La Familia〜Reset(前篇)

幸せな毎日なんて、意外と呆気なく崩れていくものだ。
今の生活は、砂上の楼閣だったのだろうか。

赤也と朝から下らない言い合いをしてしまった。
「くだらん」
「何でっ」
「馬鹿馬鹿しい」
「そんな事ないっ」
「いいからさっさと行け。玄関で鬼が待っているぞ」
「お…おに………ハイ……」
とぼとぼと音がしそうな足取りで玄関に歩いていく。
そんなあまりに覇気のない赤也に毒気を抜かれたのか、
待ちぼうけを食らったはずの弦一郎の怒鳴り声が聞こえてこない。
弦一郎の行ってきます、という芯のある声だけがして玄関の扉が閉まった。
「…いってらっしゃーい」
朝食の後片付けをしていたブン太が聞こえないであろう相手に返事をした。
ちらりと横目で見てくるのが解ったが、何も言わずブン太の隣りに立ち、彼の洗った皿を拭く。
「お前らでも喧嘩する事あんだな」
「喧嘩じゃない。あいつが勝手に拗ねているだけだ」
「原因は?」
「……昨日うっかりそこで夜寝をしたんだ」
布巾を持った手で、リビングのソファを示す。
ブン太はその指先を目で追って、ふむ、と頷いた。
「夜寝?昼寝でなく夜寝?」
「ああ…風呂上りにテレビを見ながらうとうとしてしまってな。誰もいなくて静かだったから」
「それで?」
「気付いたらいつの間にか仁王が帰ってきていてあいつが膝の上で寝てた」
テレビの正面に置いてある三人掛けの方のソファに座って頬杖をついて眠っていたのだが、
丁度膝枕をするような形で頭を乗せて眠っていた。
時間にして十数分だろう。
「それ見られたのか?!」
「それだけだぞ?」
食器全てを洗い終わり、シンクにかけてあるタオルで手を拭きながらブン太が絶叫する。
何をそんなに怒る事があるのだ、と顔を顰めると思い切り呆れた声で言われてしまった。
「そりゃ赤也が怒って当然だろぃ」
「…何故?」
試合前の調整期間で遅くまでスクールで練習していた赤也が帰ってきて、
それを見た途端に凄い勢いで駆け寄ってきて仁王を突き落とした。
酷い怪我をするほどではなかったが仁王は頭と腰を打ち、痣とコブを作った。
仁王はしゃーないのぅ、と気にしていない様子だったが、
一方的に攻撃した事は見逃すわけにはいかないので咎めた。
しかし赤也は謝らなかった。
それを叱ると今度はヘソを曲げてしまった。
「仁王みたいなエロい奴に風呂上りの膝貸すなよー妊娠するぞ」
「お前まで…」
下らない、と手にしていた布巾を乾かす為に窓際のハンガーにかけ、
ダイニングテーブルに散らかったままの新聞や折り込み広告を片付ける。
「だいたいあいつもお前や精市とじゃれ合ってるじゃないか。それとそう変わるまい」
「あのなぁ…それとこれとは話が違うだろぃ」
「どう違うんだ」
「柳鈍感すぎ。お前はさ、皆の世話とかしてて大したことじゃないって考えてっかもしんねーけど…
赤也にとってはそうじゃねぇの。自分の好きな人が他の奴に膝貸すの見て怒らねー訳ねぇじゃん」
「…だからといっていきなりあんな風に突き飛ばす事もない」
「お前なぁ…あー赤也可哀想ー今回は俺、赤也に付くぜ。あーかわいそー」
突然態度を変え、ブン太はエプロンを外し荷物を持って玄関へと歩いていってしまった。
「ブン太?」
「いってきまーす」
「…いってらっしゃい」
訳が解らないままダイニングに取り残され、ぼんやり立ち尽くしていると精市が起きてきた。
今日は通院の日だから仕事は入っていない。
一番の朝寝坊となっていた。
「おはよう。もう皆出かけたの?」
「ああ…おはよう。お前が一番最後だ」
「ブン太どうかした?何か大きな声で言ってたみたいだけど」
聞こえていたのか、と苦笑いを返す。
「あれに説教されてしまったよ」
「昨日の事?赤也まだ拗ねてるの?」
今朝の様子を精市に説明すると、意外な答えが返ってきた。
「うーん…俺もブン太と同じ意見かな。今回は赤也につくよ」
「お前もか?」
「蓮二は何でブン太があんな風に怒ったか解る?」
「いや…」
さっぱり解らない。
何が悪かったのだろう、と昨日からの一連の事を思い出しても全く思い当たらない。
「そっか。まぁ俺は別にいいんだけど。これで二人がダメになったら蓮二は皆の蓮二になるわけだし」
「…何だそれは」
「あー楽しみっ。俺結構ムカついてたんだ。赤也に蓮二取られちゃって」
「あのな…」
反論しようとしたが精市は聞く耳持たず、さっさとキッチンに行って自分用の朝食を用意し始めた。
その背中をしばらく見ていたが、チェストの上に置いてある電話が鳴り始めた。
慌ててそれを受ける。
「はいもしもし、幸村です」
この応対も随分と慣れた。
最初の頃はうっかりと自分の苗字で受けてしまいそうになっていたが、それも今は皆無だ。
とは言え、家の電話はほとんど鳴らない。
あるとすれば、米屋や酒屋などの店からの電話、精市の両親からの電話、そして間違い電話。
そのどれかだろうと思っていたが、想像はるか越える相手からだった。
「え―――……母さん?どうして…」
それは母からの電話だった。
もちろん精市の、ではない。
自分のだ。
音信不通となっていたわけではないし、この家に住む時ここの連絡先は実家にも言ってあったので
驚く事ではないのかもしれない。
しかし用がある時は必ず携帯電話にかけてきていたので驚いたのだ。
精市も驚いた顔でこちらの様子を伺っている。
「…父さんが?……ハイ…ハイ…解った。すぐ帰るよ」
「どうした?実家で何かあったのか?」
受話器を本体に戻し、振り返ると精市が心配そうに顔を覗きこんできた。
「父が倒れたらしい」
「え?お父さんが?それで?」
「大したことはないらしいのだが、一度実家に戻って様子を見てくる」
「そうだね。そうした方がいい」
健康に関しては人一倍気を使う精市が悲痛な表情で頷く。
母親も比較的落ち着いているのか、そんなに慌てた様子はなかった。
だがこの目で様子を確かめなければ心配なので、急いで実家へ帰る用意をする。
「すまないが今週いっぱいは実家から大学に通うから戻れないかもしれない」
「ああ。こっちの事は心配しなくていいから」
「それから赤也も今は大事な時期だから…無理に帰って来なくても大丈夫だと伝えてくれ」
「…解った」
赤也と両親の不仲を知る精市は、それ以上何も言わない。
しかし今朝の事はそうもいかないらしい。
あんな風に言ってはいたが、気にかけてくれた。
「赤也に…他に伝言は?」
「……帰ったら話をしよう、と」
「解った。伝えておく」
「いってきます」

赤也が何を怒っているのかはまだ解らないが、怒らせてしまった事は事実。
少し離れて己の行動を顧みるいいチャンスだろう。
ずっと足が遠退いていた実家へと向かった。
実家は同じ県下ににあるものの、隣県ほど近く都心とは正反対の位置にある。
電車に揺られて約一時間半。
駅からバスに乗り換えて十五分。
バス停から徒歩十分。
その地域のベッドタウンだから所謂田舎ではないが、やはり都心から遠く離れている分緑が多い。
先代、先々代から受け継いだらしい実家は辺りで一番の大きさを誇る。
古さも一番だと思うが。
この家から離れた頃は新緑だったが、今は紅葉が綺麗な庭を抜け玄関に立つ。
「あら蓮二。おかえりなさい」
母親に出迎えられ、生まれ育った懐かしい家を前に、ふと違和感を感じた。
この家は確かに自分の家のはずなのに、何故か他人の家のような感覚に陥る。
精市の家に慣れすぎたか、と苦笑いが漏れた。
あそこがまるで我が家のような居心地の良さだからだろう。
「こんな早くにわざわざ帰って来なくても大丈夫よ。父さんもう落ち着いてて今は奥で寝てるわ」
「でも心配だったから」
それは理由の半分。
半分は今朝の反省。
「ここのところ急に寒くなったでしょう?それで心臓に負担がきたらしいのよ。
しばらく自宅でゆっくりしてれば大丈夫だって先生もおっしゃってたから」
「そう…」
家の中に入り、眠っているらしい父に会うのは後にして、かつての自室へと向かう。
畳敷きのそこは、この上なく居心地のいい場所だと思っていた。
だが今は、どこか他人の部屋に上がりこんでいるような気分にさせられる。
襖を挟んで隣の間は赤也の部屋。
四枚繋ぎのうちの真ん中二枚を両脇に開く。
雨戸が閉められたままで中は薄暗い。
その中央に寝転び、今朝の出来事をもう一度思い起こす。

赤也の嫉妬は今に始まった事ではない。
その度合いは幅広いもので、一人プリプリと拗ねるだけのものから相手を容赦なく攻撃する危険なものまで。
以前それが原因で一度離れた事を思い出す。
嫉妬される事は決して悪い気はしない。
それだけ相手に必要とされ、求められているという事なのだから。
だが問答無用の危害を加えるのは頂けない。
昨日も仁王は全く気にしていないようだったが、赤也を思えばそこは直して欲しい。
それよりも、ブン太は何故あんな風に怒っていたのだろう。
様々な可能性を頭に巡らせるが、どれも納得いくものではない。
暗闇に慣れて、部屋の中が見えてくる。
幼い頃、背比べをした柱が目に入った。
すぐニイより大きくなるよ、と言っていた赤也。
結局それは未だ叶っていない。
赤也の悔しそうな顔を思い出し、思わず笑いが漏れた。
何か一つでも勝ちたいと、負けず嫌いがそんなところでも顔を出している。

「あなた何一人で笑ってるの。こんな暗い中で」
「…母さん」
いつの間にか自室に来ていた母に驚く。
全く気がつかなかった。
「呼んでるのに全然返事がないからビックリしたじゃない」
「ごめん…考え事してた」
「大学はいいの?」
「ああ…明日は行くよ。今日は別に出なくてもいい授業だから。あと今週はここから通うから」
「そう。解ったわ」
それだけを言って出て行ってしまった。
やはり赤也の事は聞いてこない。
家を出てから一度たりとも赤也の話を母の口から聞いた事がない。
毎月振り込まれる仕送りは二人分のものだから忘れている事はないようだが。
この家で肩身を狭い思いをしてまで居続けなくてよかった。
格式張った家で相当苦しい思いをしていたのだろう。
だが今は違う。
約一名父親のように口うるさ……元い、厳しい奴もいるが赤也を思う人たちに囲まれ、
自分の目指す道を真っ直ぐに突き進む。
「ここを離れて正解だったな…」
柱の傷を擦り、笑いが漏れた。
きっとすぐに追い越せるぞ、と。

昼が過ぎ、何もしなくても出てくる昼食に激しい違和感を感じた。
ここは楽が出来る、と喜ぶべきではないのか。
ここでは腹が減ったと騒ぐ人間がいない。
少し黙ってろ、早く食べたいなら手伝え、が合言葉のようになっていた。
主婦業、否、母親役が板についたという事か。
あまり嬉しくない肩書きだが、形はどうであれ誰かの為に自分が役立っているのなら、それは素直に嬉しい。

昼食後、父の様子を見に奥の座敷に行く。
庭に面したその部屋からは、赤也と初めて会った大きな樹が見える。
それに向かうように父の床の横に腰を下ろした。
「久しぶりだな蓮二」
少し顔色が悪いようだが、声はしっかりしている。
「随分帰ってなかったから」
「元気にしていたか?」
「それなりに。具合はどうなの?」
「もう大丈夫だ。今朝はさすがに苦しかったがな」
元々口数が少ない父との会話はそっけないものだ。
挨拶のようなやりとりが終わり、無言の時間が流れた。
「しばらくはここから大学に通うから…何かあったら言って」
「ああ…ありがとう」
それ以上何も話す事はなく、座敷を後にした。
大学を休んだのはよいのだが、やる事が山のようにある精市の家とは違う。
次々と問題を起こす奴もいない。
何もする事が無い。
「…午後の授業だけでも出ればよかったか……」
壁にかけられた時計を睨み、溜息を一つ吐いた。
すっかり精市の家での生活リズムが体に染み付いている。
朝起きて、朝食当番なら全員分の朝食を用意して、弁当係なら弦一郎と赤也二人分の弁当を用意する。
放っておけばジャンクフードばかりを食べる赤也を危惧しての事だ。
弦一郎の分は一人分も二人分も変わらないからついでに作っている。
最初の頃は家事が全く何もできなかった精市も、ようやく洗濯や掃除、食事の後片付けぐらいはできるようになった。
料理が全く出来ないのは相変わらずだが。
一度食事当番にした時、食卓にサバト料理が上がった。
とても食べられるものではないというのに、無理に食べようとした弦一郎は二日寝込んだ。
それを見た他の連中もあんな思いはしたくないと、満場一致で精市は生涯料理係免除となった。
一限から四限までみっちりと授業がある時は帰宅するのが四時半。
その時間に帰宅できるのは学生身分の三人だけ。
出来るくせにやろうとしない仁王は外した自分と柳生が主に夕食の買出し係。
あとは仕事の都合に合わせて他の者も組み合わせて夕食係となる。
「……慣れとは怖いものだな」
母は忙しなく父の世話を焼いている為、まだ昼食の後片付けができていない。
それに気付き、自主的に手伝いをしている自分に呆れともとれる溜息が漏れた。
実家暮らしの時には考えられない事だったから。
母も驚いていた。
台所にあなたが立っているなんて、と。
しかし精市の家ではそれが当たり前の光景となっている。
それが嫌だと感じないあたり、すでにこの家ではなくあの家の住人である自分が本来の姿なのだ。

それが証拠に、翌日大学帰りについ足が向いてしまった。
うっかりと精市の家に帰っていたのだ。
全くの無意識だった。
庭先で花壇の手入れをしていた精市も驚いていた。
自分でも驚いた。
「蓮二?今週は帰ってこれなかったんじゃないの?」
「いや…そのつもりだったんだが……」
「まぁいいや。入ったら?まだ時間あるんだろ?」
「ああ」
リビングに入ると、ダイニングテーブルで勉強をしている柳生だけがいた。
「柳君。お父様の具合は大丈夫なんですか?」
「ありがとう。大丈夫だ。今日も仕事に行こうとして母と喧嘩してたぐらいだ」
「そうですか。それはよかったです」
時計を見れば、午後五時。
そういえば、と思い縁台からリビングに入ってくる精市に問いかける。
「赤也は?」
「まだ帰ってないよ」
「…そうか」
荷物を下ろして柳生の向かいに座ると、後ろからくすくすと笑い声が聞こえた。
「……何だ精市」
「蓮二気付いてる?」
「何をだ」
「無意識なんだ」
「だから何がだ」
精市は何も答えず手を洗いに洗面所へと消えてしまった。
眉をひそめ首を傾げると、今度は柳生も笑い始めた。
「私も気付きました」
「何?」
「本当に無意識なんですね」
こんな風に解った顔をされて、些か機嫌が悪くなってしまう。
一体何だというのだ。
そう思い憮然としていると、戻ってきた精市が隣の椅子に座った。
「蓮二はね、いつも赤也の姿探してる」
「え……?」
「真田が帰ってきた時もブン太やジャッカルが帰った時も。
いつも赤也はどうした、一緒じゃないのかって」
「切原君がこの家に居ない時もですよ。さっきのようにいつも尋ねています。赤也はいないのか、と」
「ブン太が一人帰って来た時ジャッカルの事は聞かないし、
逆にジャッカル一人帰ってきてもブン太はって聞かないよ?」
「私と仁王君もですよ。だいたいセットでこの家に来る事が大半なのに、
片方だけの時でも何も聞いてきません。切原君の時だけです」
全く気付かなかった。
いつも無意識に求めていたというのだろうか。
記憶にない。
「蓮二にとって赤也は特別なんだよ」
「そのようですね」
「いや……そうか…」
そんな事を指摘されてまで冷静でいれない。
顔が火照るのが解った。
緩みそうになる口元を押さえ、顔を顰める。
「なのにあんな風に赤也を叱るからブン太が怒ったんだよ」
「何の話ですか?」
柳生はここ二日家に寄っていなかった為、一昨日の出来事を知らない。
精市があらましを説明すると、柳生は仁王の行動を怒った。
全く、またですかあの男は、と。
「その様子じゃ、まだ答えは見つかってないみたいだね」
「ああ……赤也の怒る理由はいつもの嫉妬として…結局ブン太の怒る理由は解らなかった」
「ならもうちょっと悩んでみたら?」
「…面白がってるな」
声が笑っているし、目が如実にそれを表している。
「まあね。蓮二がこんな風に悩んだりって赤也に関してだけだし。滅多にお目にかかれないしねー」
「そうですね…冷静な君がこうして誰かに振り回されているところはなかなか見物です」
「柳生まで何だ…」
皆揃って悪趣味だ。
この調子だと仁王あたりも面白がっていそうな気がする。
だいたい仁王のあの行動も、恐らくは赤也をからかっての事。
早いところ答えを見つけたい。
鋭く二人を睨んだ時、ポケットに入れっぱなしにしてあった携帯電話が鳴った。
画面には実家、との文字がある。
父に何かあったのでは、と心配になったが単に帰りに醤油を買ってきてくれという使い走りの電話だった。
何にせよこの二人との陰湿な会話から逃れる為の言訳にはなりそうだ。
結局赤也に会う事無く、再び実家に戻る事となった。

言われた通り醤油を買って実家へ戻ると玄関先で往診に来た医師とすれ違う。
具合が良くないのか、と急いで奥の座敷へと向かった。
「父さん!」
「おかえり。どうしたそんなに急いで。何か用か?」
声もかけずに襖を開け放つと、父は何でもない様子で布団に座っている。
「……今そこで先生とすれ違ったから…また悪くなったのかと思って」
「いや、大丈夫。少し苦しくなったから念の為にと診てもらっただけだ。心配ない」
「そう…よかった」
ほっとして気が抜け、ふらふらと父の元へ歩み寄る。
医師の姿を見た時、以前赤也の具合が悪かった時の事を思い出した。
精市が発作で入院した先で偶然会った時の事だ。
あの時の心配はこんなものではなかった。
初めて見る苦しそうに顔を歪める姿に、それこそ身の切られるような思いだった。
離れていても、ずっと頭の片隅にあって、気が気ではなかった。
目の前に死の淵で彷徨う精市がいたというのにだ。
赤也は蓮二の特別だ、といった精市の言葉を思い出した。
まだこの思いはちゃんと伝わってはいないのだろうか。
赤也をまた不安にさせているのだろうか。
「蓮二、赤也は元気にしているか?」
「え…ああ」
タイミングよく赤也の話題を出され、咄嗟に言葉が出なかった。
それより、父が赤也の事を気にかけている事にも驚かされる。
「今は何をしている?学校を辞めてから…働いているのか?」
ゆっくりと腰を下ろし、父と目線を合わせる。
「今はプロのテニスプレイヤーを目指して各地の大会を荒らしまわってるよ。破竹の9連勝中だ」
「……昔から運動神経だけはよかったからな」
赤也の成績の悪さは父も充分すぎるほどに解っている。
毎回散々な結果を見せる中、燦然と輝いていたのが体育の成績だけだ。
それに運動会の花形競技では必ず目立つ存在だった。
祖母や母は勉強もしっかりしろと怒っていたが、父だけは何か一つでも特技があればいいと言っていた。
「運動神経だけは、ね」
だけ、を強調して反復すると、漸く父から笑いが漏れた。
「そうか…元気にしているならそれでいい」
「あら蓮二。帰ってたの」
開けっ放しにしていた襖から母が顔を覗かせる。
「ただいま」
「おかえりなさい。遅いからまだ夕食の用意できてないわよ。お醤油買ってきてくれた?」
鞄と一緒に置いてあったスーパーの袋を手に立ち上がり、座敷を出る。
「手伝うよ」
「何を?」
「何って…夕飯作るのを」
「あなた本当に変わったわね」
二日連続のその言葉に、自分の立場を自覚するには充分だった。
慣れた包丁捌きを見て母は感嘆の声を上げる。
そしてお姉ちゃんに見習わせたい、との余計な一言も。
姉は中高一貫の全寮制の学校に通っていた為家には殆ど寄り付かなかった。
所作の全てが落ち着き無く、女版赤也、といったところだ。
その所為か二人の仲は良かった。
母や祖母に怒られる時は必ずセットになっていた。
高校卒業後はイギリスの大学に留学して、そのまま向こうに住んでいる為しばらく会っていない。
そういえば元気にしているのだろうか。
「お姉ちゃん、向こうで婚約者見つけたって。こないだ挨拶に来たわよ。
丁度お祖父ちゃんとお祖母ちゃんがいない時見計らって」
「え?姉さん結婚するの?」
「さあ?したがってはいるけどお祖父ちゃんが何て言うか。青い目の旦那様をこの家に入れるかしらね」
相手がどこの誰であれ、あのじゃじゃ馬を嫁に貰ってやろうと言ってくれる奇特な人間がいるうちに
熨斗をつけて追い出した方がよい気がするのだが。
赤也と違い、頭は切れる姉だった為昔から男を見る目だけは確かだった。
だからそんな姉が結婚したいという相手も無条件に信用がおける。
さっさと嫁にやればよいのに。
ただ昔気質の頑固な祖父を説得するとなると容易ではなさそうだ。
「あなたは?」
「は?」
「彼女の一人や二人いるんでしょ?」
いたとしても一人で充分だし、そもそも相手は彼女、ではない。
変な疑りをかけられては面倒なのでいない、と答えておく。
母はそうなの、と安心とも落胆ともとれる表情で肩をすくめた。
「家に戻る気はないの?」
「ない。大学もまだ三年以上残ってる」
「ここからでも通えるでしょ」
「遠い。一週間ぐらいならともかく…ずっとは無理だ」
「お姉ちゃんはそんなでいつ日本に戻るかも解らないし、
お父さんはあんな状態でしょう?あなたが家にいてくれれば助かるんだけど」
そう言ってくる母の顔を見る事はできなかった。
今ならば赤也を一人にする事なくこの家に戻る事は可能だ。
精市の家ならば安心して預けておける。
頼めば恐らく断らないだろう。
それでも、その道は出来れば避けたい。
否、出来ればではない。
したくない。
あの家を離れたくない。
赤也の側を離れたくない。
「考えておいてちょうだい」
思いつめた顔で俯いていると、プレッシャーをかけるように母は肩を叩いた。

後篇へ

 

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