。
悪夢ではない、優しい夢。
無意識に流れた涙は苦いものではない。濡れた頬を拭い、もう一度目を閉じた。
明日はいよいよ弦一郎が家を離れる日という明け方の事だった。

【続】

 

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