アンジェラス シルキー18

翌朝、始業の予鈴まで10分を残して朝練を終え、校舎に向かうと昇降口ににわかに人だかりが出来ていた。
何があるのだろうとその集まりに近付くと、謙也の目に飛び込んできたのは財前の姿だった。
白石や千歳と共にいる事で個体認識されているようで、まさか本当にあの財前かという声が聞かれる。
なるほど、それで昨日白石があんな事を言っていたのかと理解した。
謙也は目下、見る目のない奴を見返してやる、という目標を達成する事に意識が集中していた。
その後に起こりうる事など全く考えていなかった。
あれだけ可愛いのだから、騒がれて当然だろう。
お前らやっと気付いたか、という得意げな気持ちと同時に、妙に寂しいという感情が湧き上がる。
自分だけのアイドルを取られたような、自分だけが知っていた秘密を他人に踏みにじられたような、よく解らない敗北感と劣等感が心に生まれた。
派手に騒がれてしまってはもう以前のように静かな場所で二人で過ごす事もできないかもしれない。
自分の事など相手にしてもらえなくなるのではという考えまで生まれてくる。
昨日はすぐ側にいた人が、急に遠くへと行ってしまったようだ。
溜息をつきながら靴を履き替えていると、背後から背中を叩かれた。
勢いよく振り返ると、そこには肩を組んだ小春とユウが立っていた。
「おはよっ謙也君」
「おはよーさん」
「ああ…お前らか…おはようさん…」
明らかにテンションの低い謙也を見て二人は首を傾げる。
「何やねんいきなり溜息とか聞かせよってから……朝からうっとぃなー…」
「…悪かったな。あ、そうや。二人共昨日はありがとうな」
まずはあんなワガママな要求を叶えてくれた事に礼を言わなければ。
そう思い謙也は二人に頭を下げた。
「あらーいいのよそんなん。うちらも楽しかったし。ねぇユウちゃん?」
「まあ…久々にあんな嬉しそうな光見れたしな。わざわざ出動した甲斐あったわ」
「そーか、そらよかったわ」
落ち込んだ様子のまま教室に続く廊下へと行く謙也を二人で追いかける。
「何や元気ないわね謙也君。どないしたん?」
「はっはーん…解ったど。自分、他の奴らに光取られたような気ぃしてんやろ」
「うっ……」
流石に鋭い、と返答に詰まり、ふとある事に気付いた。
「えっ!?っていうか俺が財前さんどう思ってんか…」
「今更何言うてんの。皆気ぃ付いてるわよ」
誰が見ても明白だろう明け透けな謙也の思いなど気付かない方がおかしい。
尤も肝心の本人だけは全く気付いていないけど、と小春に軽く笑われる。
「"忍足先輩ええ人やけど友達以上には思われへんわー"」
「なっ!!」
財前の声に驚いて振り返るが、そこには誰もいない。
お前の仕業かとユウを睨みつける。
「心臓に悪いモノマネすんなボケ!」
得意のモノマネをしてからかってくるユウの頭を一つはたく。
だがそんなものはユウに関係なく、次々と言葉を吐いていく。
「"もう先輩なんか必要ないっスわぁーうちモッテモテやし"」
「ええ加減にしぃや、ユウちゃん。光ちゃんはそんな子やないでしょ」
小春にたしなめられ、ようやく口を閉ざし、ユウ自身の声に戻る。
「ま、小春の言う通りやな。良くも悪くも自分通して考えにブレないんが光やし、こんな騒ぎぐらいで自分の事どーこーしよっちゅー事なんか思いつきもせんやろ」
ユウの意外な言葉に謙也の心は驚くほど軽くなった。
おかげで午前中の授業はうわの空にならずに済んだが、昼休みが近付くにつれ憂鬱が降りかかってくる。
三時間目と四時間目の間にお昼一緒にどうかな、というメールを送ったものの、返事はなかった。
携帯魔の彼女からの返信はいつも早かったというのに。
返事を待たないままに例の隠れ家に行ったが、やはり財前の姿はない。
もしかしたら防音室にいるかもしれないとそちらに向かったが、締め切られていて誰の姿もない。
仕方なくもう一度階段を上り、いつも財前と座っていた場所に腰を下した。
「もう来てくれんねやろか……」
ユウはああ言っていたが、折角近付いた距離が離れていってしまったような気がしてならない。
男子だけでなく、女子からも声をかけられればその子達と一緒にお昼を食べるかもしれない。
様々な可能性を考えて一人沈み、仕方なく持ってきていたお弁当を開こうとした。
その時、背後でガチャガチャと大きな音がして飛び上がり驚く。
この屋上は立ち入り禁止で誰もいないはずなのに、と身構えていると、重い鉄の扉が開いた隙間から見知った顔が出てくる。
「ざっ…財前さ…」
「あ、先輩。やっぱここおったんですね」
「なっ何で?!」
「ええから、こっちこっち」
手招きされ、慌てて荷物をまとめて扉の外へ出る。
教室のある屋上より一階分高い場所にある景色が新鮮だ。
それにフェンスも何もない。
端に行けば危険だろうが、扉の辺りにいる限りは大丈夫だろう。
「何で?ここ立ち入り禁止やろ?」
「これ、蔵ちゃんが貸してくれたんです」
そう言って差し出されるのは鍵だった。
ここの扉のものなのだろうが、何故奴がそれを持っているのだという当然の疑問が湧く。
「これねー蔵ちゃんがオサム先生にもろたらしいっスわ。校内で一人になれる場所が欲しい言うて」
謙也の所属する男子テニス部の顧問が何故、と思い、どうせ色仕掛けにでも負けたのだろうと一人結論を出して納得できた。
「しばらく休み時間とかうるさいやろからここ隠れときって」
「あ…そうやったんや……ごめんな」
「え?何で先輩が謝るんですか?」
「こない騒がれる思わんかって……そんなつもりやなかってんけど」
階段ホールの裏側でいつものようにパンやジュースを広げていたらしく、財前がそこへ案内してくれる。
朝はゆっくりと見るタイミングがなかったが、改めて財前の姿を見て感嘆した。
侑奈が言っていたように髪をふわふわになるようにアレンジしていて、昨日のシャープなイメージから一変して柔らかい印象になっている。
校則に縛られていないので、落とさずにいたのだろう。
指先もまだユウの魔法にかかったままで、綺麗な彩りをしている。
「どーせすぐ飽きますって。うちは何も変わってへんねやし」
「あ、けど…ほんまよぉなったで、自分。えっと、何ちゅーか…」
言え、言ってしまえと自分を鼓舞するが、可愛いの一言が言えない。
クラスメイトや友達相手になら軽く言えるというのに。
何や、自分髪型変えたん?めっちゃ可愛なったな、と。
口先からでなく、心から言おうとすると何故か恥ずかしくなってしまうのだ。
真っ赤になって黙り込んでしまった謙也を不思議そうに見つめ、財前は首を傾げる。
「先輩まで別に無理に持ち上げてくれんでええですよ?」
「いや、ちゃうねん!お世辞とかやのぉて、ほんまに、かっ…可愛なった…思う…で?」
あかん、めっちゃ恥ずかしい、と謙也は思わず体ごと逸らしてしまった。
これでは不審がられても仕方ないと思うが、やはり財前はいつもと変わらない態度で無感動な表情を崩さない。
「はあ、それは………どうも」
お世辞だと思われてしまったかとがっくり肩を落とした。
だがよく見れば、何も言わずにサンドイッチを頬張る顔が少し赤いかもしれない。
そうか、この子は自分の感情を上手く表現できないだけなのだと思いつく。
そして恥ずかしそうにしていると判断した謙也は話題を変えることにした。
「あ、あんな、メール…見てくれた?」
「メール?えっ…メールくれはったんですか?」
見ていなかったようで財前は途端に表情を曇らせる。
それに謙也は慌てて手を振る。
「いや、ほんま大した事ちゃうねん!昼一緒にどうかなって誘おか思ただけやから」
「そうなんですか…すいません……昨日金ちゃんに壊されてしもて…今日お母さんに店持って行ってもろてるんです」
「修理出したんや?」
「はい…けどたぶんもう無理やと思うんですよねー…折りたたみ逆方向にやられてしもたから」
その様子を想像して思わず吹き出す謙也を財前が珍しく恨めしそうに睨みつける。
「笑いごとちゃいますよ……まあ2年以上使てる古い携帯やったんで新しなるって思えばええんやけどデータとか全部消えてしもたし…」
マストアイテムとも言える携帯電話を取り上げられ、すっかりと元気を無くしている財前の頭を謙也は軽く笑いながら元気を出せと撫でる。
すると驚いた表情で顔をはね上げた。
「あ、ごめ……勝手に触ってしもて…」
「いえ、あの…大丈夫です……ありがとうございます」
今度ははっきりと解るほどに赤面され、謙也の方がいたたまれない気分になってくる。
やりすぎたかと表情を伺っていると、そうだと言って財前は持っていた鞄の中からノートを取り出した。
そして何やら書いたノートの切れ端を渡される。
不思議に思いながらそれを見ると、それはメールアドレスだった。
「いつ携帯復活するんや解らんので…これパソのメアドなんですけど何かあったらこれに連絡ください。まあ携帯みたいに返信はできへんけど」
「えっ、ええん?!」
「は?ええも悪いもないですよ」
変な事言いますね、と財前に笑われ、いささか恥ずかしい思いをしながら謙也はその場で自分の携帯電話にそのアドレスを登録した。
「もしかしたら…期末終わってからになるかもしれんのですよね…携帯買ってもらえるん」
「え、あ、そうなん?」
アドレスを直接打ち込むという慣れない作業に苦戦していると、財前がぽつりと呟いた。
「はい。どうせ新しい携帯持ったら勉強せんようなるからって」
「そうなんや…っていうかもうすぐ期末やねんな」
それが終わればいよいよ夏休みだ。
待てよ、と謙也は青くなった。
そうなれば一ヶ月以上財前と会えない事になってしまう。
冗談じゃない。耐えられるわけがない。
「なっ、なあ!あんな、夏休みとかって……何か予定とかあるん?」
「予定ですか?…特に何も……夏休みの宿題やって、あとは家でゴロゴロしてる思いますわ。蔵ちゃんらと遊びたいけど、あの二人も部活とか忙しいし」
「そうなんや…なあ、また遊びに誘てもええかな?」
「えっ…」
驚いた、戸惑った表情を浮かべる財前を見て、謙也は慌てて弁解を始める。
「いや、あの、もうあんな昨日みたいに連れ回してとかやなくって、あの二人の代わりっちゅーか、
代わりになるんや解らんけど…俺も部活とかあってめっちゃ時間あるわけちゃうし…けど、たまには…思い出して、遊んでほしいかなーなんて……思うんやけど…」
どうかな?と伺うと、財前は大きく頷いた。
「ありがとうございます。嬉しいです」
「ほっほんまに?!」
「はい。先輩と一緒におるんほんまにおもろいんで」
「お…おもろい…?」
これはまた恋心に程遠い褒められ方をされてしまった。
関西人としては最高の褒め言葉なはずなのにちっとも嬉しくない。
だが嫌われていないというのは評価すべきかもしれない。
どうやら彼女はとても人を選ぶタイプのようで、打ち解ける為にも努力が必要なようだからだ。
これだけ引く手あまたとなった今でもこうしてお昼を共に過ごす事を許してもらえただけで十分だと思うべきだ。
思いは複雑だが、今はまだそれ以上のワガママなど望めなかった。

バーロォ!!大阪人にとっての「おもろい」は何よりの褒め言葉じゃねえか謙也!
ちなみに『おもろい』の対義語は『お前死ね』と同義語である。
大阪人にとっての『お前おもんない』は死刑宣告と同等の破壊力を持つ。

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