チカン、アカン。
『チカンアカン』ってポスターをどこの駅にも貼ってあったんですよ、昔。
解りやすいキャッチやが、絶対大阪以外では通じへんやろなぁと思って眺めてた。
謙也さんは正義感が強いのでこういう性犯罪は絶対に許せない。
許せないけど自分も光に対して劣情があるので今ひとつ自分自身納得いってないんですよ。
アンジェラス シルキー27
それから二人で駅に戻り、丁度やってきた急行に乗り込んだ。
夏休み、しかも週末の午前中ともなれば当然かもしれないが、車内はそこそこに混み合っていて思わぬ形で財前と密着する事となってしまった。
ドア付近で丁度向き合うような形となり、緊張で頭も心臓も爆発しそうな謙也とは対照的に、目の前の財前は涼しげな表情をしている。
今電車が少しでも揺れてしまっては素肌に触れてしまう、と思い距離を取ろうにも、車両奥にいる財前は中の人に押されているのか少しずつ近付いてくるのだ。
しかもタイミングがいいのか悪いのか、電車は急停止した。
「わっ」
「だっ大丈夫?」
その反動で倒れそうになった財前を慌てて抱き止める。
反射的に腕を伸ばしてしまったが、素肌に絡み付く財前の体に鼻血が出そうな程に興奮させられる。
腕に、腕に胸が当たっている、と。
これが小春やユウの言っていたマシュマロ乳かと謙也の全神経は腕に集中した。
財前光は細いがとてつもなく柔らかい生き物だ。
痩せて骨ばっているように見えてもやはり女の子、触れる箇所全てがふわふわしていて、それに何か甘い香りまでする。
これは違う事に意識を持っていかなければ下半身がとんでもない状態になりそうだと思うのだが、意識すればするほどに財前を強く感じてしまうのだ。
「先輩…すいませ……もたれかかってしもて…」
次第に荒くなっていく鼻息に気付かれたかと一瞬青くなったが、全体重をかけてしまった事への詫びで一安心する。
そしていざ体が離れていくと、少し淋しいような残念なような気がした。
「頼るとこないんやったら俺の腕掴んでてええで。ふらふらして危ないやろ?」
「え……あ、ほな…遠慮なく…」
断られる事を想定して言ったものの、予想外に財前は小さな手を伸ばして謙也の腕を掴んできた。
車内の冷房に冷えた財前の掌が心地よいはずなのに、緊張と興奮で謙也はそれどころではなかった。
程なく電車は再び動き始め、揺れる車両に体が持っていかれ、財前とはドアを向いて隣り合う形となった。
そして特に会話もないままに数分が経過した。
少し冷静になってきて、財前の様子を気遣うと、何やら様子がおかしい。
落ち着きなく体を左右に揺らして顔をしかめている。
どうかしたのか、と声を掛けようとして何が起きているかに気付き、謙也は言葉を失った。
すぐ後ろに立っている中年オヤジが財前の腰や尻を触っているのだ。
この痴漢が、と猛烈な怒りが湧き上がり、すぐに怒鳴りつけてやろうかと思った。
だが、もし財前が声に出す事を恥ずかしがっていたら、大勢の人の前で痴漢に遭ったなどと公表されたくないと思っていたら。
そう考えると一瞬で冷静さを取り戻せた。
だがこのままにしておく訳にはいかない。
謙也はタイミングを図り、丁度財前の腰を撫で始めた瞬間、そのオヤジの手首を掴んだ。
「オッサン、暑さで頭沸いてんちゃうんけ。俺のケツ触ってそんなおもろいか?」
「…えっ…」
車内の視線が一斉に集まり、痴漢は青い顔をして謙也をぽかんと見上げる。
男に痴漢やて、と嘲笑に包まれる車内に居た堪れなくなった男は逃げようとしたが謙也は腕を離さなかった。
「まあその気になるんも解らん事ないけどなー俺オットコマエやし。せやけどその気ないわーごめんやで」
謙也のウィットな言葉に車内が嘲笑から笑いに包まれ、ますます男は身を縮める。
「はっ離せ!」
「誰が離すかボケ!」
俺もまだ触っていないのに、いやいやそうではない、だがやはり許せない俺も触らせてもらっていないのに、と私怨混じりに痴漢を睨みつける。
そのあまりの迫力に観念したように途端に平謝りを始めた。
そして駅で停車した瞬間、腕を振り払いホームに飛び出して行った。
「待てやコラァア!!」
「ヒッ!!」
だが俊足自慢の謙也に中年小太りの男が敵うはずもなく、あっという間に取り押さえられた。
騒ぎを聞きつけた駅員に男を引き渡し、急いで財前の元へと戻った。
まだ何が起きたのか理解できていないのか、ホームの端で呆然としている。
「大丈夫か?」
「あ…は…はい…」
相当にショックが大きかったようで、よく見ると手が小刻みに震えている。
一瞬ためらったがその手を握るとすがるように握り返された。
極度の緊張からか先程よりも手が冷たくなっている。
「可哀想にな…ごめんやで、すぐ気ぃついてやれんで」
もう声も出ないのか財前は首を小さく横に振ってすぐに俯いてしまった。
手の体温を分けるように何度も握り、手を擦り合わせてやる。
その謙也の気遣いに少し落ち着きを取り戻したようで、ようやく財前がもう大丈夫ですと呟いた。
その後、駅員室に連れられた二人は事情を聞かれ、痴漢男の身柄が警察に渡った。
リストラされて、妻に逃げられストレスが溜まっていてつい魔がさしたのだと言い訳する男に猛烈な怒りを覚えた。
そんな事のはけ口にされた財前の気持ちはどうなるのだ、と。
それに室内にいた壮年の駅職員が言った心ない一言に、謙也はついに堪忍袋の緒が切れた。
「まぁ痴漢する奴もする奴やけど、君もそんな水着みたいなカッコしてるからやん」
「……あ、す…すいませ…」
「謝らんでええ!」
反射的に謝罪の言葉を口にしようとする財前を声で制し、謙也は目の前にある机を割れそうな程の勢いで叩いた。
「おいコラ待てやオッサン。何眠たい事抜かしとんじゃボケ…誰がどんなカッコしてようが悪いんはあの痴漢やろ!
そんなアホみたいな事言うとるお前も同罪じゃどアホ!だいたいこのカッコが悪い言うけどな、
ほなこれがきったない顔したデブのオバハンやってみぃ、同じカッコしとっても誰も触りにけぇへんわ!
可愛い子はどんなカッコしてようがアホみたいな痴漢に狙われんじゃ!この子やったらボロ布被ってても狙われてまうわ!解ったか?!」
孫ほど年の離れた学生に大声で説教された職員はバツ悪そうな表情で逃げるように駅員室を後にした。
まだ怒りの治まらない謙也だったが、ふと視界に入った財前の表情に自分が何を口にしてしまったか思い出した。
「あっ!あ!いや!ちがっ…すまん!!あの、えっと…」
真っ赤になり驚いて目がこぼれ落ちそうな程に見開かれた状態から数回瞬きをして固まっている財前に慌てて弁解を試みる。
だがいつものように上手く口が回らずしどろもどろになっていると、財前が可笑しそうに笑い始めた。
「あの、かばってくれて…ありがとうございました」
「ああ、いや!全然!」
「…痴漢なんか遭うたん初めてやってどないしたらええか解らんかってぼーっとしてしもて…最初鞄か何か当たってんや思てて…」
いやいや完全に撫で回していたぞ、俺だって触りたいのに、と謙也は方向違いな思い出し怒りを覚える。
「何や…大騒ぎになってしもたし…それに……」
「犯人の事、同情とかせんでええんやからな」
「え…?」
「泣き寝入りしたったらええとか思たあかんで、絶対。そんなんあのオッサンの為にもならん。どんな事情あっても悪い事は悪いんやから。
今捕まらんでもまた同じ事調子乗ってしよるかもしれんし…そうなったら同じように嫌な思いする子出てくるんやで?
自分に甘いからこんなアホみたいな事するんやろし…だいたいそんな甘い考えしとるから仕事にも嫁はんにも逃げられんねん」
白石達が冗談半分に体を触っているのとは訳が違う。
痴漢は犯罪なのだ。
相手如何ではなく、こういう事は絶対に許せない。
それに加えて好きな子が被害に遭ったともなれば怒りは数倍、数十倍数百倍に膨れ上がる。
「怖かったんやろ?嫌やったから…あんな震えとったんやろ?」
「……は、い……嫌…でした…気持ち悪かった…です…」
先程までは怖がっていたように震えていた財前も、今は漸く犯人への怒りが湧いて出ているようで嫌悪を表情に浮かべている。
調書取ったからもう帰っていいよ、と警官に言われるがなかなか立ち上がろうとしない。
「どないする?今日はもう、帰ろか?」
「いや、大丈夫です」
「ほんまに?無理せん方がええで?」
様々な事に関して鈍感である財前も、今回の事は流石に堪えているようでまだ少し顔色が優れないようだと謙也は心配になった。
だが財前は首を横に振り、今度はしっかりと笑みを見せる。
「甘いもん食べたら元気出るんで…ほんまに大丈夫です」
「…そっか。ほな行こか」
世話になった駅員に礼を言い、駅員室を出ようとすると取調べをした私服姿の女性警官に財前が声をかけられた。
「かっこええね、彼氏」
「え?」
「へ?!」
彼氏?!と二人同時に驚いた顔を返すが意に介さず警官はけらけらと笑いながら言った。
「君みたいにしっかりした男ばっかしやったらうちらもこんな嫌な仕事せんでええんやけどね」
「は…はぁ…どうも…」
さっきは偉そうな事を言っていたが、自分もあのオッサンと同じように財前に対して劣情を抱いていたのだ。
何とか理性が働いてくれたからよかったものの、何かキッカケがあればどうなっていたか解らない。
全く見知らぬオッサンに痴漢されても、それはそれで気持ち悪いだろうが、
信用を寄せてくれているというのにそれを裏切るような真似をした方が彼女にはショックが大きいかもしれない。
「ほな気ぃつけてね」
「失礼します」
財前と警官が何か一言二言と言葉をかわしていたようだが意識が他所にいっていた所為で聞いていなかった。
慌てて財前に倣い頭を下げてホームへと戻る。
「もうあとちょっとやし、各停で行こか」
少しでも空いている方がいいだろうと、丁度ホームに入ってきた急行をやり過ごした。
轟音を立てて電車が出て行くと、財前は何やら思い出したようでくすくす笑い始める。
「な…何?」
「さっきの警官の人にね、優しい彼氏でええね、自慢の彼氏やねって言われたんですよ」
「えっ」
「今日こんな勘違いされてばっかしやなて思ったら何やおもろくて」
そういえば財前の義姉や甥にも同じ勘違いをされていたな、と思い出す。
あの時は不機嫌そうに言い返していたが、今は嬉しそうにしている。
「何や先輩褒められてんの聞いてうちまで嬉しなってしもて、彼氏ちゃいますって言いそびれてしもた」
「そっ…そうなんや」
「けどほんまに、先輩と付き合う子は自慢でしょうね」
「えっっっ?!」
羨ましいです、なんて他人事のように言わないでほしい。
そんな風に羨ましがってないで是非手に入れて自慢でもなんでもしてほしい。
そうは思っていてもそれを口に出来ないもどかしさを感じていると、次の電車がホームに入ってきてしまった。