Glass Castle in a Sanctuary〜メメント・モリ
§3
放課後、赤也は事故現場へとやってきていた。
一週間の時間の流れは意外と速いものだ、と思わされる。
もう何事もなかったかのようにあの日立ち寄ったゲーム店は営業をしていて、人が行き来している。
止まっているのは赤也の時間だけだった。
店の前でじっと立ち尽くす赤也に、アーチェンが声をかける。
「……辛くはないか?」
「………俺さ…今でも考えちまうんだよ…あの日ここへ来なきゃよかったって…別に特に用があったわけでもないのにさ…」
あの日この店に寄ったのは、単に柳と一緒にいる時間を増やしたかっただけだった。
三年生が引退後、柳と一緒に過ごせる時間は極端に減ってしまった。
新部長となった赤也は他の部員以上に忙しく過ごしていた為、余計に。
便宜上三年生は引退したが試験もなくそのままエスカレーター式に高等部へ進学する。
その為旧レギュラー陣は今でも部活にはよく顔を出していた。
しかしその中に柳の姿はなかった。
委員会だ、先生の用事だ何だと理由をつけてやってこない事に赤也は些か焦っていた。
来年になれば、それが普通の事となるのだ。
高等部へ進学すれば、もう滅多と会えない。
あの日部活が休みとなり、赤也は久しぶりに一緒に帰る約束を取り付けた。
快諾してくれた柳に上機嫌となり、いつも以上に浮き足立っていた。
ゲームになど興味のない柳を連れて店内に入る事はせず、赤也は一人店に入ろうとした。
「絶対に先に帰らないで下さいね!絶対っスよ!」
「ああ、ちゃんと待っているから早く行ってこい」
そう言ってくれたあの人の優しい表情が酷く懐かしく感じる。
一度はプライドをズタズタに引き裂かれ、それでも憧れて焦がれて、ずっと好きだったのだ。
赤也がその気持ちに気付いたのは一年の冬。
部長の幸村が病気に倒れて、珍しく憔悴する柳の姿を見た時だった。
弱っている姿を見て、守りたい、側にいたい、あの人の力になりたいと強く思った。
だがそれを口に出す事はできなかった。
約一年の間、ただの一度も。
「ほんとはあの日………言うつもりにしてたんだよ…好きだって……
あの時言わなきゃもう一生言えないと思ったから。でも言えなくて……」
心の中にある弱い自分が囁いたような気がしたのだ。
今の関係をも崩してまで思いを告げる必要などないのでは、と。
「言わずして後悔したんだな」
アーチェンは黙って頷く赤也の頭を二度、三度小突く。
それを合図に赤也はその場を離れた。
その後ろを歩くアーチェンが呟くように言う。
「それより、期限まであと一週間だぞ」
「わーってますとも」
「目星ぐらいはついたのか?」
「つくわけないっしょ?!」
人を殺すなんて、という言葉は寸前で止めた。
こんな往来で叫べる内容ではない。
自らの口を手で押さえ、赤也は顔を背けた。
「アンタ…何考えてんだよマジで…」
「何がだ?」
「ハクラが言ってた。アンタ魂狩りなんてしなくても生きていけるって…だったら何でこんな契約を結ばせたんだよ」
「……自分で考えろ。答えはお前の中にある」
「俺の?」
それ以上、アーチェンは何も答えなかった。
沈黙が苦しくなり、赤也は違う話題を振った。
「あのさー」
「何だ」
「…アンタこんな契約結ばせたって事は……俺の気持ち解ってるって事だよな?柳さんを好きだって」
「ああ」
「その…気持ち悪ぃとか思わねぇの?男同士だぜ?」
無表情なアーチェンが何を考えているのか赤也には計り知れない。
だがこの一週間で分かった事が一つ。
彼は感情の起伏がほとんどなく、見た目の繊細さとは裏腹に些細な事には動揺しない肝っ玉の据わった男だという事。
そうであるから何とも思わないのだと思っていた。
だが実際は違っていた。
「俺たちに性差の概念はない」
「えっ…って…どういう事?」
「構造上は一応男女には分かれているが、それは単に人であった時の名残であって繁殖が目的ではないからな。
生殖の必要がなければ男女の違いなど微々たるものだ」
「なるほど…」
「俺にしてみれば人間のように男だ女だといちいち拘る事の方が不思議でならない。
ただ相手を求めるだけなら男も女もないだろう」
そう言った彼の表情がいつもより少し優しげに見えたのは、目の錯覚だろうか。
アーチェンの言葉は赤也の心に強く響いた。
その後、赤也の足は自然と病院へと向かっていた。
面会謝絶はまだ解けていない。
あの日、ICUに運ばれる柳の姿が最後の記憶。
「…気になるか?」
ICUの自動扉を前に立ち尽くす赤也にアーチェンがあの時と同じように掌をかざす。
だが赤也はそれを跳ね除けた。
「……どうした?」
「見たくない…あの人が…苦しんでる姿……俺…何もしてやれねぇし」
「現実から目をそらすな」
再び赤也の額に手をかざし、その中の映像を映し出した。
顔に出来た傷は癒えてなくなっていた。
少し顔色は悪いが、死にそうに苦しそうだった事故直後と比べたら随分と良くなったように思える。
しかしこの小康が保たれるのもあと一週間。
確実に死は近付いてきているのだ。
「何もしてやれない?何でもするんじゃなかったのか?」
「そう…だけど……」
「この者の運命もお前自身の運命も…この手にかかっているんだぞ」
アーチェンが赤也の手を取り、その刻印を見せあの時の覚悟を思い出させる。
「思い出せ。奴がお前にとってどれだけの存在だったのかを」
大きく目を見開き、赤也の顔に生気が戻った。
挑戦的で自信に満ち溢れた、コートでよく見せる表情だ。
その顔に安心したように、アーチェンは少し頬を緩めた。
「いい顔だ。忘れるな…己の運命を」
赤也が強く頷くと、黒い天使は姿を消した。
「頑張れ柳さん……俺が…アンタの運命変えてやるから」
ICU入口の擦りガラスに額を付け、祈るような気持ちを呟きその場を離れた。
だが、契約を果たす為には誰かを殺さなければならない。
犯罪を犯す事に対する抵抗感はもちろんある。
しかしそれ以上に赤也を縛り付けているのは等価交換という言葉。
柳と同じだけの価値のある命を差し出せといった、あの言葉だった。
「赤也」
「真田副部長…どうしたんっスか?」
病院の正面玄関を出たところで出会ったのは、見知った顔。
「蓮二の見舞いにと思ったのだが…まだ面会謝絶だと言われてな」
「俺もっスよ」
「そうか…」
二人肩を並べ駅までの道のりを歩く。
いつも必要以上に赤也に構う真田も、今は無言のまま歩を進める。
「蓮二の来ない部活はつまらんか?」
「え…いや……そんな…事は…ない…」
不意に訊ねられ、言葉が詰まる。
目を逸らし途切れ途切れに答えるが、真田はそれを許さない。
逸らした方向へと回り込みしっかりと赤也の視線を捉えた。
「本当か?」
「……正直…淋しいっス…」
真田相手にその場しのぎの嘘は通用しない。
じっと目を見られ、赤也は心に隠した気持ちを呟いた。
「……そうか…これは口止めされていたのだが…」
「何っスか?」
「蓮二がずっと部活から遠退いていたのはな…心の準備をしていたのだ」
「心の…準備?」
「……淋しがっていたのはお前だけではないということだ。あれで情の深い男だからな…
後輩達と離れるのが淋しかったのだろう……いや、そうではない…か…違うな」
「は?何一人でブツブツ言ってんっスか?」
言葉の最後が上手く聞き取れず、思わず聞き返す。
「蓮二はお前と離れる為の心の準備をしていたのだ」
「…俺と?」
「高等部に上がれば今のように頻繁に会えるわけではないからな…急に会えなくなるとなると淋しいからだろう。
今から少しずつ距離をおいていたらしいのだが…」
つまり柳は赤也と同じ気持ちでいたという事だ。
ただ時間の限り一緒にいたいと思っていた赤也とは逆に、何かと深く考えがちな柳は少しずつ離れていったようだが。
「今から思えば無理にでも連れて行っていればよかったな」
「……これが最後みたいな言い方すんなよ…」
「…そうだな…すまん」
「あの人は…絶対俺たちを裏切って逝ったりしない」
再び沈黙が訪れ、気付けば駅に着いていた。
ここからは逆方向の電車に乗る。
赤也は頭を下げて別れを告げ、改札を通ろうとした。
その時。
「赤也!」
人ごみの中でも真田の声はよく通る。
背後からする呼びかけに、赤也は体ごと振り返った。
「…何っスか?」
「お前ちゃんと眠っているのか?顔色が悪い」
いつの間にかすぐ後ろにやってきていた真田が赤也の頭を無造作に撫で回す。
「うわっ!!ちょっ…止めて下さいよっ!セットが崩れるじゃないっスかっ」
「いつも鳥の巣のような頭ではないか」
「ひっでぇ!!」
不機嫌に見上げれば、予想に反して真田が笑っている。
試合中不敵な笑みを浮かべる以外に、あまり笑みを見せない強面が表情を崩している。
赤也は珍しい物を見る目になった。
そして気付いた。彼なりの気遣いなのだと。
真田も今回の事では相当参っている。
何せ赤也よりも付き合いの長い友人である柳を失うかもしれないという現実を前にしているのだ。
冷静でいられるはずもない。
しかし慕っている先輩が目の前で酷い事故に遭うのを目撃してしまい、すっかり消沈してしまった後輩の心配をしている。
「授業をサボろうと部活をサボろうとも構わんが…食事と睡眠はちゃんと取れ。解ったな」
「…うぃっス…」
上手く隠していたつもりであったが、真田にはバレていた。
授業もサボりがちで部活からも足が遠のいていた事。
そしてあまり眠れていないだけでなく、食事も喉を通らなかった事。
今までの真田であれば間違いなく殴って叱り飛ばしていただろう。
だが今の赤也に必要なのは心の休養だと解っていた為、まずはそちらの心配をしたのだった。
やはりこの人にはまだまだ敵わない、と赤也は心の中で謝意を呟いた。
§4
時間は何もしなくても刻一刻と過ぎてしまう。
気付けば期限は明日へと迫っていた。
いつも通りの授業、部活。
しかし赤也の気持ちは違う方向を向いていた。
周りを伺い、そして溜息を一つ。
そんな様子を見て、後輩指導にやってきていたブン太やジャッカルが声をかけるが曖昧な返事を返すので精一杯だった。
ベンチに座り、休憩をしているとすぐ背後にアーチェンが立っていた。
今日は背中に真っ黒な翼が見える。
つまり誰にも姿は見えないという事。
赤也は声を潜めた。
「…何か用かよ」
「約束の日だ」
「……場所変えようぜ」
ここでは話もままならない。
赤也はアーチェンを連れ、ひと気のない校舎裏へとやってきた。
「ぃよーう!久しぶりやなー!」
頭上からする声に顔を上げると、校舎渡り廊下の屋根からハクラが顔を覗かせている。
ふわりと白い翼をはためかせて目の前へと舞い降りる。
状況を解っているはずだが、そぐわない明るい調子で赤也の肩を叩いた。
「んなーんやねん。くーわい顔してー」
「くわい?」
「怖いって事やん。あ、こっちでは言わんか?まぁええわ。今そんなんどーでもええやんな」
あはは、とおかしそうに笑った後、急に顔を引き締めた。
「期限やで。答え、聞かせてもらおか」
「俺……やっぱりできねぇ…」
アーチェンとハクラが無言のまま視線をかわす。
しかし俯き、搾り出すように声を出し拳を握り締めたまま震える赤也の目には映っていない。
「怖気づいたか」
「違う!!」
アーチェンの声に勢いよく上げられた赤也の顔。
頬は涙で濡れ、目は真っ赤に燃え上がっている。
「何が違う」
「…あの人は…柳さんは……俺にとって掛け替えのない存在だから」
赤也はユニフォームの裾で涙を拭い、睨むように二人を見上げた。
「誰かを代わりに殺したってあの人と同じだけの重さにはならねぇ!!だから…っ――!!!」
それ以上は涙が邪魔をして言葉を紡げなかった。
膝から崩れ落ちるようにへたり込み、顔を伏せて声もなく涙を流した。
これでもうあの人を助ける事はできない。
そして自らの命も。
死への恐怖よりも、今赤也を襲っているのは柳を助ける事が出来なかったという罪の意識。
大きな事を言って大見得切ったが、結局は何もできなかったのだ。
ただ後悔ばかりが身を襲っていた。
「なるほど…お前にとって、奴はそれだけ大切だという事なのだな?」
「そうだよ…俺にとってあの人は唯一だ。代わりなんてねぇ」
その瞬間、赤也は何が起きたか理解できなかった。
左手に深く刻み込まれた契約印が光を放ち、消えた。
「契約は完了した」
「……え…?…何…で?」
「見ろ」
アーチェンは手を赤也の額にかざし、いつものように柳の様子を映し出した。
医師や看護師が忙しく行き来する中、柳の姿が見える。
その瞳はしっかりと開かれ、ガラス窓の外では柳の家族が涙をして喜んでいる。
「…助かった…のか?」
「ああ」
「何でだよ!だって俺…」
契約内容を完遂できていない。
そう言おうとするのをハクラが止める。
「今回の契約はな、こいつとあの柳って奴の契約やってん」
「…柳さんの?」
アーチェンは相変わらず何も言わず、ハクラが説明を始めた。
あの日、事故に遭ってすぐの事。
病院に運ばれた柳の魂は手術室をすり抜けた。
そして空を漂う柳を掴まえたのは、アーチェンだった。
半透明に揺れるその姿を見つけ、肩を捉える。
「どこへ行く」
「お前は俺を迎えに来た悪魔か?」
否定も肯定もせず、黙っていると柳はふっと表情を暗くした。
「体が重い……俺は死ぬのか?」
「いや…それはお前の意思次第だ」
「俺の?」
「この事故は想定外。本来お前の運命になかったものだ。だから俺の力でやり直しがきく。
だが…俺は命を預かり運ぶ事を許されるだけの存在だ。お前の魂を再びあの肉体に戻す事はできない」
「どうすればよいのだ?」
「より強くお前を思う者が、お前の魂を呼び戻すよう俺と契約をするんだ」
「契約?それを完遂すれば俺は生き返れる、という事か?」
黙って頷くアーチェンに、柳は一つの賭けに出た。
自分の体の事は自分が一番解っている。
柳は自らの死期を悟った。
このままいけば確実にやってくる未来を思う。
「では、俺にとって一番大切な奴に俺の命を預けよう」
「何?」
「そいつが俺と同じ思いであれば、俺はこの世に戻る」
「……それが…契約内容でいいのか?もし…」
「俺と同じ思いでなければ死ぬ、と?……愚問だな。それ以外に俺がこの世に留まる理由などない」
「面白い…気に入った」
アーチェンは笑みを浮かべ、柳の左手に契約印を刻みつけた。
そしてそれを強く握った。
「強く思え。その相手の事を」
そうして黒い翼が運んだ先、それはテラスで一人佇む赤也の元だった。
「柳君の思いと、お前の強い思いがこいつを呼んだんや。お前との契約はフェイクやってん。お前の本心聞き出す為のな。
柳君は自分の運命をお前に託したんや…自分の未来も全部。俺らには修復できん運命の歪み、お前が救ったんやで」
「……俺が…?」
アーチェンは赤也の腕を掴み、立ち上がらせると契約印の消えた左手を強く握った。
「常に運命は己の手の中にある」
「この手の…」
「ああ。言っただろう、答えはお前の中にある、と。さあ強く願うんだ。お前の望みを」
その言葉に、赤也はずっと思っていた事を思い浮かべ、強く強く願った。
もしも願いが叶うのならば、あの日、あの時に戻ってやり直したい、と。
その瞬間、握り締めた掌から強い光が身を包み意識が飛んだ。
§5
「あ……れ?」
「どうした赤也?道を間違えたか?」
隣からする声に勢いよく振り向く。
そこには
「や……なぎさ………ん?」
病院で機械に繋がれ死の淵を彷徨っていたはずの人が立っていた。
赤也は信じられなかった。
だがすぐに我に返る。
いつもポケットに突っ込んだままの携帯電話を見れば、日付は二週間前を示している。
「……戻った…のか?」
願いが届いたのだ。
契約が果たされ、柳の命は助かったのだ。
しかし事故の時間まであと数分ある。
本当に時間を遡ったというのなら、またあの事故は必ず起きる。
「ほら、その店に行くのだろう?早く行ってこい。待っていてやるから」
「ダメだ!!」
「…どうした?先に帰ったりしないから早く……赤也?」
柳の手をぎゅっと握り締め、赤也は半ば引きずるように店内に入った。
「ちょ…っ一体どうしたというのだ」
「…あ、えっと……その…ずっと一緒にいたくて!!」
上手い言い訳が見つからず、吐いて出た言葉はそれだった。
柳の耳にもしっかり届いていたであろう大きさの声で言ってしまった。
しまった、と慌てて口を押さえたが一度出てしまった言葉は戻らない。
しかし柳はいつもの穏やかな表情で赤也を見下ろしている。
「仕方のない奴だな…」
そう言って、繋いだままの手を咎める事もせず店内を見渡した。
「ゲーム屋か…初めて入った」
「そ…なんだ」
赤也は興味深そうに棚を見ている柳をそれとなく店の奥へと導いた。
なるべく出入り口から離れなければ。
その一心で。
「おい赤也。どこへ連れて行くつもりだ」
「え?うぇええ?!ちっ…違っ…!!」
気付けば店の一番奥まった場所にひっそりと設置されたアダルトコーナーにまでやってきていた。
慌てて違う、と弁解しようとしたが、柳はおかしそうに笑うだけで軽蔑はしていないようだ。
「何をそんなうわの空になっている」
「えっと…」
柳は赤也の手を引き、その場を離れた。
先程から店員が訝しげにこちらを見ているが、そんな事は気にならないほどに赤也は緊迫していた。
店の壁にかけられた時計を見れば、運命の時間までもう一分を切っている。
赤也は息を飲んで待ち構えた。
たとえ何があったとしてもこの人を守る、と。
顔色を変える赤也に気付き、柳が心配そうに訊ねた。
「さっきから時間を気にしているが…何かあるのか?」
「それは―――…」
その時、店の外から店内にまで轟音が響き渡った。
あまりの衝撃に棚から商品がバタバタと落ちている。
店内は騒然となり、皆一斉に店の出入り口へと向かっていった。
赤也は恐る恐る振り返り、店の出入り口に視線をやる。
店の前にある柱に車が正面衝突をしているのが見えた。
だが、記憶と違う事が一つ。
その場に倒れていた体が今、目の前にあるという事。
「赤也?」
「……よ…かった…」
赤也は柳の手をぎゅっと握り締めた。
掌に広がるぬくもりに無事を確認すると、再び空間が歪み時間が元に戻った。
強烈な感覚に引きずられ、赤也は気を失った。
そして次の瞬間目に入ったのは、ベッドに眠る柳の姿だった。
だが病院ではない。
赤也には見慣れた風景、ここは学校の保健室だった。
「…っ…ちょっ…柳さん?!」
柳の顔を覗き込み、青い顔をしているとカーテンから保険医が顔を覗かせる。
「あら?切原君。柳君のお見舞い?心配しなくても大丈夫よー軽い脳震盪だからすぐ気がつくわ」
「え?え?」
「練習中にボールがぶつかったんですって。さっきまで真田君がついてたんだけど練習に戻ったわよ」
先程までは制服を着て、あの店にいたはずだ。
しかし今はいつもの黄色いジャージを着て、保健室にいる。
赤也は混乱する思考回路を一つずつ整理していく。
もしや、と思い保険医のデスクの上に置いてあるデジタル時計を見れば事故から二週間後を示している。
「戻って…きた?何で……じゃぁどうして…今ここに柳さんがいるんだ…?」
「切原君?どうかしたの?」
酷く慌てた様子で時計を睨みつける赤也に保険医が驚いたように目を見開いた。
「あ…いや…」
「私今から職員会議なのよ。柳君の事お願いしていいかしら。目が覚めたら帰ってもいいから」
「あ、はぁ……」
保険医が室内から消えるのと入れ替えにやってきたのは、黒い翼の持ち主。
「訳が解らないって顔だな」
ベッド脇にある大きな窓に腰掛け、柳の顔と赤也の顔を見比べる。
「アンタ…」
「今この時…あの日お前が一握の勇気を振り絞り思いを告げていれば、この未来があったのだ」
「…え?」
アーチェンは何も言わず、掌から淡い光を放った。
掌を照らす光は、あるはずだったこの二週間を映し出した。
赤也が思いを告げ、それを受け入れた柳とあの店に一緒に入り、事故は免れていた。
柳は自分はゲームに興味はないが、赤也の好きな物を知っておきたいと赤也の側を離れなかったからだ。
そして再び部活へ顔を出すようになった柳がコートを走り回る赤也をじっと見つめていた為、
飛んできたボールに気付かず怪我をしてしまったのだ。
だから今、ここで眠っている。
「お前、あの時悪魔の囁きに耳を貸しただろう」
「悪魔の囁き?……あ…まさか…あれって…」
心の隙間を縫う様に聞こえた声。
告白を止める様に言ったのは心の中の弱い赤也自身ではなく、柳の魂を狙った悪魔が耳元で囁いたものだった。
「お前の心はギリギリの場所を彷徨っていたのだ…ほんの少しの事で左右してしまうような薄氷の上にあったからそれに付け込まれたのだ」
「じゃああの時それを振り切って勇気を出してれば…」
「今この未来があった」
しかしこの時間軸はアーチェンが仮想的に作り出しているものなので、このまま生きる事はできない。
言わば夢を見ているようなものだからだ。
「…人の運命は簡単に変えられるものじゃない。たとえ俺たちでも。それは変わる事もすでに組み込まれた運命だからだ」
「だったらもう…無理なんじゃねぇのか?」
柳を助けられるのは、と赤也は絶望に支配される。
「その逆だ。お前達は負の力で無理に捻じ曲げられた運命を辿らされたのだから、元の運命に戻る事は可能だ」
「じゃ……」
「しかし一度選んでしまった未来を生きている以上、たとえそれが運命の悪戯だとしても変える事は生半可な事ではない」
「どうすればいい?!」
「お前が望み、もう一度俺と契約を交わすんだ。実際に過去に戻りあの事故を回避できればそのまま未来を生きる事ができる。
当然お前の記憶も周りの記憶も全て消す事になる。解るか?また同じ失敗を繰り返すかもしれない。
だが今度はもう俺は助けてやれない。人間が俺と契約を交わせるのは生涯一度だけだからな」
縋りつく赤也の左手を握り、そう言い放った。
やり直した過去を、未来に繋げられるか否か。
全ては赤也の勇気にかかっていた。
「……やる…やってやる!今度こそ絶対…間違えたりしねぇ!!」
「先に柳と交わした契約はすでに完遂されている。だからこのまま奴の魂を戻す事も可能だが?」
「いや…ダメだ。今このまま戻ったらあの人まだ苦しい思いしなきゃなんねぇし」
一瞬でもあの人を傷付けるような未来は絶対に選びたくないと、赤也はもう一度時間を遡る決意をした。
「委細、承知した」
アーチェンは赤也の前に跪き、左手を取ると再び契約印を刻み付けた。
それは強い光を放ち、今を遠い現実へと引きずりこんだ。
【Last】