光は至って真面目です。ボケなしの渾身の天然ボケ。
アンジェラス シルキー4
白石や千歳の心配は本当だったのか、と古びたビルを見上げながら謙也はごくりと唾を飲み込んだ。
治安が悪いなどというレベルではない。
アメ村の一角にある小さな古いビルの前で立ち止まり、財前はここです、と言う。
照明は半分落ちた状態で、まだ夕暮れ時の為に辛うじて明るいと認識できるが廊下の奥は薄暗い。
「こ…ここ?」
「はい。ここの三階です」
先程までの淡々とした態度を崩さず財前はすたすたと中に入っていく。
こんなところで一人にされてはたまらないと、謙也も慌てて後に続いた。
外から見る以上に中は恐ろしい印象がある。
狭い廊下にいるのは実に無国籍な人物ばかりでその大半が黒人だ。
だが財前は構わず中へ進み、廊下に溜まっている外国人から何やら英語で話しかけられているのだがそれも軽くいなしている。
ビルの奥にある狭い階段を上りながら、謙也は恐る恐る尋ねる。
「な…なあ、怖ないん?」
「え?何が?」
「何がて……」
こんな事にビビっていてかなり格好悪い気にさせられる。
しかし財前は何とも思っていないのか、ああ、と軽い調子で少し表情を緩めた。
「さっきの人らは別に悪い人ちゃいますよ。この近くのクラブのDJっスわ」
「そうなん?っていうか自分DJとか知り合いおるん?」
「正確にはうちの、やのぉてお兄ちゃんのなんですけどね」
「あ、兄貴おるんや?」
あんな人達がご友人の兄貴とは、一体どんな人物なのだ。
見え隠れし始める財前の深部に謙也は少し怖くなった。
だがこんな事でへこたれている場合ではない。
「っちわーっス」
三階に上がるとそのワンフロア全てがCDショップになっているのだが、雑然としていて本当にここは店なのかと問いたくなった。
そんな中に財前は躊躇いなく入り、軽い調子で挨拶する。
もう何が出てきても驚かないぞ、と気合を入れて謙也も店に入った。
「おぅ、光。ようお越し」
しかしそのレジに座っている人物に、酷く驚かされる。
「ユウ!?」
「…謙也?こんなとこで何やってん自分」
それはこちらの台詞だと謙也は大きく口を開けて呆然とする。
ダルそうな態度で店番をしていたのはクラスメイトの一氏ユウリだった。
彼女は読んでいた雑誌を横に置いて驚いた表情で謙也を見上げる。
「何、お前光と仲良かったっけ?初耳やで」
「いや、今日初めて会うたんやけど…っつーかお前こそ何やっとんねん」
「何て、うちここでバイトしてんやもん」
「バイト?!」
女の子がこんな渋い店でか、と驚かされる。
そんな謙也の内なる声は全て表情に出ていて、ユウは先に事情を話した。
「ここうちの兄貴の店やねん。ほんで、時々手伝いしてんの」
「ああ、そうなんや…」
財前に白石と千歳以外の仲の良い人がいるとは知らなかった。
それも自身も仲の良いクラスメイト。
思わぬ繋がりが出来たと密かに喜ぶ謙也を他所に、店内を物色していた財前にユウが声をかける。
「光ー、これ予約しとった新譜」
「ああ、ありがとう」
レジの下から出される紙袋を受け取り、財前が嬉しそうに口元を綻ばせた。
謙也は初めて見るその表情に思わず魅入ってしまう。
しかしじっと観察してくるユウの視線に気付き、慌てて話題を変えた。
「あっ、それ何?誰のCD?」
「え?ああ……知らんと思いますよ。かなりマイナーなインディーズバンドなんで」
財前の言う通り、紙袋の中から出てくるCD二枚はどちらも謙也の知らないアーティストのものだった。
だが謙也の思っていた通り財前は洋楽が好きなようでどちらもイギリスのバンドのものだ。
と、いうよりこの店自体このようにマイナーなCDやレコードばかりを取り扱う店のようで、
誰でも知っているような有名なアーティストのものは売ってなかった。
財前がこのような音楽の趣味がある為にここでバイトしているユウと仲良くなったのか、はたまたユウと仲が良くてこのような音楽を好きになったのか。
いずれにしても謙也にとって良い展開である事は確かだ。
「知らんでしょ?」
「あー…うん。けど俺もドラムやっとるし、音楽はジャンル問わんとめっちゃ好きやねん。今度聴かせてや」
「そうなんですか?へえ…」
本日初の好感触だ。
謙也はこの機会を逃すまいと言葉を重ねた。
「ラップが一番好きやねんけどな、バンド系も結構好きやで」
「ああ、ラップ聴くんやったらさっきの廊下で擦れ違うた人ら、結構有名なラッパーやし後で紹介しましょか?」
「いや、そんな、俺如きが滅相もないっ!!」
非常に有難い申し出なのだがこれ以上心臓に悪い事が続けば身が持たない。
ビビり症な己の性分を恨みながら謙也は全力で手を否定方向に振った。
財前は不思議そうに首を傾げながら遠慮せんでええですよ、と言うが謙也は最後までお願いしますとは言えなかった。
そんな押し問答を繰り返していると、やり取りを眺めていたユウが横から声をかける。
「光、門限いけんか?」
「あ、ほんまや。そろそろ帰らな」
キラリと光る腕時計を再び袖から覗かせながら財前が呟く。
そしてユウに挨拶すると暗い階段を抜け、外国人の溜まっている廊下に出た。
夜に近付き先程より数が増えている。
得体の知れなさは相変わらずだが、財前の言葉通り見た目より気のいい連中らしく気さくに声をかけていた。
笑いながら何か英語で話しかけられ、何か怒りながら言い返している。
謙也も英語は得意だが、こんな風に実践的な英会話などできない。
厳つい男相手に堂々と会話する姿に一つ年下であるが、尊敬の念すら覚えた。
それから取り留めない話をしながら心斎橋駅まで歩いた。
最初の堅い態度を考えれば随分打ち解けれたと思えた。
しかしそれは謙也の勘違いだと辿り着いた駅で思い知らされる。
「これ、どうぞ」
別れ際、何かを書いた紙切れを渡され、いよいよメアドゲットかと喜んだが中に書かれていたのはどこかの店の名前だった。
「へ?な…何これ」
「え?何て…二次会の場所ですけど?」
「え?え?」
意味が解らない。
謙也は紙切れと財前の顔を何度も往復させた。
「先輩優しいからわざわざ抜けてきてくれたんでしょ?今からでも合流しはったらどないですか?」
「いや、あの…」
「大丈夫ですよ。白石先輩と千歳先輩にはうちからちゃんとアピっとくんで」
「は?ちょっ…」
何か誤解があると慌てて否定しようとしたが、轟音を立てながら電車がホームに入ってきてしまった。
「ほんまにありがとうございました」
呆然としている間に電車に乗り込み、財前を乗せた車両はそのまま地下鉄の闇に吸い込まれていってしまった。
大きな誤解が生まれてしまっている。
あの言い方恐らくは、否、絶対に白石達に取り入る為に財前に優しくしていると思われている。
そうではないんだと誤解を解こうにも、連絡先も解らない。
兎に角明日学校で話しかける以外に方法はないだろう。
だがそんな悠長な事を考えていた謙也に、翌日とんでもない仕打ちが待っていた。