La Familia〜Reset(後篇)

夜半、精市から電話があった。

そろそろ寝ようかと、かつての自室に布団を敷いたところで携帯電話が鳴り始めた。
着信音などすべて一律電子音で誰からかかってきたかなど解らない。
画面を見て精市からだと解る。
自宅からではなく携帯電話からかけているので、家ではないのだろうか。
そう思いながら着信ボタンを押した。
「はい」
『ごめん、寝てた?』
画面を見てあれやこれやと考えていた為、出るまでに少しのタイムラグがあった。
気を使う精市の声がする。
「いや、寝ようと布団を敷いたところだ。何かあったか?」
『ううん。どうしてるかと思って。お父さんの具合どう?』
「まだ少し不安定だが大丈夫そうだ」
部屋の窓を開け、腰より低い桟に腰掛ける。
目の前に同じ高さの松の木がある。
その向こう側は祖父母の住む離れがある。
明かりは消えているのでもう就寝した後なのだろう。
そういえば昔これに登った赤也が祖母の雷を受けていた。
『来週には帰れるんだろう?』
「ああ……あの…」
『赤也はどうしてる…だろ?』
先を越されて閉口する。
くすくすという空気だけの笑い声が電話機を通って聞こえてきた。
『明日から遠征だからもう寝たよ』
「そうか…」
『応援に行ってやれないんなら試合日程ぐらい覚えててあげなよ』
「覚えてたよ。まだ起きてたら説教してやろうかと思ってただけだ」
『ふーん…ま、いいや。赤也、淋しがってるよ。さっき部屋覗いたら君のベッドで寝てた』
「ああ…」
『なーんか元気ないっていうか覇気がないっていうか生気がないっていうか。
丸一日真田に怒られない赤也なんて初めて見た』
「いい事じゃないか」
『怒られない赤也なんて赤也じゃないよ』
「随分な言われ様だな……」
そうは言ったが、全く以ってその通りだった。
赤也には悪いが想像がつかない。
それにこれは望んでいる成長ではない。
単にしょげているだけだ。
根本的な解決にはなっていない。
『真田も淋しそうだよ、赤也を怒れないから』
「子離れしろと言っておけ」
赤也は弦一郎の怒りの捌け口ではない。
精市もそれを解っているのか電話口で大笑いした。
横から弦一郎の怒鳴り声がしている。
「今部屋なのか?」
お前が大きな声出すから蓮二に聞こえたみたいだ、と遠くから聞こえた。
電話口から少し離して弦一郎に言ったのだろう。
『いや、リビング。横で掃除してる。さっき茶筒ひっくり返したんだ』
「お前がやったんだろう…」
『はずれ。赤也。自分でお茶いれようとしたみたいなんだけど、派手に散らかしてた』
「弦一郎の雷は落ちなかったのか?」
『怒る気も失せる元気の無さだ。掃除はいいからって先に寝かせた』
相当な重症のようだ。
こんな状態で明日からの試合は大丈夫なのだろうか。
『君が…もう帰らないんじゃないかって心配してるんじゃないかな』
「え……?」
心臓が軋む音が聞こえた。
そして先程母に叩かれた肩が急に重く感じられる。
赤也は何か予感めいたものを感じたのだろうか。
『あの時の事、思い出してんじゃないか?』
「あの…時……」
精市の言葉に思いだされる。
赤也から逃げていたあの日々を。
『君たちが長い間離れたのって、あの時だけだろ?』
「そうだ……それ以前は最長で高校の修学旅行の時だな。確か七日間だ。その時は平気な顔して土産をせびっていたぞ」
『それは絶対帰ってくるって確信があったからだろ。
お父さんの具合が悪いんなら、実家から出してもらえないんじゃないかーって』
「鋭いな。その通りだ」
『そうなのか?』
「…さっき母とその話になったところだ。姉さんも留学先からいつ帰るかも解らないから俺だけでも帰れないかって」
『…それで?』
「少し困った」
『もう戻らないつもり?』
「逆だ。そっちに帰りたい。だが帰り辛いのも事実だ」
「そっか……」
少しの沈黙。
小さな溜息が口から漏れた。
それは精市の耳にも届いたらしい。
『じゃあこれ以上君の悩みの種を増やさないように教えてあげるよ』
「何を?」
『ブン太の怒った理由』
「ああ…」
『まさか忘れてたわけじゃないだろうな?』
気の抜けたような返事に精市の声が鋭くなる。
が、それはありえない事だ。
何故なら、
「いや、こっちに来てからそればかり考えてた」
一分一秒、赤也の事ばかり考えていたから。
『それだけ思ってるのなら、どうして赤也を叱ったりしたんだ』
「え…?」
『ブン太は君が仁王と赤也を同じ扱いにしたから怒ったんだよ』
「同じ…って」
『誰に何をされても、赤也がどんなになっても君だけは赤也の味方でいなきゃならないのに仁王を庇った。だから怒ったんだ』
「けどそれは―――…」
『蓮二。理性で固めた正論がいつも正義とは限らないよ』
遮るように精市の強い声が電話口から流れる。
それ以上何も言えなかった。
『赤也は確かに仁王に対して酷い事をしたかもしれない。でもそれを叱る前にする事があったはずだ。
やり方は間違えたかもしれないけど、赤也は自分の居場所を守っただけなんだから』
「………そう…か」
『君にとってはたかがその程度、の事かもしれないけど赤也は心中穏やかじゃなかったはずだ。
君がその程度と思ってるのなら、それは赤也と他の皆を同等として扱ってしまってる事になるんだからな。
赤也は甘ったれだけど、他の連中には絶対君にするような甘え方はしない』
赤也を他の者と同じように思った事は一度もない。
もちろん皆大切で、失いたくない友人で、家族の様なもの。
しかし赤也のそれは比ではない。
赤也は特別なのだ。
だが皆が頼ってくれる中で、どこかその一線が甘くなっていたかもしれない。
あの行動はそんな甘さを見抜いた警鐘のようなものだったのだ。
「先に…仁王を咎めるべきだったな」
『気付いた?』
「ああ…」
からかっている事は解っていたのだから先に仁王の行動を叱り、それから赤也を諭すべきだった。
あれでは赤也が怒っても無理はない。
庇ってもらうどころか悪者にされたのだから。
『仁王なら柳生とブン太のダブルパンチで延々と説教されてたから当分悪さはしないと思うよ』
その光景が目に浮かび、思わず吹き出してしまった。
恐らく相当堪えただろう。
流石の仁王も反省しているはずだ。
『蓮二』
「何だ?」
『もう一つ…聞きたい事があるんだけど』
「どうした、改まって」
『ブン太や…他の皆が君たちの関係と過去を知りたがっている。もちろん興味半分や好奇心じゃない』
そう、あの家の中で赤也との過去を知るのは弦一郎と精市だけだった。
他の四人にはまだ話せていない。
思い合っている事はもちろん知っているが、それ以前の事は何も。
いずれ話そうと思いながらここまできてしまっていた。
知られて困る事はない。
皆の事を理解し信用している。
だが食卓での話題に、というような軽い内容でもない。
ずっと話すタイミングを計っていたが、向こうから接触があったようだ。
『どうする?まあ俺も真田も全部を知ってるわけじゃないから…偏った話になるかもしれないけど』
「赤也に聞いてくれ。赤也がいいと言うなら俺は話してくれて構わない」
一瞬の沈黙と精市の柔らかい笑い声が届いた。
「……笑うところじゃないだろう」
『いや…君たちってほんと……』
「精市?」
『赤也も同じ事言ったよ。ニイがいいって言ったら俺は別にいい、って。ニイって君の事だろ?そんな風に呼んでたんだな』
もう絶対に呼ばない、と息巻いていたというのに、また口をついて出たのだろう。
『何か上の空って感じだったから…無意識に出たんだな。きっと普段は相当気を使って一生懸命に柳さんって呼んでるんだろ』
「そうか……」
『蓮二。赤也は家族としての君を望んでいるがそれは兄としてじゃない』
「解っている」
『ならたまにはちゃんとそれを伝えてやれ』
「難しいな…思っている事を相手に伝えるのは」
『赤也は良くも悪くも思ってる事全部口に出すタイプだからな。
君は真逆だからね…赤也と同じようにしろってのは酷だし、せめて半分ぐらいは言ってあげたら?』
「そうする」
『っと…そろそろ寝る時間か。遅くまで悪かったな』
「いや…ありがとう」
『おやすみ』
「おやすみ」
電話を切ろうと耳から離した瞬間、蓮二、とまた精市の声が聞こえた。
『ちゃんと帰って来い』
「解っている」
帰るべき場所は、一つしかないのだから。


補講が重なって授業が忙しくなり、それから三日は実家には寝るだけに帰るような生活が続いた。
精市の家にも帰れていない。
何だかんだと理由をつけて母に引き止められているからだ。
その間に一度精市から連絡があった。
皆に君たちの事を話したよ、という旨のメールが。

週末、久々に時間割通りに授業が終わり、まだ日のあるうちに帰宅する事が叶った。
門を潜り、飛び石を歩いていると縁側に座る父の姿が見えた。
玄関には入らず庭に入り近付くと、父もこちらに気付いた。
「おかえり。今日は早いんだな」
「うん」
「そうか。少し話があるんだが…構わないか?」
「ああ…いいよ」
父は隣に座布団を置くと座るように促す。
言われるままに庭を向くように肩を並べて座った。
しばらく何も言わず庭を眺めていたが、不意に口を開いた。
「昨日…赤也が来た」
「赤也が?」
意外な言葉に驚かされる。
赤也は家を出て以来ここには寄り付いていない。
「今一緒に住んでいるという…真田君と一緒に」
「弦一郎も?」
「まるで父親だな、彼は」
聞けば久々に帰る実家にバツが悪そうに曖昧な挨拶をする赤也に、
家に帰った時はただいま帰りましたと言わんか、と拳骨を食らっていたとか。
どこにいても弦一郎は弦一郎だ。
並の奴では到底出来ない事をやってくれる。
「いつも赤也を叱ってくれる存在だからな。あいつのおかげで随分赤也も落ち着いた」
「ああ…そうだな」
それにしても一体何の用があったのだろう。
第一、昨日は遠征から帰ったばかりのはずだ。
家には帰らずまっすぐここに寄ったのだろうか。
「牽制されてしまったよ」
「牽制?」
「……口には出さなかった。だが目が言っていたよ。ニイを取るな、って」
赤也の正直で真っ直ぐな瞳は嘘をつかない。
敏い父が気付かないはずもなかった。
「それからお前への気持ちもお前の気持ちも聞いた」
「赤也が話したのか?!」
親にもあまり見せた事がない程に焦った。
だが父は至って冷静に構えている。
どこまで話したのだろうか、と青い顔で次の言葉を待った。
「そんな顔をするな。別に反対も軽蔑もしない」
「え…?」
「赤也にとってこの家は針の莚だったからな…そんな中でお前だけが味方でいてやったんだ。
特別な感情を抱いても無理はない」
無表情な父からは何を考えているか読めない。
だが声は優しい。
本当に許しているというのだろうか、世間からは後ろ指を差されるかもしれないこの関係を。
「最初は兄事しているものだと思っていた。だが話を聞いているうちに真剣なのだと解った」
赤也はイチかバチかの勝負に出たのだ。
話してしまえば一生離れてしまう事になるかもしれない。
だが今の中途半端なままではいられないと自ら突破口を開こうとした。
赤也の意志の強さにはいつも驚かされていたが、まさかここまでとは。
「…どんな事を言ってた?」
「自分が未熟な所為で沢山傷付けたけど、一番大切な人だから一緒にいたいんだ、って。
……お前たちが惹かれ合っているというなら父さんは反対しない。たぶん運命みたいなものだろう」
漠然とした抽象を嫌う父から運命論が出るとは思わなかった。
驚いて声が出ないのを見て、父はふっと顔を緩めた。
「久しぶりに会って驚いたよ。あいつそっくりになってて」
「あいつ…って?」
「赤也の父親だ。昔…色々あってな」
それから父は今まで話してくれなかった赤也との関係を話してくれた。

幼い頃から不思議に思っていたのだ。
両親が亡くなったとはいえ、赤也にはまだ祖父母もいるし、親戚も沢山いる。
なのに何故、縁の無いうちで預かる事になったのか。
「赤也の父親とは生まれた時から一緒だった。幼馴染だったんだよ。お前達と同じだ…
ずっと一緒に育ってきて友達以上恋人以上に大切な親友だった。唯一無二の存在だった」
恋心とは程遠いが、尊い想いだった。
だが思いは遂げられる事なく引き裂かれたのだと、父は無表情のまま淡々と語った。
互いの家の都合で別々の人生を歩む事となった。
以来、一度も会う事はなく、再会は葬式となってしまった。
「お母さんが赤也に辛くあたるのは…赤也の所為じゃない。因縁というか…恋敵の子供だからついな」
「恋敵って…母さん赤也のお父さんが好きだったのか?」
「なかなか凄い三角関係だろう?」
「笑い事じゃないよ」
面白そうに言う父に呆れると、漸く表情が緩んだ。
つまりうちの両親で赤也の父親を取り合っていた、そういう事なのだろうか。
思わぬ暴露話に若干頭が混乱してくる。
「あれも気の強い女だからな…赤也の母親に取られた気でいたんだ。
その後も上手く心の整理をつけられなかったのだろう。悪気はないんだがついきつくなったんだ。
まぁそれで赤也もお前に傾倒する結果になったんなら…皮肉なもんだ」
単に赤也の出来が悪いから、というわけではなかったのだ。
とはいえ、理由の半分ぐらいは占めていそうなものだが。
「赤也も親戚の家で引き取られるはずだったんだが…あいつの遺言で私に頼むとあったんだ。
遺産の問題もあったしな…仕事の関係で権利収入が多いからそれに群がる奴らが後を絶たなかった。
実際残された遺産やその後に発生した金銭のほとんどは親戚に取られてしまった後でな…
このまま金のなる木のような扱いを受けるのを不憫に思って遺言通りうちで引き取る事にした」
父は不意に立ち上がり、床の間の下にある隠し金庫から何かを取り出し戻ってきた。
その手にあったのは預金通帳と印鑑だった。
無言で渡され、それに目を通す。
名義は赤也のものになっている。
「これは?」
「赤也に残された遺産だ。お前に託す」
渡された通帳の表記を見れば、毎月一律に送金されている。
赤也の分の生活費はここから送られていたのだ。
それでもまだかなりの金額が残っている。
「プロになるといってもまだまだ時間は必要なんだろう?それで賄ってやってくれ」
「…解った」
「来年には高校に入り直すんだってな。今度こそ道を踏み外さないようにしっかり見てやるんだ」
「解ってるよ」
今まで一人奮起していた事も、今はかけがえのない友が助けてくれている。
今度こそ大丈夫だ、と確信した。
「それにしても…赤也がお前に傾倒するのは解るとして、お前はどうなんだ?弟の様に可愛がっていたんじゃないのか?」
「ああ」
「好きだ好きだと言われて絆されたか?」
最初はそうだったかもしれない。
だが今ははっきりそうではないと言える。
「いや…俺にとって赤也はこの家での存在理由だったよ」
「ほう…まぁそれなら赤也のいないこの家に無理に帰る事はない。お母さんが色々言っているようだが気にするな。
父さんも母さんも健在だし私ももう大丈夫だ。お姉ちゃんも来年には帰ってくるから」
「結婚するんだって?向こうの人と」
「お相手は相当の日本通らしくてな…この家を充分に任せられる器の男だった。だからこの家の心配はしなくても大丈夫だ。
お前は赤也と一緒に好きに生きればいい。それがあいつの…親友との約束にも繋がるんだからな」
「約束?」
「大事な奴の忘れ形見を幸せにする事、だ」
そう言って、父は遠い目をして微笑んだ。

話しているうちに辺りはすっかり暗くなり、空気も冷えてきた。
父の体に負担になるだろうと部屋の中に入った。
成り行きとはいえ息子にこんな過去を話すのは辛労だったろう。
それでなくとも口数の少ないタイプだというのに。
だが聞けてよかった。
その為の風穴を開けてくれたのは他ならぬ赤也だ。
思えばこんな風にゆっくりと父と話したのは初めてかもしれない。
色々あったがここに戻った事も正解だった。

縁側から直接入った為、はいてきた靴を持って玄関へ回る。
いつも置いてある母の草履がない。
聞けば父の代わりに近所の寄り合いへ行ったらしい。
「お母さんが帰ったらまた煩いから今のうちに帰れ」
「え…でも」
「帰りたいんだろう?」
母と同じ様に肩を叩かれる。
だがその重さは全く違った。
その言葉に甘え、急いで帰る支度を整えた。
玄関まででいいと断ったが、父は門の外まで見送りにきてくれる。
先に門扉をくぐった父が何かを見つけた。
「……迎えが来てるぞ、蓮二」
「え?」
門から一番近い電柱の真下。
ほのかに外灯が照らす中、立っていたのは赤也だった。
「―――赤也!」
スクールの帰りにこちらに来たのだろう。
ジャージを着たままで、肩にはテニスバッグがかけられている。
車の通りが無い事を確認すると、足早に駆け寄った。
「あ…えっと……」
一瞬顔を見た後、俯いたまま言葉に困窮する赤也の頭を撫でる。
「帰るか、一緒に」
「え…でも」
いつの間にかすぐ後ろにやってきていた父をちらりと上目で見る。
迷子の子犬のような弱気な瞳に、父が笑い始めた。
「気を使うなんてお前らしくない。昨日の勢いはどうした」
「そうだけど…」
「凄い勢いで宣言したんだぞ」
父が赤也を指差し、こちらを向いて何かを言おうと口を開く。
だが、
「あーっ!あーっ!余計な事言わなくていいっっ!!」
酷く慌てた様子で赤也が父に飛び掛り、口を押さえてしまった。
一体何を言ったというのだ。
「赤也?」
「ななっ何でもないっ!何でもないから!!」
「何なんだ一体…」
「お姉ちゃんの婚約者に挨拶された時の事を思い出したよ」
赤也の手から逃れ、楽しそうにそう言う父に訝しげな目を向ける。
こんな風に人を食うような表情をする父を初めて見た。
本当に一体何を言ったというのだ。
「赤也」
「え?」
父は急に顔を引き締め、赤也の肩を叩いた。
「本当に大きくなったな…お前の父ちゃんの若い頃とそっくりだ。キツめの大きな目もその癖っ毛も…
自信家で野心家なところも短気なところも猪突猛進で周りが見えなくなるところも。
運動神経の良さは一緒だったが頭はあいつの方がよかったな。……受験、頑張れよ」
「解った」
「そして早く夢を現実にして、こいつを幸せにしてやってくれ」
ぽんっと背中を叩かれ、赤也の隣りに押し出される。
感動的なシーンのはずだが、些かの呆れと笑いが含まれてしまう。
「父さん…娘を嫁に出すんじゃないんだから」
「しかし昨日赤也が…」
「わーっわーっ!!ストップ!ほんっと黙ってて!」
再び飛び掛ろうとする赤也をひらりと避け、父は門へ向かって歩いていった。
「続きは赤也から聞け。それから、たまには顔を見せに来い」
「ああ…ありがとう父さん」

木造りの門が閉められ、通りに静寂が生まれる。
歩き始めると、斜め後ろについてくる赤也が視界の端に入った。
バス通りに出るまでは人の通りがほとんどない。
ポケットに入れたままの赤也の手を引っ張り出し、ぎゅっと握った。
赤也が驚いたように顔を上げる。
「駅まで歩くか。この時間ならバスを待つより早いだろう」
「え…あの…」
「お前の鍛錬にもなるしな。ほら、負荷だ」
持っていた荷物を渡し、そのまま手を引いて歩き始める。
右肩にテニスバッグ、左肩に教科書や着替えの入った大きなバッグを持った赤也が慌てて足を進めた。
「…あの…手…」
「嫌なのか?」
「俺は全っ然嫌じゃない!けど…アンタが嫌な思いするのは嫌だ」
「嫌なら繋いだりしない」
しばらく無言のまま歩いていたが、不意に赤也が口を開いた。
「俺…またアンタが帰ってこないんじゃないかって気がして…気が気じゃなかった」
「うん」
「そんな事ない、絶対帰ってくるって思ってたけど…それでもやっぱ不安で…」
「うん」
「勝手な事してまた迷惑かけるかもとか…色々考えたんだけど、
やっぱ考えるのって性分に合わないし待ってるだけなのも嫌だったから…」
「だから昨日父さんに宣戦布告しに行ったのか」
赤也は何も言わず、黙って頷いた。
あんな諍いを起こした直後だったから、特に不安だったのだろう。
だからこんな強行に及んだ。
しかし不安だからといって癇癪を起こしていた頃を考えれば成長の兆しは見えているか、とこっそり笑った。
駅に近付くにつれ、徐々に人通りが増えていく。
だが繋いだ手は離さないまま歩いた。
「赤也」
「何っスか?」
「すまなかった」
「え…?何が?」
「お前を他の誰かと同じ様に思った事など一度も無い」
最初、何の話をしているのかと解らない様子で呆けていたが、すぐに理解できたのか慌てた様子で頭を下げた。
「俺も…つまんねーヤキモチ焼いてごめんなさい…別に仁王さんがどうとかそういうの全然思ってなかったんだけど、
いつも自分のいる場所に違う奴がいるの見て…何か抑えきかなくて…」
「心配しなくても俺はもうどこにも行かない。俺にはお前だけだ」
何を驚いているのか、赤也は口をぽかんと開けたままその場で立ち尽くした。
「どうした?変な顔をして」
「ちょっ……そんな大事な事物のついでみたいに軽く言わないで下さいよ!!」
「軽くなどない」
むっと表情を歪めると、ムキになって言い返してきた。
「言葉の重さは解ってますよ!けどアンタいつも何でもない風に言うから…っ」
「そうか?これでも緊張して手が震えてる」
繋いだ右手ではなく、左手を街灯にかざして見せる。
微かに震えるのが赤也にも解ったのか、繋いだ手をぎゅっと握り返してきた。
「自分の気持ちを伝えるというのはなかなか難しいものだ」
「ごめん…」
「何でもない風を装っているだけだ。本当はいつも余裕などない。特にお前に関してはな…」
いつも心を乱して苦しめて、そして最高の幸せを与えてくれる存在を前にして、どうして冷静でいられようか。

駅に辿り着き、切符を買う為に離した手はまだ赤也の温もりが残っていた。
会社員たちの帰宅時間に被ったものの、上り電車はほとんど人が乗っていない。
だが電車を乗っている間、会話はほとんどなかった。
線路を走る音だけが響く車内、赤也は練習で疲れているのかいつの間にか肩に寄りかかり眠っている。
お子様体温の赤也は近くにいるだけで温かい。
そしてその存在は心にも火を燈すのだ。
最寄り駅を告げる車内アナウンスに、肩を揺さぶり赤也を起こす。
飛び起きる赤也の手を引き、改札を出た。
駅からの帰り道もほとんど会話らしい会話はなかった。
時々、父への牽制球に何を言ったのか聞こうとしたが、はぐらかすだけで結局教えてはくれなかった。

久し振りの我が家、といった気分だった。
玄関を開けると、リビングから精市が顔を覗かせ迎えてくれる。
「おかえり蓮二」
「ただいま」
リビングに入ると一週間のブランクやわだかまりなど吹き飛ばすようなブン太の笑顔で迎えられる。
「おっかえり柳ー!」
「グッドタイミングですね。今から夕食なんですよ」
「匂い嗅いで帰ってきたんやないか、赤也」
「人を犬みたいに言わないでくださいよ!」
「お前ら下らない言い合いしてねぇで手伝え!赤也!お前今日晩飯当番だろ!」
仁王の軽口に怒る赤也をジャッカルが止めに入る。
渋々といった様子で赤也は手を洗いに洗面所へと歩いていった。
弦一郎はすでに食卓について真剣な顔をして夕刊を読んでいる。
そのダイニングテーブルには八人分の食器が用意されていた。

変わらない笑顔で迎えてくれる場所。
ここには一度崩れた程度では壊れないだけの絆があった。
そして崩れ去った砂の上に、また新たな城を築くだけの強い絆が。

「食べながら寝るな赤也!!」
眠気に襲われ夢半分の状態で夕食を口に運ぶ姿を見て、久々に弦一郎の怒号が飛んだ。
心なしか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
「子供かよ赤也ー!」
「お鼻で飯食ってどないすんじゃ。しっかり口に入れ」
「お行儀悪いですね切原君」
「赤也っ!こぼしてる!」
そんな様子に皆の笑い声が重なる。
久しぶりの賑やかな食卓に自然と笑いが漏れる。
実家では祖父母と共に食事を摂っていた為、会話は必要最低限。
テレビなどもちろん見せてもらえなかったからいつも無音の空間だった。
この家に来て初めて知った。
家族で囲む食卓の温かさを。
「赤也、起きろ。寝るか食べるかどっちかにしろ」
「あっ…はいっ!食べますっ」
肩を叩いて起こすと、急に目を覚まし慌てて口の周りについたソースを拭い忙しなく食べ始めた。
「蓮二の言う事ならしっかり聞いてるんだ、赤也は」
「もちろんっスよ」
「馬鹿な事を言ってないで早く食え」
精市の笑い声に衒いもなく答える赤也。
とても自慢できるべき事ではないが、嬉しい。
なるほど、これが精市の言っていた事か。
理性では片付けられない感情。
頭を介して生まれた気持ちではない心から湧き上がる思い。

すっかり目の覚めた様子の赤也と視線が絡み、笑い合う。

帰るべき場所に、帰って来た。

【終】

 

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