Home Sick Child11

平和だった。
精市の体調は少しの不安要素もなく、至って元気。
弦一郎の仕事も忙しいながらに充実しているようだ。
世話になりっぱなしでは申し訳ないと働きにでようと思ったのだが、それは弦一郎に止められてしまう。
「お前の仕事は幸村の子守だ。ああ見えて淋しがり屋だからな…俺が忙しい間ずっと側にいてやってくれ」
本当にお互いの事しか目に入っていないのだと、思わず苦笑いしかかえせなかった。

あれから暫くしたある日。
一通のエアメールが届いていた。
弦一郎宛てということだけを確認し、リビングのチェスト上に置いた。
今は仕事中で部屋から出てこない。
もうすぐ昼食だからその時に渡せばよいだろう。
精市は午前中リハビリの為に病院へ行っている。
もう終わる頃だろう、と前掛けを外して迎えに行く準備をしていると弦一郎が部屋から出てきた。
「幸村の迎えか?」
「ああ…少し早いが買物にも行きたいからな。お前は?仕事はもう終わったのか?」
「いや、休憩だ。む…エアメール?」
「お前宛てだ」
財布を出そうと弦一郎が立っているすぐ側にあるチェストに近付く。
「……跡部から?わざわざ何の用だ…」
友達からだろうか、と弦一郎の独り言などさして気にせず引き出しから財布を取り出しポケットに入れる。
だが顔を上げれば見る見る表情が変わるのを目の当たりにする。
「どうした弦一郎」
「いや……何でもない」
弦一郎らしからぬ歯切れの悪い物言いに、正面を向き肩を叩く。
「何でもないという顔ではないぞ。何があった?精市に内密な話か?」
「…ああ……この手紙が届いた事は幸村には言わんでくれ」
「なら俺に話してみろ。力にはなれんが話を聞くぐらいはできる」
迎えに行く前に夕食の買い物へ行こうかと思っていたが、
それどころではないと明るいリビングに置かれたソファに向き合って座った。
ローテーブルに置かれたエアメールの差出人はKeigo Atobeとなっている。
「…跡部と言えばお前が筆耕係をしている企業の社長だな」
「跡部は学校は違ったがテニスの大会でよく会っていたのだ。大きな大会の上位に必ずいたからな。お互いよく知っていた。幸村の病気が解り、俺が時間を束縛されるのを嫌った時今の仕事を世話してくれたのもあいつだ」
「それで?そんな相手が何を言ってきた」
そう訊ねるものの暫くは渋い顔をしていたが、意を決したように口を開く。
「今度跡部の会社がスポンサーとなってテニスの大きな国際試合を組む事になったらしい……その招待選手として俺が選ばれた」
「だがお前は…」
「ああ…もう本格的に打っていない。」
以前弦一郎が言っていた。
精市が二度とコートに戻れないと解った時、ラケットを置いたのだと。
今は副業的に時々テニススクールのコーチをしているが、自分の為にラケットを振ることはなくなっていた。
「お前なら一年のブランクもすぐに取り戻せるだろう。それにこの試合はプロとして世界に羽ばたくチャンスだ」
「だが幸村を置いて日本を離れるわけにはいかない」
プロになれば日本を離れる事が多くなる。
帰国しても家にいられる時間は極端に少ない。
今の状況を考え、弦一郎がこの話を受けるとは考え辛い。
だが弦一郎はプロになる事を反対され、家を出たという経緯がある程にテニスへの思い入れがある。
ここで諦めてしまうのは惜しい。
「お前はそれでいいのか?自分の為にお前が諦めたと聞けば精市は悲しむぞ」
「あいつは怒るだろうが…この話は断る。それが一番だ」
そうは思えなかった。
だが決心したのならばこれ以上口を挟むわけにもいかない。
「ありがとう蓮二」
「何だ改まって」
「正直…俺一人ではどうにもならん事もあったのだ。お前がいてくれて本当によかった」
「褒めても何も出んぞ」
立ち上がって、迎えに出る用意をする振りをして弦一郎に背中を向ける。
照れ隠しのつもりだった。
だが弦一郎は正面に回りもう一度視線を捉えてきた。
「あの日も…俺はただお前が救われるのならと思ってやった事だ。お前が気に病む事など何も無い。幸村がお前を大切に思うのと同じように俺もお前を大切に思っている」
「弦一郎…」
相変わらず迷いの無い真っ直ぐな瞳だ。
精市と同じ、強くて綺麗な。
捉えたまま放そうとしない。
「過去に何があったのかは知らないが、俺たちはいつまでもお前の味方だ」
「ありがとう。俺もお前たちに拾われて本当によかったと思っている」
それは心の底からの思いだった。


それから家を出て再び病院へ向かった。
精市は最初に患った病気が原因で四肢に少し障害が残ってしまい、リハビリを怠れば日常生活に支障をきたしてしまう。
心臓への負担を考えれば無理はできないが、週に一度は必ず病院に通っている。
いつもは迎えに行くまで大人しく会計前に置いてある長いすに腰掛けて待っている。
だが今日はすでに院内にその姿はなかった。
会計はまだ終わっていないはずだ。
精市は一銭も持って出ていない。
もう随分前に終わっていたのだろう。
会計カウンターに精市の名が大きく書かれている。
この病院では何度呼び出しても来ない患者の名前を会計横のホワイトボードに書いているのだ。
しばらく辺りを見渡していると顔見知りの受付嬢を見つけた。
「すみません…」
「あ、幸村さんのお迎えですか?」
「どこへ行ったか知りませんか?」
「さぁ…さっきまでそこでTV見てましたけど…」
「幸村さんならさっき商店街の方に向いて歩いていったけど?」
話を聞いていた隣の受付嬢からそう教えられ、会計を済ませ慌てて商店街へと向かった。
何故か胸騒ぎがする。
その商店街は、あの男と再会した場所だからか、とても嫌な予感がする。
お願いだからこの幸せを壊さないでくれ、神様。
しかし普段信じてもいない神様に縋ろうなんて虫が良すぎたのかもしれない。
商店街の人ごみを掻き分け走り回って見つけた精市。
嫌な予感は、的中してしまった。
本当に、この世には神も仏もいないのだろう。
それまでの不安定な幸せの調和が背後から音を立てて崩れていくのを感じた。
「精市!!」
振り返ったその体を抱き寄せ、素早く背後に隠すように立ちはだかった。
僅かに背の低い精市が、珍しく焦った様子で顔を覗き込んでくる。
「ごめん蓮二。勝手に病院を出て…随分探させただろう」
その事で怒っていたわけではないが、今はとにかくこの場から離れたかった。
精市の目の前にいたのが、あの男だったから。
薄笑いを浮かべ、じっと精市とのやり取りを眺めている。
「この子、赤也っていうんだ。つい話し込んじゃってね」
これは偶然なんかじゃない、絶対に。
いつだったか。
そう、あれは弦一郎の誕生日だ。
精市と一緒に歩いていたところでも見たのだろう。それで関係がある事を知ったから、こいつは精市と接触を謀った。
いつもそうだった。
自分と関わりのあるものは全て抹消しようとする。
それほどまでに凄まじい独占欲を持っていたのだ、この赤也という男は。
危険だと察した。だから逃げたのだった。
しかしこの出来事が再び警告をする。
逃げても無駄だよ、と。
赤也は人懐っこい性格だった為、昔から目上によく可愛がられていた。
弦一郎に頼る生活の中で薄れていたのかもしれないが、元々はとても面倒見のよい性格らしい精市も赤也に懐かれたのだろう。
駄目だ。
この笑顔にどれだけの人間が騙されて、そして生きた屍への道を選ばされた事か。
それは親友を含めた、自分に関わった全ての人に当てはまる事。
精市たちを何があっても守ると決めたのだ。再び赤也の方へ向き直るとキツく睨みつける。
「二度と俺達に関わるな!!……今度精市に何かしてみろ………お前を殺す」
そう低く言い捨ててその場を逃げるように立ち去った。
やはり最後に吐かれた言葉が耳から離れない。
「そりゃ楽しみっスね……アンタに殺してもらえるなんて」
狂ってる。
しかし本当に狂っているのは、まだこんな男の事を心のどこかで求めている自分だろう。
何の事か訳が解らないといった様子の精市の手を無理矢理引っ張りその場を立ち去った。
いつまでも消えないあの男の影を振り切るかの如く。

「やっぱり…」
「え?」
「…あの子のこと知ってるんだね、蓮二」
「知らん……」
ただ一言、それしか返す事ができない。
この瞳に嘘はつけない。
しかし、本当の事なんて言えるはずが無かった。
「……蓮二はいつかどっか行く気?」
「……は?」
唐突に質問を変えられ思わず素っ頓狂な声が出てしまう。
「何だ突然…」
「どこにも行かないよな?ずっと一緒だよな?」
何の冗談かと思ったが精市の表情は至って真剣だった。
語尾に疑問符はついているが、命令ともとれる口調だ。
それは精市がよく見せる態度の一つ。
良くも悪くも、精市は人を思うままに動かす事が得意なのだ。
そんな風にしなくとも、二人の側を離れることはない。
そう伝えれば安心したように表情を緩めた。

【続】

 

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