Glass Castle in a Sanctuary〜メメント・モリ

目の前を走る閃光、轟音。
そして体を走る激痛。
一瞬すぎて理解するには至らなかった。
ただ一言、空を舞ったのは彼の名前。

「………………赤…也」

一瞬何が起きたのか解らなかった。
ガラス越しに見える壊れた車とそれに押しつぶされたあの人の体。
目の前が真っ白になり、悲鳴が口をついて出た。

「―――っっ柳さんっっっ!!!!!」








§1

病院の真っ白な壁に手術室の赤いランプが映える。
地下一階にある手術室の前に椅子はなく、エレベーターの横で人の出入りがやたら激しい。
落ち着きなく広い廊下を何度も行き来した。
何も考えられず、赤也はただ柳の無事を祈った。
柳の家族がやってきて状況を聞いてきたが、上手く説明が出来ないでいる。
ガタガタと震える体を自分で抑えられないでいた。
バタバタという忙しない足音がエレベーターホール前にある階段から近付いてくる。
「赤也!!」
普段よく聞いている、威厳のある声に支えられるように赤也は顔を跳ね上げた。
彼自身何が起きたのかよく解っていないのだろう、珍しく狼狽した表情を浮かべる真田が立っていた。
まだ家に帰っていなかったのか、制服のままテニスバッグを肩から下げている。
「……なだ副部ちょ……」
「赤也、一体何があった?」
あまりに情けない表情を浮かべる後輩に、真田の声もいつもの張りが無い。
怒っているような口調ではない、どこか深みのある声に些かの平常心を取り戻した赤也は口を開いた。
「帰り……帰りに…寄り道して……一緒に…俺…あの…」
「ああ」
「それで…柳さん……店の前…で、待ってて下さいって…先帰んないでって頼んだから……」
「……ああ…」
自分で何を言っているのか、何を喋ってよいのか頭の中で整理できていないのだ。
赤也はただ単語を繋げて状況を説明した。
先を急くような事をせず、真田も噛み締めるようにそれを一つずつ拾っていく。
「店の前で待ってた……柳さん目がけて…車がっっ――――っ!!!!」
その瞬間がフラッシュバックした。
赤也の脳裏に目の前で人形の様に跳ね飛ばされた柳の姿が映し出される。
真田に会い、少し落ち着いた体の震えが再び赤也を襲う。
両手で頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。
「俺のっっ…俺の所為で…っ俺の所為だ!!俺があの時待っとけなんて言わなかったらっっ!!!!」
「赤也違う!落ち着くんだ!お前は何も悪くない!!」
震える体を抑えるように肩を抱き、何とか落ち着かせようとするが赤也はうわ言のように謝るだけでどうにもならない。
その時、再び階段上階から激しい足音が近付く。
複数人分の大きな音。
それが止むと、手術室前に立海テニス部レギュラー陣が全員揃った。
皆連絡を受けて着替えずすぐにやってきたのか、スウェットにコートだけを羽織ったようなラフな出で立ちだ。
よっぽど焦っていたのだろう。
ブン太など家でいつもそうしている為、前髪をピンで留めたままのチョンマゲ姿だった。
「何があった?」
幸村が真田に向け問いかけるが、渋い顔を返されるだけだ。
赤也の様子を見る限り、あまり良いとはいい難いだろうと判断した。
真田は比較的落ち着いている柳生に赤也を任せ、幸村たちに状況を説明する。
医師の説明はまだ受けていない。
だが刻一刻と過ぎる時間が皆を不安にさせる。
不気味なほどに静かな病院内。
幸村は廊下の端でしゃがみ込み、ガタガタと震える赤也に近付いた。
「赤也」
「……ぶちょー…」
「大丈夫だ」
いついかなる場面でも気の強い姿を見せていた二年生エースも、こんな不測の事態には対応しきれないのだ。
情けない泣きっ面に、幸村の手が覆いかぶさる。
「大丈夫。信じるんだ…柳はまだ闘っている」
数ヶ月前。
同じ様な言葉を聞いた。
「柳さんも…部長の手術の時……そう言ってた」
「そうか。俺は闘って勝った。あいつも…勝てるよ。必ず」
「…はい……」
幸村の温かい手と強く優しい声が赤也の心に染み渡る。
そして差し出される真田の手を借り、ゆっくりと立ち上がった。
もう体の震えは止まっていた。

それから二時間後、柳は手術室から出てきた。
顔に付いた生々しい傷痕。
沢山の管の通った腕。
機械に繋がれた体。
そのままICUへと収容され、家族以外は会う事を許されなかった。
面会謝絶の状態が赤也をどんどんと不安にさせる。
青い顔をしたまま自動ドアの前で立っていると、中から医師が出てきた。
すぐ側にある休憩所にいた真田たちも立ち上がり、医師に近付く。
「先生…蓮二の容態は?」
真田の問いかけに、医師は表情が硬いまま何度か頷いた。
そして彼はまだ闘っている、と静かに言った。
一瞬の予断も許さない状況で、脳や内臓器官の損傷も激しい。
もしこのまま意識が戻らなければ、と言葉尻を濁した。
「そ…んな…嘘だっっ!!!」
医師に向けて飛びかかろうとする赤也を真田の腕が止める。
「赤也!!」
「アンタ医者だろ?!助けてくれよ!!あの人が…いなくなっちまうなんて……っっ!!!」
「赤也落ち着け!!」
言葉にしたのも行動に起こしたのも赤也だけだった。
しかしそれはここにいる誰もが思っていた事。
医師は皆の顔を見渡して神妙な面持ちで頷き、再びICU内へと戻っていった。
暫くの沈黙の後、赤也は音もなくその場を離れた。
「……俺…ちょっと頭冷やしてくるっス…」
「一人で大丈夫か?」
「大丈夫っス」
気を使うジャッカルに唇だけで笑みを残し、赤也は廊下の端へ向けて歩を進めた。
どこか独特の空気漂う院内に耐え切れず、その先にあるテラスに出た。
コンクリートが打ちっぱなしの状態で、植木も何もない味気ない場所。
だが表の空気を吸い、少しは落ち着きを取り戻せた。
徐々に冴え渡る思考に、先程の場面が繰り返し繰り返し呼び起こされる。
赤也は頭を抱え、再びしゃがみ込んだ。
「情けない顔だな」
突然頭上からする声に驚き顔を跳ね上げる。
一瞬先輩か、と思ったが、赤也には聞き覚えのない声だった。
声の主はテラスを囲むようにあるコンクリートの塀に立っている。
真っ黒な長い髪、真っ黒な瞳、真っ黒な服。
そして真っ黒な翼。
ショックで頭がおかしくなったのか、と赤也は言葉が出なかった。
この姿ではまるで、
「アンタ…何モンだ……」
悪魔か、死神ではないか。
今はそんなものがこの世に存在しないかどうかなんて、そんな事実はどうでもよい。
赤也にとっては、そんな存在が何故ここにいるのか、が問題なのだ。
「縁起でもねぇ……あの人の魂でも狩りに来たのかよ…ハハッ」
「その通りだ」
「っっんだとっ!!」
「嘘だ」
一体何だというのか、と赤也はイライラする気分を爆発させる。
「俺をからかってんのか!!ウゼェ!」
「それだけ元気があればよし」
その人物はふわりと飛び上がり、赤也の目の前に着地した。
バサッと音を立てて動く翼を見て、これが悪趣味なコスプレではないのだと思った。
切れ長の怜悧な瞳、筋の通った高い鼻、形の良い、だが血色はあまりよくない唇に白い肌。
見紛うことなき美形の悪魔。
赤也はその迫力に息を飲んだ。
「俺はお前と命の契約にやってきた」
「…は?」
「助けたいんだろう、あの男を」
「意味…解んねーんだけど……」
「見ろ」
男は左手を赤也の額にかざした。
すると掌から光が漏れ、赤也の脳裏にはある光景が映し出された。
機械に囲まれた柳の周りを医師や看護師が忙しなく動き回っている。
「これ…は?」
「今の状況だ。あの中に入りたいと願っていただろう」
「アンタ…ほんと何モンだよ……」
この非現実を受け入れられたのは、今の状況があまりに現実離れしていたからだろう。
赤也はまだ柳を襲った事故という現実を受け入れられずにいた。
「この者の命の期限はあと二週間」
「いい加減な事言うんじゃねぇ!!!あの人は死なない!!」
「それはお前次第だ」
「…え?」
「お前が一番強かった。助けたいと願う気持ちが。だから俺が導かれた」
静かに言い放たれた言葉は赤也の心に一つの希望を持たせた。
もし柳が助かるのなら、何でもしてやる。
たとえこの命を捨てる事となったとしても。
赤也は意を決し、口を開いた。
「どうすりゃいいんだよ…俺はあの人を助けたい!死なせたくない!!」
「何でもすると約束できるか?」
「…ああ」
「ならば命を寄越せ。あの者の代わりになる魂を」
「命…って……」
「誰か一人を殺せ。そいつの魂を寄越せばあの者の魂を取りはしない」
「そ……んな…」
赤也は一歩、二歩とその男から離れた。
何でもする、と決心した。
だがあまりに代償が大きすぎる。
「俺が…なら俺が死ぬ!!俺の命代わりに持ってけよ!!」
「拒否する。それはできない。契約者の命は契約破棄か契約違反がなされるまで取れない掟だ」
絶望に足下が崩れる。
赤也は力なくその場にへたり込んだ。
「それから殺す相手は誰でもいいわけではない。お前が思うあの者と同等の魂でなければならない。
等価交換でなければ分が悪いだろう」
「犬や猫じゃダメってわけか…」
「お前、あの者を犬猫と同じように思っているのか?」
「んなわけねぇだろ!!!」
失礼な物言いに赤也は勢いよく立ち上がった。
噛み付くように男の襟を掴み、睨みをきかせる。
「ならよく考えろ。どうする?契約を交わすか?一度交わせば完遂できなければお前の命を奪う事になる。
命をかけた契約だ。しかしこのまま何もしなければ確実にあの者の死はやってくる」
「だったらやってやろうじゃねぇか…」
今あの人を助けられるのは俺だけだ、と赤也は大きく頷いた。
男は赤也の左手を取ると、手の甲に爪で紋を入れた。
複雑に組み込まれた網目状の模様に視線を落とす。
「これは?」
「契約印だ。期限を過ぎればこれがお前を食い殺す」
「ケッ…上等だ……絶対完遂させてやる」
「いい目だ」
男は手を離し、再び塀の上へとひらりと飛び移った。
「この事は誰にも言うな」
「当たり前だ!んなもん誰も信じてくんねぇし」
「これから二週間、お前は俺の監視下に入る。せいぜい頑張るんだな」
「監視って…おいっっ!!」
赤也の言葉を最後まで聞かず、男はその塀から飛び出した。
危ない、と慌てて止めようとしたが、男はそのまま空へ向かって羽ばたいていった。
「あいつほんと…何モンだ?」
まだ信じられない。
だが左手には確かに印が残っている。
ヒリヒリと引きつるような痛みが走った。
「今は…あいつの言う通りにしなきゃあの人を助けらんねぇんだ……」
両手で頬を叩いて気合を入れ直し、赤也は先輩たちの待つICU前へと戻っていった。




§2

柳の事故から一週間が経った。
一時の危機的状況は回避できたものの、まだまだ予断を許さない状況は変わっていない。
このままでは黒ずくめの男の言った通りになってしまう。
だが赤也には解らなかった。
柳と同等の命が何だというのか。
だが男の言う契約を完遂する為の条件を満たすだけの人物を殺さなければ柳は助けられない。
殺人への尻込みもあるが、それが解らない限りは前へ進めない。
男はあの日の宣言通り、赤也の行動を逐一観察し、追い回していた。
最初の二日間ほどは気持ち悪がっていたが、いい加減慣れた赤也は普通に言葉を交わすまでになった。
しかし男は無口で無表情。
何を考えているか全く読めない。
意思の疎通が上手く出来ないで困っていると、今度は対照的な男が現れた。
「おっ!魂売った契約者めーっけ!」
「なっななっ!!何だアンタっ」
授業をサボり、学校の屋上でぼんやりと空を眺めていると頭上に大きな鳥のような影が出来た。
慌てて飛び起き、太陽に手をかざして凝視すると、真っ白な翼が見えた。
「今度は天使か?!」
「あーそれそれ!その反応!アッハ ほんまに見えてんねんなぁ自分」
「はぁ?!」
白と黒。
無口と饒舌。
まるで対照的だから、そうなのだろうと赤也は推測する。
次から次へと現れる非常識な輩を相手に、もう常識がどうだ、現実がどうだと考える暇もない。
赤也は近付いてくる金髪の男を睨みつけた。
「俺は白羅。よろしゅーな契約者さん」
握手、というより勝手に赤也の右手を取りブンブンと振り回す。
悪意は感じられないが少々馴れ馴れしい。
言葉遣いの所為もあるが、人好きする印象だ。
「あの人無口やから何起きてるかあんま解ってへんねやろ?」
「あの人って……黒い奴か?」
「何やーまだ自己紹介もしてへんのかいな…しゃーないやっちゃなぁ」
「俺には名前がない、勝手に呼べっつってた」
「あーちゃうちゃう。あの人にはちゃんと名前あんで。鴉沈っていうねん」
「アーチェン?変な名前だな…」
「飾りみたいなもんやしな。別にあってものぉてもかまへんねん。俺らにとっての名前なんか」
「……で、何。アンタ天使なのか?」
赤也は気が抜け、胡坐をかいて座ると、白い男も同じように目の前に座った。
目の高さを合わせ、じっと顔を覗き込むように喋り始める。
「天使と悪魔、それやそれ。お前ら人間が言うとこのそれ。正式名称は…まあええやろ。悪魔と天使でええよ」
ハクラ、と名乗る白い男はにこにこと笑いながら言っているが、赤也には今一つ状況が把握できていない。
ぽかんと口を開けたまま顔を見ていると、勝手に話を進める。
「あんたらが言うとこの天国って場所に魂運ぶんが俺ら天上人の仕事。給料も貰うんやで」
「給料って…会社かよ」
「当たり前やん。何でボランティアでこんなしんどい仕事せなあかんねん」
人間臭い、厚かましい、やかましい、その上何故か関西弁。
赤也の中にあった優しい天使像が音を立てて崩れていった。
そういえばあの黒い男、アーチェンも悪魔のイメージとは少し違うかもしれない。
いい機会だと思い、赤也は色々と聞き出す事にした。
「今日はあいつ来ねぇけど…何やってんだ?」
「別件。忙しい人やからな。あれでめっちゃ偉いんやで」
「偉いって?」
「俺らには階級があってな、それの最高位やねん」
「どれぐらいすげぇのか良くわかんねーんだけど」
勝手にあれこれ想像をしている赤也に、ハクラのマシンガントークが始まった。
「まーあれやな。悪魔ゆーても二種類おってな、アーチェンは生まれながらの純然たる悪魔。
普通は職業悪魔って感じで死んだ人間から悪いのばっか集めて組織すんねん。そいつらが同じような悪い奴の魂集めるんやな。
逆に地獄行くほど悪い事せんかった奴らばっか集めて天使組織してんやけど、そいつらがええ奴の魂集めると。
職業悪魔は結構厳しいよってなーノルマとか達成せんかったら存在消されてまうから皆必死やねん。
今世界で起きてる小さい諍いとか悪事は大抵こいつらの仕業やねんで。自分のノルマの為に人間に悪い事さしてその魂狩っていっとんや。
自分らほんま悪運強いっちゅーか悪いっちゅーか…あの事故もなー実は柳って奴の魂狙ての事やってんで」
「…どういう意味だよ?」
「純で高潔な魂は悪魔にも狙われやすいんやけど、あの柳って奴の魂もそれやねん。
あ、純って意味解る?雑念とか少ない純粋な魂って事やねんけどな。
しっかしあれやなぁ…彼もまだ15やってのに坊さんみたいに悟りの境地っちゅーか…
普通あんだけ若かったらもっと色々煩悩雑念混じっててもおかしないっちゅーねん。なぁ?あ、話ズレたな、スマンスマン」
一を聞けば十どころか百も千も返ってくるハクラの口数の多さに、赤也は圧倒されっぱなしだった。
口を挟もうにもその隙が全く無い。
そんな赤也の様子などまるでお構いなしに話を続ける。
「そういう人って無意識に人惹きつける魅力あったりするけど、そんなやからちょっとタチ悪い悪魔に狙われててなぁ…
たまたまあいつがその場に居合わせてその悪い悪魔って奴消滅させたからまだ生きてんねん。ほんまは即死やってんで」
「俺…あいつのせいで柳さんが事故に遭ったんだと思ってた……」
「はーあー?なんであいつがそんなんせなならんねん。あいつは監視する方。
そーいうアホな輩が多いから、無意味な殺戮とか避ける為にあの人が存在すんねん。
あいつは別にそんな張り切って魂狩りせんでも生きていけるしな」
偉い、といったのはそういう意味だったのか、と漸く合点がいった。
つまりは不良の監視役といったところだろう。
ハクラ曰く、悪魔に与えられた能力は大きく分けて3つ。
破壊、浮遊、そして幻影。
それに加えてアーチェンの場合は時空の行き来もできる。
時空の行き来は位の高い者にのみ与えられた力だが、それにも限界はある。
「だったら時間を戻してあの事故をなかった事にはできねぇのか?!」
「無理やな。俺らは人間の運命を左右する事とか歴史変える事は許されへん。柳って奴がもし一人で死んだんやったらそれも可能やろけど…
今生きてる人間もよーけ関わってる件やからなぁ……そういうのを動かす事はでけへんのや」
「……そっか…」
「まーそう落ち込むなや。あいつあれで結構人情派やし?いざとなったら手ぇ貸してくれるって」
「人情派の悪魔かよ」
「悪魔っていうより黒い羽根の天使って表現のが近い思うで。あの翼、見たやろ?ふわふわの羽根いっぱいでやーめっちゃ綺麗やろ?
あれは位の高い奴の証拠やねん。俺なんか天使やゆーてもこんなんやしなぁ…あいつ酷いんやでー?
お前の白い羽はほんまは黒ぉて漂白でもして白してんちゃうか言うてなぁ…よぉ見てみぃっちゅーねん。
ホラ、根元黒いやろ?ってそんなわけあるかいってな。あ、また話ズレたわ。ハハッすまんすまん。
職業悪魔は皆骨に膜張ったような味気ない翼やからな…ほら、あれ」
立ち上がったハクラの指差す方向を見ると、屋根の上に止まるカラスが見える。
目を凝らしてよく見れば、それは黒い姿の悪魔だった。
「見えた?ほんまもんのカラスに混じってああやって姿隠して魂狩っとんのや…
っとヤバっ!あいつタチ悪いやっちゃ…こっち見つけやがった!!逃げぇ!お前殺されんぞ!」
「え……?えぇっ!?」
ハクラに背中を押され、赤也は訳も解らず屋上の出入口へと走っていく。
だが足が絡み、その場に倒れこんだ。
気付けばすぐ背後に悪魔がやってきている。
鋭い眼光に射抜かれ、体が動かない。
止めようとハクラも飛び掛るが強い力で撥ね退けられている。
「……っっ!!!」
死を覚悟したその瞬間。
目の前の悪魔が真っ黒な砂となり闇に消えた。
「…へ?あっ!!…アンタ……」
ゆっくりと顔を上げると、太陽光を背に受けたアーチェンが立っていた。
「おおきに!アーちゃん!」
背中に飛びつき派手に喜ぶハクラの事などまるで気にせず、赤也の腕を掴み立ち上がらせた。
「怪我」
「え?あ…さっきこけた時擦り剥いたのかも……」
アーチェンは背中に負ぶさったままのハクラに目配せすると、何も言わずとも理解したハクラが赤也の手を取った。
「何っ!?」
「じっとせぇって。別に痛い事せんから」
ハクラが掌をかざすと、光が溢れ赤也の腕の傷が見る見る塞がっていった。
赤也は目を疑った。
一瞬の出来事で何が起きたのか理解できず、何度も瞬きをして腕とハクラを見比べた。
「何?まだ痛いんか?」
「い…いや…アンタすっげーな!!」
「天上の民に与えられた力の一つだ。癒し、創造、再生」
「まあ限界もあるけどな…」
また赤也に無用な期待をさせないようにと、ハクラは先に断りを入れる。
つまり彼の力では柳は助けられないという事。
暗く表情を曇らせる赤也の頭をアーチェンは二度三度と叩いた。
掌の冷たさに反して不思議と安心感を持たせる。
そういえばあの人に似ている、と赤也は思った。
柳の手はいつも冷たかったが、温度とは裏腹の優しさが伝わるものだった。
「アーちゃんも来た事やし、俺そろそろ行くわ」
「ああ」
「ほなまたなー」
ハクラはそのまま真っ白な翼をはばたかせ、空の彼方へと飛んでいった。
しばらくはぼんやりその方向を眺めていたが、ある事に気付きアーチェンの方を向き直る。
「っつーかアンタ羽は?!背中の翼ないんだけど!!」
体よりも大きな翼が背中に見当たらない。
折れでもしたのかと心配するが、意外な言葉が返ってきた。
「今は人型に変化してる。だから…見えるはずだ。お前以外の人間にも」
「そんな事もできんのか…アンタ何でもありだな」
「でなければお前、一人で喋っているように思われるぞ」
いつの間にか授業は終わり、昼休みに入って屋上にはちらほらと生徒が集まり始めていた。
よく見ればアーチェンはいつも着ていた真っ黒なコートではなくスーツを着ている。
少しは気を使っているのだろう。
だが校内に居て異質な存在である事には変わりない。
先程からその美しい姿をちらちらと伺う生徒が後を絶たない。
「さっきの悪辣は柳の命を狙っていた」
「え…っ」
「その契約印を見てお前も狙ったんだ。気をつけろよ」
わざわざ助けにきてくれたのだ。
赤也の脳裏にハクラの言葉が蘇る。
人情派の黒い天使。
納得がいった。
初めて契約を交わした時、監視下に入ると言ったのはそういう意味だったのだ。
赤也は最初契約違反や反故をしないように見張っているのだと思っていた。
だが本当は今のような悪い奴から契約者である赤也と柳の命を守っていたのだ。
赤也はハクラのお陰で少し身近に感じていた。
「ハクラって奴が言ってたんだけど…アンタってすっげー偉いんだって?」
「…俺が?」
「神様より偉いって言ってた」
「それはあいつにも言える事だ」
「あの胡散臭い関西弁が?!」
赤也にはただのお調子者の芸人のように映っていた。
だがアーチェンは彼と同じく天使を統括する立場にあるのだと言う。
「俺は神を破壊できる存在、あいつは神を再生できる存在だ」
「よく解んねーんだけど」
「神は万物のものだが万能ではない……万が一暴走してしまった時に止めるのが俺の役目、その後再生させるのがあいつの役目だ」
「…つまり生かすも殺すもアンタたち次第って事か?」
「そういう事だ」
それだけの力をもっても人の運命だけは左右できない。
赤也は今生きている事の重さを感じた。

§3

 

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