アンジェラス シルキー30

最近は部活に忙しく、ドラムの練習などしている暇がなかった。
大見得切ってやってきたものの、心配になってしまう。
財前の前で格好悪い姿になりやしないか、と。
「先輩、これ、スコアです」
「お、ありがとう」
ドキドキしながら渡された譜面を見ると、それほど難易度も高くなく、何度か練習すれば問題なく叩けるだろうとホッとした。
「あの、いきなりお願いしたのに…ありがとうございました」
「いや、全然!俺も最近いっこも叩けてへんかったからええ機会になってほんま嬉しいで」
「よかった…前までは兄貴に頼んでたんですけど忙しいからって断られてばっかしなんですよ」
兄貴、と言われて思い出されるのは、あの薄暗いビルに溜まったお上品ではない人達だ。
彼らが友達で、お兄さんに頼む、という事は。
「なあ、お兄さんも音楽…何か楽器やってんの?」
「まぁ、一応……スタジオミュージシャンなんで」
「そっ、そうなん?!えっ…プロ?!」
「あ、けど、本職はベーシストなんで、ドラムは遊び程度なんですけど…」
恥ずかしそうに頷く姿を見て解る。
財前にとってもさぞや自慢の兄なのだろう。
結婚すると解ってその相手と確執があったのだから、そう思って然りだ。
しかしこれまでそんなお兄さんと練習していたのでは自分では実力不足ではないかとまた急に不安に駆られる。
「…先輩?」
「ちょ、ちょっと練習さしてもろてええ?」
「あ、はい…もちろん」
いつもならばギャラリーが多い方がテンションが上がってやりやすい。
だが財前に期待に満ちた目で見られていると、スティックを握る事もままならない。
「あ、あんま…ジッと見られると照れるわー…ハハ」
「す、すいません…ほな、準備出来たら教えてください」
茶化した様子で何とか誤魔化すと、財前は遠慮して部屋の隅に行き、チューニングを始める。
そんな端に行かなくても、と矛盾した事を考えながらもスティックを握り直し、軽く叩き始める。
最初はなかなか調子が掴めなかったが徐々に感覚を取り戻し、五分もしないうちにスコア通りに叩けるようになった。
ふと斜め後ろから強い視線を感じ、背後を見ると財前がいつの間にかやってきていて驚かされる。
「うおっっびびびびびっくりしたっ」
「先輩…めっちゃ上手いっスね」
「え…そ、そうか?」
「はい。軽音の先輩らより、めっちゃ上手いです」
褒められて調子に乗った謙也はクルクルとスティックを回す仕草を間に入れながら快調にドラムを叩く。
その度にすごいすごいと素直に歓声を上げる財前が可愛くて仕方ない。
しかしこんなパフォーマンスをする為にやってきた訳ではないのだ。
「あ、暑ない?大丈夫?クーラーもうちょい強しよか?」
緊張や高揚で変な汗が噴き出してくるのを感じ、謙也はわざとらしく掌で顔を扇ぐ。
財前は緩い空調しか効いていない室内でありながらカーディガンを着ているのだが暑くないのだろうかと今更心配になった。
「うち冷え性なんでこれぐらいで丁度ええんですけど…先輩暑いんやったら強めます?」
「いや!ええねん!全然!俺もそんな暑いわけちゃうし!」
「ほんまは暑がりなんですけどクーラーの風ってあんま好きやなくって……けど先輩が暑いんやったらすぐ強するんで言うてくださいね」
気を使ったつもりでいたが逆に気遣われてしまい、余計な事を言ってしまったと反省する。
そして謙也は練習する手を止め、財前に音を合わせようと言う。
そういえば今度聞かせて、と言ってはいたが彼女の演奏を聴くのは初めてだ。
兄が音楽をやっているのならば上手いのだろうと思っていたが、それは謙也の想像を遥か越える実力だった。
何故吹奏楽部に入っていないのだろうと思っていたが、これで納得がいった。
色々と理由はあるだろうが、実力が違いすぎる。
手を止めぽかんと見上げる謙也に気付き、財前も手を止めた。
「先輩?」
「めっちゃ上手いな、自分!」
「…そうですか?こんなん大した事ないっスわ」
平然と、何でもないと言っているが、少し視線を落とし口の中でボソボソと言うのは照れた時の財前の癖だ。
こんな風に少しずつ彼女の事を色々と知れて嬉しい、と思わずニヤケてしまう。
不審がられないよう慌てて表情を引き締めたその時、防音室の扉が開いた。
「蔵ちゃん、ちーちゃん」
ニヤニヤと不埒な笑みを浮かべているところを見られなくてよかった。
そう思っていたが白石は謙也と財前の間に割り込み笑顔で言い放った。
「ただいま光!謙也に変な事されへんかったか?」
「戻って早々変な事言うなや!!」
「蔵ちゃん…先輩に失礼な事言いなや…」
謙也の激怒する声と財前の窘める声が重なった。
息の合った様子に謙也は嬉しそうにニヤけ、白石と千歳の機嫌を悪くする。
財前だけは特に何の反応もなく、白石から渡された袋の中を覗いている。
「これ、どれでも食べてええん?」
「うん、好きなん食べや。あー暑。何やこの部屋暑ない?ちょぉ空調強めんで」
白石は返事を聞くよりも先に壁にあるコントロールボタンを勢いよく押して部屋の温度を一気に下げる。
謙也は先刻の財前の言葉をを思い出し、慌てて白石を制止した。
「ちょ、エアコンきつすぎやろ」
「えー?汗治まったらすぐ切るって」
財前の様子を伺えば部屋の隅で冷房に当たらないようにしている。
譜面台に置かれた財前のファイルでパタパタと扇いでいる白石に向け、謙也は言い放った。
「お前なぁ、暑いんやったら上脱げや」
「あと3分」
暑いのなら制服の上に羽織っているカーディガンを脱げばいい。
夏場だというのに暑苦しく巻かれた左手の包帯も。
「それ外したらええやんけ。怪我しとるわけでもないんやろ」
「ほっといてや。これはうちのポリシーやの」
包帯を巻いた掌をひらひらと返し、鬱陶しげに話す白石に苛立ち声を荒げる。
「カッコええとか思っとんちゃうんけ…心配されて喜んどる小学生のガキかっちゅーねん」
一瞬、白石が表情を曇らせるのが視界に入った。
だがそれと同時に左頬に鋭い感覚が走り、謙也はそちらに視線を奪われた。
乾いた音が自分の頬を張ったもので、それを行ったのが財前である事に目を見張る。
「謝ってください…」
「え…?」
「蔵ちゃんに謝ってください!」
訳が解らないと呆然とする謙也の目に、財前の怒りと悲しみの交じり合った表情が映る。
それを目の当たりにして漸く自分がとんでもない失言をした事に気付いた。
「…こんなん、ほんまは好きでやってるわけやないのに…っ…勝手な事言わんといてください!」
「光」
俯き言葉を詰まらせ始めた財前を気遣うように千歳が肩を叩くが、財前は謙也を鋭く睨みつけた。
「先輩は…っ…優しくて思いやりのあるええ人や思とったのに…幻滅しました」
「光っ!」
そのまま部屋を飛び出してしまった財前を追いかけて千歳が出て行き、気まずいまま二人きりにされてしまった。
原因は解らないが何か失言をしてしまった事には変わりない。
兎に角謝った方がいいだろうと思い口を開いたが、先に白石に手で制された。
「アーホ。光の前でうちの事悪言うとか、アホにも程あるやろ。ちょっと懐いてもろたからって調子乗ってんちゃうで」
「う……すまん…それ、何か理由あってんな」
「まぁな」
聞いていいものかと逡巡していると、白石は溜息を聞かせた後、スルスルと包帯を外し始める。
全てにおいて完璧である白石には似合わない、異形が包帯の下から現れた。
それを目の当たりにして思わず謙也は息を飲んだ。
「おま……それ…」
白い肌とは対照的に赤く爛れた皮膚が痛々しい。
治りかけの火傷のようにも見えるその傷跡を見ていられず目を逸らすが、白石は気にする様子もなく淡々と語った。
「中学入ってすぐの頃にな…変なおっさんに付け回されて、ほんで何やよぉ解らん薬品ぶっかけられて、これ」
「…治るんか?」
「さあ?年々薄くはなってきてるけど…完全には難しいんちゃうかって言われてる」
これ程までに酷い怪我をさせられて、女の子の体に傷が残るというのに当の本人は何でもない事のようにあっさりとしている。
だが先程の自分の言葉が暴言であった事には変わりないと謙也は立ち上がり深々と頭を下げた。
「すまん!知らんかった事やけど、ほんまごめん!」
「あーええよ別に。正直なところ、あんま気にしてへんねんなぁ…うち自身は」
「え…?」
仰々しく頭を下げる謙也に向けて面倒臭そうに手で払うような仕種を見せ、白石は外した包帯を巻き直し始める。
「どんな姿になろうがうちはうちやし。これが腕やのぉて…たとえば顔に怪我しとっても気にせんかった思うし……気にしてんのは光」
「財前さん、何か関係あんの?」
「いや、ないよ。ないけど…蔵ちゃんこんな目に遭うて可哀想、犯人許せへんって泣きそうな顔しやんねん。
せやから、光のそんな顔見たないからこうやって隠してんの」
慣れた手付きで綺麗に包帯が巻き直され、痛々しい傷跡が隠される。
基本的に痛い事が苦手な謙也はそれまで直視できなかったが、いつもの姿に戻り、漸く白石に視線を戻せた。
「あの子なぁ、自分も酷い目に遭うたりしてんのに、そういうんは平気やねんなぁ…せやけど人の事になったら…
…特にうちや千歳が何か大変な目ぇ遭うたりしたら泣きやんねん。そーゆう子やねん」
「そうやったんや…」
怒りも悲しみもあまり前に出さない財前が珍しくその感情を剥き出しにしていた。
財前にとって白石や千歳はやはり特別で、切っても切り離せない存在なのだ。
さらに積み重ねてきた関係が一瞬で崩壊してしまったショックは大きい。
大きく溜息を吐いて項垂れる謙也だったが、白石もまた、複雑な表情でそれを見下ろした。

白石の毒手捏造ですんまそん。
光の蔵ちゃんはたとえどんな姿になろうとも、自信に満ち溢れ颯爽とした人なのですよ。

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