Home Sick Child10

「……ゃ……………あか…………」
眩しい光が部屋を支配している。
気がつけば朝になっていた。
「おはよう蓮二」
真っ白な朝日の中からする声は夢の中にいた人物ではない。
あいつは名前で呼んだりなどしない。
「弦一郎………」
いつもと変わらない様子で窓から外を眺めているのを見て、
ほっと安心したのと同時に、酷い後悔の波が押し寄せてくる。
とんでもない裏切り。
精市の気持ちを知っていながら、弦一郎に関係を要求してしまった事。
昨夜はただ何も考えたくなくて、あの男を忘れ去れるのならどんな方法だってよかったのだ。
誰でもよかったのだ。
この醜い姿を見た時、あいつはどうするのだろう。
軽蔑するだろうか。
大嫌いだと罵るだろうか。
どんな罰でも構わない。
甘んじて受けよう。
この罪深き行為が許されるのなら。
だけど、もう二度と直視することは出来ないだろう。
あの澄んだ瞳を。
「体は…大丈夫か?」
「…平気だ………悪かった…あんな…あんなこと強要して…」
謝って許される事じゃない。
理由はどうであれ関係を持ってしまった事は紛れもない事実。
朝日が射し込む窓辺に立っている為逆光でよかった。
弦一郎が今どんな表情をしているのかここからでは判らないから。
「謝るな…今まで一人で抱え込んで辛かったんだろう?お前はもっと人に甘える事を覚えた方がいい」
どうしてこんなに優しくできるんだろう。
弦一郎が精市を愛していないはずがない。
だったらどうして自分の事を抱いたのだろう。
昨夜はこの上なく優しかった。
同情。
これ以上、傷つけない為に。
自分だって傷ついているはずなのに。
どうしてこんなに優しくできるのだろうか。

それから弦一郎は、溢れ出した涙が乾くまでずっと側にいてくれた。
時計は正午を差している。
もう、精市を迎えにいく時間だというのに。

そして泣き疲れてそのままベッドで眠ってしまった。
時計は午後二時を示している。
弦一郎は精市を迎えに行ったのだろうか、この部屋からは姿を消していた。
まだ体から消えない夜の感触を拭い去ろうと部屋を出た、正にその時。
思いがけない人物と廊下で鉢合わせた。
「……せ…ぃ………ち」
「ただいま」
そこにいたのは、病院にいるはずの精市だった。
「驚いた?夜勤明けの看護師さんに送ってもらったんだよ」
その屈託の無い笑顔に返すものなどなくて、思わず顔をそらしてしまう。
喉が干上がり声が張り付いて出てこない。
「蓮二?どうかした?」
小首を傾げ近付いてこようとするが何も言えない、身動きが出来ない。
ただその場に立ち尽くしていた。
少しずつその距離を縮めてくるにつれ、精市の表情が歪んでいくのが解った。
「…それ…………」
首筋や胸に付けられた赤い跡を見つけ、精市は言葉を失った。
唇を噛み締め俯く姿にかける声などない。
言い訳も出てこない。
ただお互い目を逸らしたまま沈黙だけが空間を支配していた。
しかしそれを先に破ったのは精市だった。
「なるほど。俺がいない隙に二人よろしくやってたわけだ」
「精市…これは……」
精市はすべてお見通しだと言わん瞳で睨みつける。
それ以上に弦一郎の事はもっと解っているだろう。
彼が無体するような男ではないという事は。
だとすれば怒りの矛先がこちらに来るのは明白。
精市はこれ以上顔も見たくないとばかりに踵を返し、自室に入ってしまった。
出て行こう。
精市を裏切ってしまった今、このまま世話になるわけにはいかない。
一先ず体に残る昨夜の情痕を拭う為風呂に入る。
体を巡る、汚れた血を浄化するように冷たいシャワーを頭からかぶった。
徐々に冷静な、いつもの自分が戻ってくる。
そしてシャワーを浴び終え、部屋に戻って自分の服に着替えると書き置きを残して家を出ようと決心した。
きっともう精市はあの笑顔を向けて話してはくれない。
そう思い心苦しいが黙ってそっと去ることにする。
しかしそれは弦一郎にあっさり見破られてしまった。
「どこへ行くつもりだ?蓮二」
「え…?」
突然背後から声をかけられ、ペンを滑らせていたメモ用紙が音を立てて破れてしまった。
あまりに突然のことで動揺から上手く言葉が紡げずにいる。
「…お世話になりました……か…」
手の中にあったメモ用紙を取り上げられ、弦一郎はその文面を読み上げる。
「………幸村に何か言われたのか?」
黙って首を横に振る。
何を言われたわけではない。
しかしあの酷く悲しげな瞳が全てを語っていた。
「もう…これ以上世話にはなれない……」
「……昨日の事気に病んでるのか?恋人がいるのに他の男に―――」
「俺の事はっっ!……っ…俺の事なんかどうでもいい……ただ…」
声を上げる姿など一度も見せたことがない。
弦一郎は珍しいものを見るような瞳を向け、先を促した。
「ただ?」
「………精市の事を考えると…」
「何故だ?」
その言葉に完全に頭に血が上ってしまった。
「よくそんなことを言えるな…っっ」
勢いよく胸倉を掴み睨み上げる。
本当に精市の気持ちに気付いていないというのか。
それとも気付いていてそんな無神経な事が言えるのか。
どちらにせよその言葉は聞き捨てならないと渾身の力を込めて掴みかかる。
怒りで我を忘れてしまいそうになったその時、後ろからする明るい声にはっと振り返った。
「二人とも何やってるの?」
振り返るとそこには、いつもと変わらない精市の微笑みがあった。
その表情は晴れやかなもので、この数十分の間に何があったのかと呆気にとられた。
「お茶の用意できたから俺の退院祝いしよう」
その時お湯が沸騰したのかヤカンの笛が高らかに鳴り響く。
慌てて走っていこうとする精市を制して弦一郎がキッチンへと走っていく。
冷たい廊下に嫌な沈黙が流れる。
「……すまなかった…」
それ以外言葉が見つからない。
とにかく謝りたかった。
精市を酷く傷つけてしまった事を。
裏切ってしまった事を。
謝ってすむ問題ではない事はわかっている。
しかし精市の返答は思いもよらないものだった。
「蓮二…出て行くなんて言わないよね?ずっとここにいるよね?」
「え……?」
耳を疑った。
まさか精市の口からこんな台詞が出てくるなんて思わなかったから。
「謝るな蓮二。俺はずっとお前がこの家にいてくれればそれでいいから」
「精市…」
「俺があいつを思う以上に…お前の事も大切に思ってる。二人とも失いたくない…だから俺は裏切られたなんて思ってない」
「精市…違うんだ。…お前が想うように俺は弦一郎のことなど想っちゃいない…昨日は誰でもよかった――」
ここまで言葉を吐き、はっと我に返って口を押さえた。
この汚れた思いで弦一郎と関係を持ったとすればきっともう許してはくれないだろうと。
「それでもだよ。お前は俺にとっての初めての友達。だから…失いたくない」
また溢れ出した涙が止まらなかった。
「ずっと一緒にいてくれるよね?」
そう言ってもう一度笑顔を向けてくれた精市に、情けないほど泣いて縋って。
また、この瞳に救われた。
愚かな行為を許してくれただけじゃない。
傷ついていないはずが無いのに、まだ友達だと笑いかけてくれた精市を。
何があっても傷つけまいと心に誓った。
そして、頭の片隅に残るあいつから。
何があってもこの二人を守ろうと密かに誓った。
もう二度と、大切な存在を失わないように。

【続】

 

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