WISH!7
§:蓮二
キスをしていいか、と聞かれて激しく動揺してしまった。
俺の知らない人のようだった。
大人の、男の顔をしていた。
あんな顔をした赤也なんて知らない。
だから悔しくて条件を出してやった。
しかし赤也にばかり頑張らせるのも酷なので、俺も頑張る。
納得はいっていないようだったが、了承してくれた。
そして赤也が我が家にやって来て、柄にもなく緊張していたのかもしれない。
着替える事も忘れていたのに気付いたのはそれから二時間も経過した後だった。
夕食の準備が出来たと呼びに来た姉に指摘され、ようやく気付いた。
自分がまだ制服姿だった事に。
食事の為にダイニングに下りようかと立ち上がったところで赤也が言った。
「あのっ…トイレ行きたいんっスけど…」
「ああ、廊下を出て左だ。ドアに書いてあるからすぐに解る」
慌てて出て行く後姿を見送り、ふと思う。
そういえば家に来てから一度も行ってなかったな。
遠慮して我慢をさせていたなら悪い事をしたな…もう少し気を回してやればよかったか。
そうだ、今のうちに着替えるか、とクローゼットの中からシャツやズボンを取り出した。
先にズボンを履き替え、Yシャツの前ボタンを寛げ脱ぎかけたところで赤也が戻ってきた。
「うぇえっっ!?」
「すまんな、すぐに着替え――」
「すすっ…すみませんでした!!」
「…赤也?」
何なんだ?
トイレから戻ったと思えば奇声を上げて出て行ってしまった。
誰かと間違える…わけもあるまい。
俺はドアを開けて廊下を覗いた。
「どうした?早く入れ」
ドアの前で蹲っている赤也の腕を取って部屋の中に促すが、凄い勢いでドアの方に顔を背ける。
「ちょっ…あのっ、さっさと着てください!上!上!!」
「変な奴だな…俺の裸など別段珍しくないだろう?部室でいつも見てるではないか」
何故ここまで動揺するか、さっぱり解らない。
とりあえず着るつもりにしていたシャツを羽織りボタンをはめていく。
「ほら、着たぞ。全く、何だと言うんだ」
「…アンタそれ…わざと言ってる?」
「何がだ?」
「……天然かよ」
さっぱり解らない。
少し様子はおかしいが、あまり気にせず俺は赤也を連れて一階に降りてダイニングに入った。
母に会うのは初めてなので赤也は頭を下げて挨拶している。
実は俺の話を聞き、姉以上に赤也に会う事を楽しみにしていたのは母だった。
昔から何でも姉のしている事が羨ましくて、その真似ばかりしていた所為か
並の中学生に比べて落ち着いた事に興味のある俺よりも、
中学生らしい赤也を好ましく思ったらしい。
そんな母の用意した夕食はいつもとは打って変わって洋食だった。
赤也が来ると聞いて張り切って作りすぎたのだという。
「…どうした?」
母の顔をぼんやり眺める赤也を席に着かせる。
「柳さん…お母さんソックリっスね」
それは会う人会う人全てに指摘される事だった。
しかし、
「お前もそっくりだったぞ」
年若く活発そうな印象の母君は赤也そっくりだった。
顔だけでなく、性格も。
だがそれが嫌なのか赤也は顔を嫌そうに歪める。
「げっ…それ言われるの嫌なんっスよねー…柳さんはいいなぁ美人のお母さん似で」
美人と言われ、上機嫌になった母は次々と赤也の取り皿に料理を盛っていく。
最初は面食らっていたが、元々物怖じを知らない赤也はすっかり母や姉の奇行にも順応していった。
大量に用意されていた料理を次々平らげていく様子に母は大喜びする。
「やっぱり男の子はこうでなくちゃねー。蓮ちゃん少食だから張り合いないんですもの」
「…だ、そうだ。また母の手料理を食べに来てやってくれ」
「えっマジっスか?!もう喜んで!!」
満面の笑みを浮かべ、美味しそうに食する赤也は確かに見ていて気持ちが良い。
そんな赤也をすっかり気に入ったらしい母は、冗談にならない一言を言ってくれた。
「もう赤也君うちの子になる?」
「あら、いいわね!私も大賛成ですわ」
「小母さんなんて呼ばないで、お母さんって呼んでいいのよ?」
「じゃあ私の事はお姉さんって呼んで下さいな」
なんて言い出した母と、それに便乗する姉に流石に赤也も動きを止めた。
たぶん頭の中にあるのは、俺と同じ考えだろう。
にぎやかな夕食も終わり、普段ならゆっくりと過ごす時間なのだろうが今日はそうもいかない。
再び部屋に戻り試験勉強を始める。
だが赤也にさっきまでの集中力がない。
「食休みするか?まだ腹がいっぱいなんだろう?」
「あー…ハイ。ちょっと食いすぎたっス」
「すまないな。赤也があまりに美味そうに食べるから母も張り切りすぎたようだ」
「いや、だってほんっと美味かったっスよ!お母さん料理上手なんですね。毎日あんな美味しいモン食えるなんて羨ましいっス」
「ならうちの子になるか?」
母の冗談に、更に悪乗りしてみる。
まあ母の事だ。
冗談ではなく本気でそう思ったのだろうが。
「…それって弟として?それともお婿さんとして?」
これは意外な切り返しがやってきた。
もう少し動揺するかと思ったのだが…ならば。
「嫁としてでどうだ?」
「……遠慮しときます…」
やはりこうでなくては。
さて腹ごなしに何をしようか。
三十分もすれば腹も落ち着くだろう。
「テレビでも見るか?」
「折角柳さん家来てるのにテレビもなー……あ、そうだ。他の部屋も見てみたいっス!」
「将来の我が家だからか?」
「…そのネタもういいって…」
…からかいすぎたか。
俺は赤也を連れて順々に部屋を案内した。
流石に各自の個室までは見せられなかったが、赤也は一階の庭が臨める和室を気に入ったようだった。
八畳が二間並んだ畳張りの部屋は普段は使っていない。
時々茶道の稽古や、着付けの練習をするのに使うだけの部屋で桐箪笥と茶道具一式が置いてあるだけだ。
綺麗な月が出ていたので部屋の電気は付けず、俺達は並んで縁側に腰掛け庭を眺める。
「うち、畳の部屋ひとつもないから新鮮っス。それに何かここすげー落ち着く」
「そうか。冗談ではなくまた遊びに来てくれ。母も姉も喜ぶ」
「アンタは?喜んでくんないの?」
「もちろん、一番喜んでいる」
暗がりでよく見えなかったが赤也が嬉しそうに笑った事だけは解った。
こうして赤也が俺の前で幸せそうに笑う姿を見る度に思う。
赤也を好きになって良かったと。
何をあんなにも迷っていたのかと、つい半月ほど前の自分を思う存分罵ってやりたい気分だ。
柳生の言った通りだった。
この手を取ってよかった。
今の俺は間違いなく幸せだから。
「柳さん?!」
「あ、すまん…」
縁側に足を投げ出すように座る赤也の手を無意識に握っていた。
酷く驚いた声に手を離しかけるが、逆に捉えられてしまう。
「…へへっ」
「どうした?」
「幸せだなーと思って」
噛み締めるようにそう言う赤也を本気で愛しいと思う。
「奇遇だな…同じ事を考えていた」
そう笑い返すと、赤也は握っていた手に力を込め体を引き寄せようとした。
何をしようとしているかに気付き、慌てて左手で動きを封じる。
顔に近付こうとする唇を押さえるように掌をかざした。
「約束は?」
「ちぇーっ…折角いい雰囲気だったのに…」
本当に。
下らない条件を出してしまったものだ。
しかし今されてしまっては心の平常が保てそうにない。
上半身を乗りかかられ、実は今も少し動揺している。
「ほんっとーに70点以上取ったらやってもいいんだよね?もう今みたいなの無しっスよ?」
「解った解った」
じりじりと迫り来る真剣な表情にますます心が荒らされてしまう。
だが目を逸らす事はできなかった。
「絶対?」
「ああ。絶対だ」
ようやく納得してくれたのか、赤也は音がしそうなほどにっこりと笑った。
その瞬間、突然部屋の明かりがついた。
「あらあら仲良しねえ」
いつの間にか部屋にやってきていた母がのん気に笑いながらそんな事を言う。
どう見ても不自然な、半分押し倒されているような体勢だというのに。
赤也もそれに気付き、慌てて半身を起こした。
だが母は全く気にしない様子で襖を開けて客人用の布団を出し始める。
「お布団どうする?お部屋に敷く?それともここで蓮ちゃんも一緒に寝る?」
「あ…ああ…じゃあここで…」
「そう。じゃあ二つ用意しとくわね」
本当に何事もなかったかのように布団を二組用意して、母はそのまま部屋を出て行ってしまった。
「何か…すげーお母さんっスね……」
赤也の呟きも尤もだ。
姉同様、母も祖母によって徹底した淑女教育を受けたと聞くが、一般的な道義観念は薄いらしい。
今の光景を見て何とも思わないとは。
「……嫌われて追い出されなくてよかったぁー…」
「何だそれは」
盛大に安堵の溜息を吐き、脱力するようにもたれかかってくる赤也に思わず吹き出す。
「いや、フツーそうでしょ?うちの息子に何すんのーっ!!って」
「お前の母親もか?」
「うちはフツーじゃないんで…っつーか…」
一瞬躊躇った後、頭を掻きながら赤也はとんでもない事を言ってくれた。
「バレてるんっスよねー…お袋に」
「何?!お前が言ったのか?」
そういえば初めて訪ねた日、引っ掛かる一言を言っていた。
大好きな先輩、と。
「いっ…言うわけないじゃないっスか!!」
「なら何故…」
「あー…告白した時部屋の外で聞こえたらしくって」
「大きな声で言っていたからな…それで?何も言われなかったのか?」
「言われましたよ」
赤也が表情を曇らせる。
何か反対されるような事を言われたのであれば…
「折角の萩尾望都の世界なのに何でアンタが相手なの…!!って心底悔しそうに」
「…は?」
「うちのお袋昔っから文学少女だったらしくて…男同士とかそういうのはどうでもよくって、それより中身のが問題みたいっス」
「…な…中身?」
「先輩は見るからに繊細そうで小説から抜け出てきたようなステキな少年なのに
相手がアンタみたいなガサツな現代っ子じゃダメよ!!
他にいなかったのかしらね、先輩の相手は!もっといるはずでしょ?!テニス部にも!!
風と木の詩の世界はアンタじゃダメ!って」
あまりに突飛な発想に今度はこちらが脱力する番だ。
とりあえず反対されたり怒られたりという事はないようだが、それにしても凄い母君だ。
何と言うか、流石は赤也を産んだ人だという妙な納得をしてしまった。
「どうしましょー柳さーん…うちのお袋に真田副部長なんて見せたら絶対そっちとくっつけようとしますよぉー!」
確かにあれも現実離れした、ある意味小説から抜け出してきたような奴だからな…
しかし今更弦一郎とどうこうなるはずもない。
「そんな情けない顔をするな」
今にも泣き出しそうな不安げな赤也の頬を軽く叩く。
「だって…」
「誰が何と言おうと俺が選んだのはお前なんだから。もっと堂々としていればいい」
泣いたカラスが何とやら。
赤也は満面の笑みを湛え抱きついてきた。
「大好きっス〜〜〜!!」
「こらこら…」
ふと気配を感じ、振り返れば玄関から縁側に続く廊下に姉が立っていた。
こんなところに何故、と手を見れば花を生けた花器を持っている。
玄関に飾る為に持ってきたのだろう。
決定的瞬間を見られてしまい流石に青くなったが、
「あらあら仲良しねえ。羨ましいわ」
母と同じ反応で何事もなかったかのように玄関に花器を置き、再び洋室へと戻っていく。
どうやら俺たちは家族に振り回されてはいるが、祝福もされているようだ。