ようやく銀さん登場。
謙也も言うてますが、この人は本当に人の形をした菩薩か弁天様ですよ。
アンジェラス シルキー19
ショックで頭が真っ白になる、という体験を、15年生きてきた中で謙也は初めて経験した。
期末試験初日まであと2日となり、校内は騒がしさを増していた。
校内でも目立って一緒にいるようになった白石達と財前が、廊下の隅で話をしている。
謙也はそれを見て三人に近付くが、会話内容が自分である事に慌てて物影に身を潜めた。
「謙也と仲良ぅしてる?」
「え…?ああ……」
「どげんしたと?」
何やら言い辛そうに言葉を飲み込む財前に、千歳が顔を覗き込んで尋ねている。
その隣から物凄い勢いで白石が財前の肩を掴んだ。
「あいつに何かされたんか?!」
何もしてへんわ!!と反射的に叫びそうになり、慌てて自分の手で口を塞ぐ。
財前もそれは否定したが、少し迷った後、静かに口を開いた。
「あの……正直…ちょっと困ってます…」
財前には度々色々な意味合いでショックを与えられるが、これほどまでに負の方向に叩き落とされたのは初めてだった。
相手の様子を伺いながら少しずつ距離をつめていったが、それでも本当は迷惑だったのだろうか。
白石は財前が思った事全てを口に出すタイプだと言っていたが、本当は言えない言葉をずっと心に秘めていたのかもしれない。
その場に立っている事が出来ず、謙也はふらふらと力なく立ち去った。
そして以前よく財前を見かけていた裏庭を臨める渡り廊下に座り込み、大きく溜息を吐いた。
逆に言えば、思った事をそのまま口に出しているのだから、本当に困っていたのだろう。
ここ最近は試験前という事もあってあまり頻繁に会う事はできなかったが、メールだけは送っていた。
財前の言っていた通り、新しい携帯電話を買ってもらえるのは試験後になったらしい。
しかし教えてもらったパソコンのメールアドレスに毎日メールしていた。
もしやそれが迷惑だったのだろうか。
勉強の妨げになっていたか、それとも何か他に原因があるのかもしれない。
そういえば借りたCDをまだ返していなかった。
いつでもいいという言葉に甘えてまだ持っている。
気に入ったものがあったという他に、財前の所有物を独占できているという喜びと、
これを返してしまえば繋がりが一つ切れてしまうような感覚が謙也の心を支配していた。
あれやこれやと考え込み、頭を抱えていると背後から深みのある落ち着いた声がした。
驚き顔を上げ振り返ると、そこには石田銀が立っていた。
彼女は白石達と同じテニス部で、あの悪の化身達が言う事を聞く唯一の切り札だ。
石田の言葉ならば素直に聞き入れる節がある為、謙也にとっては悪から身を守るお札かお守りのような存在でもある。
仏のような包容力と優しい空気に謙也は不覚にも気が緩み、涙がこぼれてくる。
「な、何や…どないしはった」
慌てた様子で隣に座り込み、どこか具合が悪いのではと石田はいたく心配する。
だが謙也はへらりと笑い、涙を拭った。
「いや、ちゃうねん……何や優しぃにされて気ぃ緩んだだけやから…」
「何かあったんか?私でよければ話聞くが?」
ああ何て優しい、本当に生き仏のようだと謙也は再び溢れ出そうになる涙を堪えた。
せめてこの0.1%でもいいから白石達に優しさを分けてやってくれと思ってしまう。
「ほな聞いてもらおかな……こんなん誰にも言えんし」
それから約10分。
謙也の要領を得ない話を石田は辛抱強く最後まで聞いてくれた。
そして、うーんと唸りを上げる。
「そうやなあ…財前の事は私もよぅ知っとるけど、そんな事言う子やない思うが…聞き間違いやなかったんか?」
「いや…確かに俺ん事困ってるて…」
やはり自分の事も、別の思惑を腹に秘めたまま彼女に言い寄っていた他の男と同じように思われているのかもしれない。
そう考えると流石に立ち直れない。
うなだれる謙也を見ていられなくなった石田は、励ますように肩を叩いた。
「よし、ほな私が財前に聞いてきたろ」
「えっ…ええ?!」
「財前がそんな風に言うたて事は、何や必ず理由があったはずや。せやから、そこを聞いてきたろ」
「けっ、けど…」
「大丈夫や。あんたはんに相談されたなんて言わへん」
「それは…そんな心配はしてへんけど…」
石田は誰かさん達と違い、絶対的な信頼感がある。
謙也が心配しているのはそこではない。
真実を知りたいような、知るのが怖いような、そんな狭間に立たされているのだ。
煮え切らない態度の謙也を嫌がる風もなく、石田は安心させるように慈愛の笑みを浮かべる。
「こない中途半端な気持ちのまんまやと試験もままならんやろ。怖いかもしれんが、はっきりさせた方がええ」
「そう…やな……」
石田の言葉はいつも絶対的だ。
迷いのあった謙也の心は一つにまとまった。
頼もしい背中を見送り、しばらくそこで待っていると石田が戻ってきた。
千歳とそう変わらない上背に隠れて見えなかったが、その隣には財前がいる。
どうして、と身を固くして思わず顔を逸らしてしまった。
一瞬だったが、財前は酷く戸惑った表情を浮かべたのが謙也の視界の端に入った。
だが顔を上げる事が出来ずうつむいたまま固まっていると、砂の音と共に財前の上履きが視界に入る。
わざわざ土の上にまで立って真正面にやってきてくれた事に、謙也はようやく顔を上げた。
目が合った途端財前は頭を下げた。
「すいません、先輩。あの、えらい誤解さしてしもたみたいで……」
誤解も何も、困っていると言っていたのは事実ではないか。
謙也はそれ以上聞くのが怖くなり、再びうつむいてしまった。
しかしそれを追うように財前は謙也の前にひざまずき、顔を覗き込む。
「聞いて下さい。困ってるってゆうんは、嫌とかそーゆう意味やないんです」
「……え?」
「うち…あの、先輩に髪とか服とかめっちゃええようにしてもろたり、優しぃにされたりして…ほんまに嬉しかったんです。
せやのに、何も上手い事よう言えんで…いっつもありがとうございますとしか言えんで…
ほんで、うち先輩に何も返せてないって思て…せやからそれが困ってるって、事なんです」
財前の言葉に心に重くのしかかっていた岩が、姿形もなく消えてしまった。
それと同時に猛烈な羞恥が謙也の身に襲いかかる。
何て格好悪いのだろう。
勝手に勘違いをして一人すねて、挙句財前に泣きそうな顔で釈明をさせる。
最悪だ、と謙也は慌てて立ち上がり、勢いよく頭を下げた。
「ごめん!ほんまごめん!俺が勝手に盗み聞きして勝手に勘違いしてただけやねん!せやから財前さん何も悪ないねん!」
「先輩…」
勢いよく何度も頭を下げる謙也に面食らいながら、財前はゆっくりと立ち上がった。
謙也はそんな彼女の白い膝が土に汚れている事に気付き、ポケットの中からハンカチを出すとそれを懸命に拭った。
「ごめんな。こんな…汚してしもて…うわっスカートにも泥ついてもぉたし!!ほんまごめん!」
「いや、大丈夫ですって。こんなんすぐ取れますから」
目の前にしゃがみ込み、必死になって泥汚れを取ろうとしている謙也に流石に恥ずかしくなってしまい、財前は少し後ずさった。
戸惑う様子の財前に気付いた謙也はハンカチをポケットにしまいながら立ち上がる。
「ごめんな…ほんまに」
「いえ、あの…うちの方こそ…こんな優しぃにしてもろてんのに変な事言うてすんませんでした…」
「もうええやろ。お互い、どっちも悪なかったんや」
それまで黙って事の成り行きを見守っていた石田が歩み寄り、謙也と財前の肩を叩く。
「言葉ゆうんは怖いもんやな。同じ困るという言葉でも財前は肯定的に使て、それを謙也はんは否定の意味で捉えてしもた。それだけの話や」
「銀…ありがとうな、ほんまに。自分おらなんだら俺ほんま沈んだまんまやったわ」
「私は何もしてへん。財前がちゃんと自分の気持ちを素直に話せたから誤解が解けたんや。礼は財前に言うたってや」
お前人の形はしてるけどほんまに菩薩か弁天さんやろ、と謙也はまた情けない顔になりそうになる。
「銀の言う通りやわ。ほんまの事話してくれてありがとうな」
「いや……そんな…うちの方こそ…」
財前はまだ何か言い足りないのか、何度も言い淀んだ後、再び頭を下げてごめんなさいと謝った。
何に対する謝罪かが解らず、オロオロと困っていると財前が口を開きぽつりぽつりと語り始める。
「こんなん言うたら嫌われるやしらんのですけど……今まで男の人にこんな風に優しぃにされた事なかったから、ほんまにどないしてええんかほんまに解らんのですよ」
財前の言わんとしている事は今一つ解らないが、とりあえず言える事は何があっても嫌いにはならないという事だ。
謙也は口を挟まず黙って言葉に耳を傾ける。
今はただ財前が何を思っているのかが知りたかった。
「うちに近付いてくる人って皆下心見え見えで、せやから優しくされてもどっか冷静に対処できたゆうか…
とりあえず蔵ちゃんらへの橋渡しやっとったらええかって思ってて…
けど先輩はほんまに何も見返りとか要求せんで優しくしてくれはるから、うちどないしたらええんやろって…」
黙ったままになった謙也を不安げにちらりと見た後、再び目を伏せて自嘲する。
「すいません…ほんまうち最悪や…こんなひねくれて考えんで素直に厚意受け取ったらええんやろけど……」
それはあんな目に遭っていれば当然の考えだ。
知っている限りでこんな状況なのだから、実際はもっと酷いのだろう。
どう言葉を返せばよいものかと黙り込んでしまった謙也に代わり、石田が口を開いた。
「財前。今まであんたはんが受けてきたそれは優しさなんかやない。
何かをしてやったから言うてあれやこれやと要求するような輩に惑わされてほんまの思いやりや優しさを忘れたらあかん」
「師範…」
テニス部の連中は敬意を込めて彼女をそう呼んでいるが、財前もそうなのかと謙也は他所事を考えていたが、石田の言葉に心臓が飛び出そうなほど驚かされた。
「ほんまの優しさ言うんは、この男のような事を言うんや」
「へ?!俺?!」
「そうや。初めから財前の事だけを思うて優しゅうにしてくれてたんやろ。
せやから、そうゆうもんには、財前も心の底からありがとうて言うだけや。何かを返さなあかんなんて、それは心の驕りやで」
「はい」
戒めともいえる石田の言葉に財前は深く頷く。
「それでもやっぱり財前の気ぃが済まんというんやったら、その分謙也はんに優しさで返したったらええ。それで十分や」
なあ、と石田に笑みを向けられ、謙也は首が取れそうなほどに頷いた。
「あの、俺ほんまに気ぃ使ってるとか何かしてもらおとか全然考えてへんねん。
ただ自分がやりたいからやってるっちゅーか、性分みたいなもんやし…そんな大層に受け取らんでええんやで?」
「はい、あの…ほんまにありがとう、先輩」
謙也の前に差し出すように石田は財前の肩に手を置き、軽く押し出した。
「謙也はん。この子はほんまにええ子やから、あんじょうよろしゅうしたってや。頼んだで」
「あ、…師範!ありがとうございました!」
財前の言葉に礼には及ばないと言い残し、石田はその場に二人を残して校舎へと戻っていった。
しばらくは気まずい空気が流れていたが、謙也は改めて財前と向き合った。
「あいつと喋っとったら何や自分がめっちゃええ人間に思えてまうなぁ…何やこそばいわ」
「先輩はほんまにええ人ですよ」
「えっっ」
思わぬ褒め言葉に浮上して、しかし再び叩き落とされる。
「コンビニのレジとか街でボーイスカウトとか、募金箱見かけたらほっとかれへんでしょ?」
そんなボランティア精神でやっているわけではないのだ。
石田はあんな風に言っていたが、本当は下心だってある。
それでも折角得られた高評価を手放すのは惜しい気がして、乾いた笑いと共に肯定する以外に道はなかった。