チェリッシュ(中篇)
§:赤也
最近ちょっと柳さんの様子が変だ。
いや、変っていうか…一番変なのは俺なんだけど。
俺が押せ押せな態度取り始めた頃は戸惑ってたんだけど、最近は慣れてきたのか上手くかわされてる。
余裕なく照れたり怒ったりする姿可愛かったんだけどなぁ…また振り出しに戻った感じがする。
でも軽く聞き流されてるってわけじゃなく、ちゃんと俺の話聞いてくれてるみたいだし前進はしてるはずだ。
今日も俺は柳さん向けてチョトツモーシン。
…って丸井先輩に言われた。
チョトツモーシンが何かは解んねえけど。
コートの端のベンチ。
部活前、いつもの定位置でノートに何か書き込んでいる柳さん目掛けて走っていって隣に座る。
「柳さん柳さん」
「今度は何だ。告白なら間に合ってるぞ」
声は呆れてるけどノート見下ろす横顔は優しい。
俺が好きだって打ち明けた頃は戸惑ってるっていうか、困ったような視線向けてきてたけど、今はまたちゃんと俺の事見てくれてる。
それが嬉しい。
「ちょっ…先言っちゃわないで下さいよ!」
「そう安売りしなくともお前との事はちゃんと考えている」
「俺が言いたいんですってば。それに安売りって何?一回一回に気持ち込めて言ってんのに酷いっスよ!」
とりあえずこの人相手に駆け引きなんてできるわけないので、俺はひたすら直球勝負に出た。
ヒマさえあれば好き好き言ってやる。
軽々しく言ったら流されてしまうから、ちゃんと真剣に。
どうやったら柳さんの気持ちが変わるかとか、全然解らないからひたすら前見て進む事しかできない。
柳生先輩には引く事も覚えなさいって言われたけど、計算とか難しい事出来ないし。
赤也は加減を知らんからのぉって仁王先輩には笑われた。
ちょっとムカついたけど、その通りだ。
押してダメならって言葉は知ってるけど、どれぐらい引けばいいのか解らない。
それに、もし引きすぎて折角掴みかけた柳さんの心が離れちゃったらどうすんだよ。
「…本当の用はなんなんだ?」
へへっ流石柳さん。
俺が何か言いにきたのが好きって言う他に理由があるって解ってたんだ。
「ね、来週の日曜って昼から練習休みでしょ?どっか遊びに行きましょうよ」
「生憎だが予定がある」
「えぇーっっ!!」
あの衝撃デート以来、学校以外で柳さんと会う事はなかった。
まあ休み無しのぶっ続けで部活があったって所為もあるんだけど。
だから…だから休みって解ってすぐ約束取り付けるつもりだったのに。
っていうか今聞いたばっかなのに。
日曜の午後が練習休みだって。
もしかして…
「その予定って真田副部長絡み?」
「当たらずとも遠からずだな。一緒に精市の見舞いに行くんだ」
「俺も行く!!」
「休みにまで弦一郎の顔など見たくないんじゃないのか?」
「嫌だけど真田副部長とアンタが二人きりでどっか行く方がもっとヤダ」
冗談じゃねえ。
二人きりになんて絶対させるもんか。
それに久々に幸村部長にも会いたいし。
柳さんは何か考えるようなポーズを取る。
どうしよう。
お邪魔虫とか思われてんのかな。
けど絶対譲らねぇし。
必死に見つめてたら、やっと頷いてくれた。
「…解った。では一緒に行こう」
「やった!」
この際真田副部長がいるって事は脳内消去して、柳さんと行けるって事に焦点を当てよう。
とにかく一緒に居られりゃ何でもいいや。
俺は上機嫌でコートに入った。
その日の部活の休憩中。
お前って何であんな柳狂信者になったんだ?って丸井先輩に聞かれて困った。
ハッキリとここ、って転機はいつだった?
テニスが強すぎてバケモンじみた人。
難しい事ばっか言ってて全然理解できない人。
説教臭くて、真田副部長のように怒鳴ったりはしないけど冷静に理論で攻めてくる厄介な人。
でも凄く優しくてちゃんと俺の事を見ててくれた人。
あの人の事一番最初にそう思ったのっていつだったっけ?
「あー…思い出した」
「何何?」
興味津々の丸井先輩の後ろにわらわらと我が立海の誇るダブルス陣が集まり始めた。
何だよくっそー…皆して人の片想い面白がりやがって……
他はともかく柳生先輩まで来る事ねえじゃん。
けど何故かこの人が一番身を乗り出して聞く体勢になってる。
何で?
「ほれほれ早よ言いんしゃい」
そんな前のめりな柳生先輩の横にいる仁王先輩に急かされ、俺は口を開く。
「…去年の冬に何人かテニス部辞めたの覚えてます?」
「どれだよ」
「いちいち辞めた奴らの事なんて覚えてらんねえだろぃ」
ジャッカル先輩と丸井先輩が口を尖らせて抗議する。
それもそうか。
王者立海の練習の凄さに脱落する奴らの多さったらないし。
「非公式試合で俺が3ゲーム連続でボコった奴らっス」
「ああー…ハイハイ…」
うるさ…厳しい真田副部長がそうそう練習中に勝手な試合なんてさせてくれるわけがないので、先輩達も覚えていたらしい。
皆一斉に頷いた。
「そういやあの試合って柳がお膳立てしたんだよな」
ジャッカル先輩の言葉に頷く。
幸村部長が入院して戦線離脱した後、繰上げで1年の俺がレギュラーになったのが気に食わないって2年の先輩達が文句言ってきた。
実力で勝ち取ったわけじゃないのにって難癖つけてきた。
俺がラフプレイして相手怪我させたから勝てたんだって。
そんなわけねえって言っても納得しねえ先輩と喧嘩になりそうになった時柳さんがやってきた。
「まさに地獄で仏ですね」
柳生先輩の言ってる意味はよく解んねえけど、そんな感じ。
後光射して見えたもん。
どっちかっていうと放任主義で自分の責任で何とかしろって感じの先輩ばっかで、
その時も自分でケリつけねえとって、どうしようかって思ってたから。
「納得いかないのならば今一度試合をすればいいだろう」
は?
何言ってんだこの人。
閉じてんだか開いてんだか解らない目は表情を解らなくする。
本気か?冗談なのか?
俺は柳先輩の顔を見上げた。
「弦一郎には俺から断りを入れよう。二人とも第三コートへ入れ」
「ちょっ…先輩っ」
「ただし赤也はナックルサーブもスマッシュも禁止だ」
「え?」
「どうした?それでは勝つ自信はないか?」
挑発的な笑みを浮かべられ、カッとなった俺は思わず言ってしまった。
「15分でケリつけてみせますよ」
「そうか。ならその条件で勝てたなら…もう二度と赤也のレギュラー抜擢に関して文句を言うな。いいな?」
有無を言わせない態度に先輩達も俺も口を挟める雰囲気ではなかった。
結局俺は3人立て続けに18分台で片付けた。
元々は俺の態度が原因での騒ぎだったから褒めてもらえるとは思えてなかった。
思ってなかったけど、拍子抜けするぐらいに柳先輩は普通の表情で俺の試合を見ていた。
普通の顔してじーっと俺の事ばっか見てた。
1時間からず全試合終え、負けた先輩達は逃げるようにコートを去った。
整える息もなく、大して疲れてなかった俺はコート脇のベンチに座る。
「お疲れ」
すかさず近付いてくる柳先輩は俺に水の入ったペットボトルを渡してくれる。
それを受け取り一口飲んだ。
無茶な条件を付けてくれたお陰で宣言した時間を越えてしまったのが納得いかない。
あんな奴ら15分かからず倒せたはずなのに。
だいたいこの人がじっと見てるから気になってしょうがなかった。
「…勝てたというのに不満気だな」
「当然っスよ」
「宣言通りに15分で勝てなかったのが気に食わない、という事か」
「そうっスよ。非公式だろうが部内の練習試合だろうが…王者立海の看板背負ってんだから。ただ勝つだけじゃダメなんです」
「そうか」
くすり、と小さな笑い声が聞こえてきた。
ムカつく!
バカにすんな!
「アンタだってそのうち絶対ぇ倒してやっから覚悟してろよ」
入部してからもう何度言ったかわからない宣戦布告。
どうせまた軽く聞き流されるだろうけど。
だって俺はまだこの人の足元にすら及ばないのだから。
けどそれは今だけだ。
「絶対ぇナンバーワンになってやる」
「その意気だ」
やっぱりバカにされてる。
そう思って睨んだが、先輩は意外にも真剣な顔をしていた。
「俺も、弦一郎も精市も。越えていけ。その先にお前の望む世界が開けるというのなら…俺達はその日を楽しみにしている」
「俺に負けて悔しくねぇの?」
「俺達が負けるのではない。お前が勝ち取るんだ。自身で越えていけ。俺達だって立ち止まってはいない。成長を続ける。
それで尚お前が俺達を越えていけたというのなら……それ以上に嬉しい事はない」
俺の事なんて眼中にないとばかり思っていた。
そうじゃなかった。
俺の力を見込んでこれだけの事を言ってくれている。
俺のこれからに期待してくれてるって事だ。
「赤也」
「何っスか?」
「技術や実力は後からいくらでもついてくるものだが…
その飽くなき向上心と闘争心はお前に備わった大切な力で、このチームに必要不可欠なものだ。
そう思ったから俺達はお前をレギュラーに推した。だから…これからはもう詰まらない外野の雑音など気にするな」
わかったな、そう言って柳さんは自分の練習に戻って行ってしまった。
「俺、ここでレギュラーんなって、ナンバーワンになれるなら他は皆敵でもいいやって思ってたけど、
その時柳さんが味方になってくれたから考え変わったっつーか…」
そこで言葉を一旦切った。
何故か顔を覆って悶絶する先輩たちが目に入ったから。
「ちょっと、聞いてます?」
「き…聞いとる聞いとる……」
「……続きどーぞ」
「何なんっスか!!」
態度悪ぃな!
仁王先輩と丸井先輩はほっぺたに手ぇ当ててイヤイヤするみたいに顔を振っている。
何だよ。
俺何か変な話したっけ?
「赤也お前可愛いなぁ」
ジャッカル先輩にまで笑われた!!
っていうか柳生先輩、何でそんな温かい目ぇして見てんだよ!!
「窮地に立った時助けてくれた存在を好きになるなんて…まるで少女漫画のようですね」
それで笑ってたのか!!
「おーおー真っ赤になりおって…青いのぉ赤也」
「青春してんなぁ」
「あっ…頭撫でんじゃねぇ!」
丸井先輩と仁王先輩の手を振り払い、少し離れた場所に立つ。
が、先輩たちもそれにゾロゾロと付いて回る。
くっそー…逃れられねぇ。
けど今度は標的が柳さんに変わった。
「しっかし柳も言うねぇー…そんなキャラだっけ?」
丸井先輩がガムを膨らませながら言う。
そう。俺も意外だったんだよな。
それまでほとんど接点なんてなかった俺にそんな言葉をかけてくれるなんてって。
「それだけ切原君の事を気にかけていたという事でしょう」
「ほっ…ほんとっスか?!ほんとにそう思います?!」
柳生先輩の言葉に食いつくと、また先輩たちは一斉に笑い始めた。
必死で悪かったな。
「ま…まあ見込みのある後輩、という意味でしょうけど……」
「それでもいいっス。眼中にないよりマシだし」
とにかく俺という存在を認めさせてやるって必死になった。
三強と呼ばれる鬼才の中でも一番近くに見える背中をひたすらに追いかけた。
人間離れした幸村部長やうるさ…厳しい真田副部長と違って柳さんは手のかかる俺の面倒もよく見てくれた。
すぐ怒る真田副部長と違って諭すように語る声が聞きたくていつも付いて回った。
「つーかそれってただの尊敬とか憧れじゃなかったのかよ」
丸井先輩の言う通りだ。
最初はそうだった。
でもそうじゃないと気付いた。気付いてしまった。
何故なら。
「尊敬だって言うなら先輩達だってすげぇって思いますよ?けど欲情すんのは柳さんだけっス!!」
バカだ!と先輩達は再び大爆笑を始めた。
「おまっ……ぶっちゃけすぎだろぃ!」
「だってほんとの事だし!」
あの人見てるとイライラして、ムラムラする。
だから恋心だと気付いた。
「何や直情やのぉ赤也」
珍しくゲラゲラ声を上げて笑う仁王先輩につい調子に乗ってしまった。
「そう!ぶっちゃけヤりたいっス!!」
「切原君」
あ、やべ…ジェントルマンにこういう下ネタはダメだったか。
「それぐらいにしておかないと、大変な事になりますよ」
「は?」
柳生先輩にニッコリ笑いながら肩を叩かれる。
そのまま先輩は向こうに歩いていってしまった。
既に仁王先輩とジャッカル先輩と丸井先輩は居なくなっている。
何で?と思って振り返ったところで、やっと柳生先輩の言葉の意味を理解した。
「げっ!!!」
「…何を、とは聞かないでおこう」
「やっ…柳さっっ…!!」
すぐ背後に柳さんが立ってた。
ビックリしすぎて固まってる間にスタスタと離れていこうとする背中を慌てて追いかける。
腕や肩を掴んだところで立ち止まってもらえないような気がして、急いで正面に立ちはだかった。
そしてなかなか働いてくれない脳ミソフル回転して言い訳をする。
「うっ…ウソ!ウソです!!冗談っ!!」
「何だ、ウソなのか?」
「へ?」
「それは残念だ」
それは一体どういう…?
思わぬ返答にポカンと口を開けていると、フッと表情を和らげる。
やられた!!
からかわれてんだ!
「うっウソじゃない!ホントっス!ウソってのがウソですってば!!」
「解ったから。今度からそういう事はお前の胸の中だけにしまっておけ。あいつらに聞かせると何を言われる事やら…」
溜息吐きながら送った視線の先には、離れた場所でニヤニヤとこっちを見ている丸井先輩達がいる。
あっちからもこっちからもからかわれて忙しいな、俺。
でもとりあえずは怒られたり軽蔑されずに済んでよかった。
とにかく!今度の日曜が決戦の日だ。
最近よく解らなくなってきてたからな…たぶん正念場ってやつ?
ちゃんとまだ二番目に好きでいてくれるのか、柳さんの今の気持ちも解んねえし。
§:蓮二
最近、自分自身がよく解らなくなってきている。
俺とは正反対に解りやすいほどに気持ちをぶつけてくる赤也を前に、気持ちが揺らいでいる事も事実。
正直なところ、弦一郎を思う気持ちを越えているのでは、と思っている。
が、自身まだ確証の持てない状態で赤也をぬか喜びさせるのも可哀想だ。
伝えた後、やはりお前への気持ちは間違いでしたなどと言えば、いくら赤也といえども立ち直れまい。
はっきりと赤也だけを好きだ、お前が一番だという実証があればいいのだが。
赤也の言うように体の関係を持ちたいと思う事が恋心だと言うのならば、弦一郎への思いは勘違いという事になる。
別段あいつを抱きたいとも抱かれたいとも思わないからだ。
むしろ気持ち悪い。
うっかりとそうなる俺と弦一郎を想像して身震いが体を走る。
「大丈夫っスか?!風邪?冷え?」
「赤也…」
「寒いんっスか?休んでた方がいいんじゃないっスか?」
いつの間にかすぐ側に来ていた赤也は何を勘違いしたのか心配そうにこちらを見ている。
寒いわけが無い。
季節はまだ春だというのに、コート内は初夏と言える程に気温が上がっている。
「…大丈夫。体調は万全だ」
「よかったっス!」
だからといって、赤也とそうなりたいか、と聞かれたところで些かの疑問が残る。
それだけが証拠というわけではないだろうが、
好きな相手ならば少なからずそういう感情を持つというのは自然な気がする。
目の前で満面の笑みを浮かべる赤也を見下ろして改めて考える。
赤也と俺が、と。
不快感はないが、進んでやりたいとも思わない。
「な…何っスか?じっと見て……」
「お前も阿呆だな」
「何が?!」
「色々と、だ」
こんな俺に欲情するなんて。
と、それは口にはできなかった。
今日も部活が終わった後、データ整理をする為に部室に残っていた。
耳にはあの日赤也に選んで貰ったプレイヤーから伸びるイヤホンが繋がっている。
確かに気に入った曲ではあったが、こんなに四六時中聞きたいと思うほどではない。
ただ、温かく幸せな気分になれたあの日が思い出される為、最近は肌身離さず持っていた。
中に入っている曲も徐々に増えている。
赤也が毎日のようにせっせとCDを持ってきては、これはどうですか、こっちのは好きっぽいですか、と聞いてくるからだ。
俺はとりわけ音楽を好んで聞くわけではないが、赤也が嬉しそうにしているのでついつい懐柔されてしまう。
先程も弦一郎に指摘されてしまった。
最近殊に赤也に対して甘い、と。
甘やかしているつもりはなかったのだが、言われてみればそうかもしれないと思い直す。
ただそうであれば、単に慕ってくれている後輩を可愛がっているだけという事になる。
やはりまだ結論を出すには早い。
性分とはいえ、こう慎重すぎるのも如何とは思う。
恐れも知らずただ前に突き進める素直な赤也が羨ましい。
赤也はどこまでも真っ直ぐだ。
捻くれて物事を考える俺とは違う。
確実に弦一郎への思いに勝てる手を使わなかった事を不思議に思い、聞いた事があった。
「何故俺の気持ちを素っ破抜こうと思わなかった?」
「何で?」
「弦一郎に言ってしまえば俺の片想いもそこで終わりだ。あっという間にお前が一番になれるぞ?」
赤也もそれは頭にあった事なのか、さして驚いた様子もない。
だがすぐに表情を曇らせ、その後盛大に膨れた。
「それじゃ意味がないんっスよ」
「何故?」
「……真田副部長を引き摺り下ろして蹴落としてアンタにとっての俺を一番にするんじゃなくて、
俺が真田副部長を乗り越えていかないと意味ねぇし」
いつだったか、赤也が部内で諍いを起こした際同じような事を言っていた。
「テニスと一緒ですよ。弱っちぃ真田副部長じゃなくって、今のバケモンみたいなアンタらに勝ちたい!」
「…そうか。頑張れ」
「なっ…何でそんな他人事なんっスか!アンタ思いっきり当事者じゃん!!」
だが本当にそう思ったのだから仕方ない。
頑張って、俺の心を早く持っていけ。
そして今、赤也はまさに乗り越えようとしている。
俺の中の弦一郎を。
約束の日曜日はあっという間にやってきた。
元気のない時など呼んでくれればいつでも飛んでいく、と言ってくれていた。
が、実際はこちらが呼ぶ間も与えず赤也はやってくる。
まるで俺の心の隙を見透かすように、相変わらず俺の隣りを離れようとしない。
弦一郎と二人で練習内容の相談などしていると、凄い勢いで飛んでくる。
初めの頃は練習に戻れとカリカリと怒っていた弦一郎も、いつの間にか赤也の熱意に絆されてしまったのか何も言わなくなっていた。
そんな奇妙な光景を前に、相変わらずの見物体制のダブルス陣たち。
今立海大テニス部は一種異様な光景に見舞われている。
精市がいればどんなに嘆くか…否、嘆くまい。
恐らく奴が一番面白がるだろう確率は100%だ。
「まだかかりそうか?蓮二」
「ああ…思ったより時間を食われている」
日曜日の静かな教室に弦一郎の声が響く。
俺は部活の後、たまたま学校に来ていた学年主任に捕まり用事を言いつけられてしまった。
どの教師も面倒な仕事は俺に任せればどうにかなると思っているあたり、非常に迷惑な話だ。
だが一度引き受けてしまった事は仕方ない。
自分の教室へ行き、黙々と作業を続ける。
そこへ顧問への報告を終えた弦一郎がやってきた。
ごく自然な動作で俺の前の席に座り、じっと手元を見てくる。
「…校内新聞の校正か?」
「ああ」
お前は国語教師ではなかったか、と問いたくなる程の誤字脱字、文法の間違いの数々を赤い鉛筆で修正していく。
そういえば、いつの頃からか弦一郎と二人でいても苦しい思いも辛い思いもしなくなっていた。
今もそうだ。
以前ならこんなシチュエーションでは必ず胸が軋む思いをしていた。
だが今は、こんな話まで出来るほど心は穏やかだ。
「弦一郎」
「何だ?」
「例えば、の話なんだが…」
「お前が寓言など…珍しいな」
確かに不確定な話し方を好まない俺らしからぬ事だった。
「もし今一番欲しいものがあったとして、でもそれには絶対手が届かない、手に入らないと諦めているとするだろう?
で、その後二番目に欲しいものが現れたとして…しかしその二番目という事に妥協はしたくないんだ。
一番目が欲しいというのもあるのだが、二番目のものにはそれ相応の魅力があるから妥協など失礼だろう?」
「ふむ」
主体のない俺の比喩話を理解しようと、弦一郎は何かを頭に浮かべるように天井を向きながら頷く。
「妥協はしたくないが…どちらかを手に入れたい場合、どうすればいいと思う?」
今の説明では解りにくかったか、と思った。
しかし弦一郎は、はっきりと言い放った。
「それはもうお前の中で二番目とやらが一番欲しいものになっているのではないのか?」
「……え?」
「要領のいいお前の事だ。本当に手に入れたい物があるのなら、どんな手を使ってでもそれを手中に収めるだろう。
それがたとえ二つあったとしてもだ。どうにか画策をして二つとも手に入れようとする。
だがそんなお前が一番というものを諦めているという事は…それはすでに二番目が一番に欲しいものなのではないのか?」
目から鱗とはまさに今自分自身が感じている事なのだ。
伊達に何年も一緒にいるわけではない。
俺以上に俺を客観視している弦一郎ならではの意見だった。
的を得ている。
「何の話なのだ?何か新しく欲しい物でも見つかったのか?」
今の話、事の次第を知らない精市でも間違いなく何を言わんとしているか気付くだろう。
本か?ラケットか?と全く違う方向を向いたままの鈍感な弦一郎を見て思わず笑ってしまった。
「いや…もっと大事なものだ」
そう、大事なものが俺の中で肩を並べた。
あと一歩。
もう一歩だ。
本格的に笑いのツボに入りそうになった時、教室のドアが開いた。
その先には不機嫌な顔を隠さない赤也が立っている。
今笑っていた事を勘違いしたか。
弦一郎と二人きりでいる事を喜んでいると。
だから何でもないという風に声をかける。
「コート整備と部室の掃除は終わったのか?」
「ソッコーで終わらせてきましたよ!!」
だろうな。
練習では息一つ乱していなかったというのに今は息も絶え絶え。
ネクタイも締めていない状態で教室に駆け込んできた。
凡その想像はつく。
誰かに俺と弦一郎が二人でいるという事を聞いたのだろう。
赤也は真っ直ぐに俺達の方を向いて歩いてきた。
「真田副部長!!」
「な…何だ…」
何を思ったのか、赤也はいきなり力ずくで弦一郎を立ち上がらせた。
「アンタはこっち!!」
あまりの迫力に弦一郎も面食らい、言われるがままにその隣りの席へと座らされた。
そして赤也は今し方まで弦一郎の座っていた俺の前にある席につく。
「強引な奴だな…」
いつもならば怒っているであろう場面だというのに、弦一郎もあまりの事に呆れ気味だ。
俺ですらこの行動は読めずに思わず呆けて見物してしまった。
「何してるんっスか?」
「あ…ああ、校正だ」
何事もなかったかのように話しかけてくる赤也に若干どもりつつ答える。
恐らくは校正の意味を解っていないだろうが。
「ふーん…まだかかりそうなんっスか?」
「そうだな…あと10枚…11枚か…精市も待っているだろうからお前達二人は先に行ってくれ。俺も後から行くから」
嫌がるだろうと思った。
案の定、赤也は思いきり嫌そうな顔をした。
どうしたものかと思案していると、奴らがやってきた。
本当に、どこかで赤也を監視しているのではないのかと思うほどにいつも絶妙なタイミングでやってくる奴らが。
「おーい参謀」
「お前ら今から幸村の見舞いに行くんだって?俺らも一緒に行っていいか?」
赤也が開けっ放しにしていたドアから仁王と丸井が顔を出す。
二人が教室に入ると続いてジャッカルと柳生も顔を覗かせる。
「俺は構わんが…」
弦一郎に視線を向けると、構わないと小さく頷く。
赤也も弦一郎と二人よりはましだと思ったのだろう、先程までの嫌そうな顔を崩した。
「ではお前達で先に行ってくれ。俺は後から行く」
事情を説明すると、柳生が手伝ってくれるとの事で他の者は皆先に病院へと向かう事となった。
ガタガタと音を立てて椅子から立ち上がろうとする赤也を止め、先程から気になっていた事を言う。
「赤也、制服はきちんと着るんだ。ネクタイはどうした?」
「ここ」
ポケットに等閑に突っ込まれたネクタイを受け取り、首にかけてやる。
その瞬間、これでもかという程の笑顔を見せつけられ、急に羞恥が襲い来る。
腹が立ったのでそのまま首を締めてやる。
「ぐえっ…!…何するんっスか!!」
「子供じゃないんだ。自分で結べ」
「えぇーっっ!!ここまでやったのに?!」
よく見ろ。
またニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて見ている奴らがいるぞ。
からかわれるのはごめんだと突き放す。
弦一郎にも自分でやれと叱られ、膨れっ面のままネクタイを結ぶ。
そして皆で連れ立ち教室を後にした。
【後篇】