チェリッシュ(後篇)
§:蓮二
再び静寂を取り戻した教室。
何かを思い出したように、不意に柳生が笑った。
「…何だ?」
「いえ、先程切原君が物凄い勢いで部室を出て行ったのが可笑しくて」
「その勢いのままこの教室に入ってきた」
「よっぽど気に入らないんでしょうね。君と真田君が二人でいるのは」
「そのようだな…」
校正の終わった原稿を封筒に戻し、まだ終わっていない原稿を半分に分けて渡す。
柳生は隣の席に座ると作業を開始した。
「……決心はついたのですか?」
作業を始めてから五分。
視線は原稿に向いたまま、何かを思い出したように柳生が口を開く。
何の、とは聞くまでも無い。
赤也の事だろう。
「…どうにも確証が持てないと前に進めない性分でな」
「石橋も叩き過ぎると割れてしまいますよ?」
「割れたとしても下で両手広げて受け止めてくれる事を期待している俺は…やはり狡いのだろうな」
「そうですね」
否定を望んでいたわけではないが、はっきりとそう言われてはこちらも立場が無い。
あともう少し。
最後の一歩を踏み出すだけの切欠があれば。
「例えば…の話ですが」
今日はこればかりだな、と思いながら柳生の言葉の続きを待つ。
「目の前に瀕死の切原君がいるとして…君は一体どんな行動に出るんでしょうね?」
「悪趣味な喩え話だな」
「ですがそれぐらいに極論でなければ君は行動を起こせないでしょう?」
「……そんな状況……考えたくも無い」
「それで充分じゃないですか」
その喩え話が実際になったら、と考えて思わず鉛筆を動かす手が止まる。
今の生活から赤也がいなくなる事など考えられない。
「人間なんて単純なものです。極限状態になった時に起こした行動こそが本当の自分の気持ちなんですよ」
「そうだろうか…」
ようやく校正を終え、全ての原稿を封筒に入れて荷物を片付ける。
二人ですれば時間は短縮されるかと思ったが、話しながらの作業に結局は同じだけ時間を食われてしまった。
だがそのお陰で俺もこの迷宮から抜け出せそうな気がする。
「まあいつも冷静な君が取り乱す姿など想像つかな―――…」
柳生の声を遮るように教室の引き戸が勢いよく開く。
その先にいたのは用事を言いつけた学年主任の教師だった。
「ああ、校正なら今終わりましたよ」
「やっ…柳君、それどころじゃない!今連絡が入って…切原君と真田君が事故に巻き込まれたらしい」
「え――…」
目の前が真っ暗になる思いがした。
今さっきまで想像の中でしかなかった現実が降りかかっている。
動けなくなってしまった俺に代わり、柳生が教師に問う。
「それで?どういった状況なんです?」
「詳しくは解らないんだが…救急車で幸村君の入院している病院に運ばれたと―…」
「ちょっ…柳君!」
柳生に止められるまで気がつかなかった。
何も持たず教室を飛び出していた事など。
昇降口でようやく追いついた柳生が俺の荷物を持っている。
「柳君落ち着いて!」
「…すまん」
「とにかく病院に行ってみましょう」
柳生からテニスバッグを受け取り、いいタイミングでやってきたバスに乗り込み病院へと向かう。
車中気が気ではなかった。
相当思いつめた表情をしていたのだろう。
柳生がしきりに気を使ってくれる。
「すみません…あんなお話をしてしまって余計に混乱させてしまいませたね…」
「いや…」
それ以上何も言えなかった。
こんな事になったのは柳生の所為ではないし、気を使わせるのも悪い気がする。
だが今は何も考えられない。
本当に頭が真っ白だった。
病院に着き、そのまま受付カウンターへと駆け込む。
そこで教えられ運び込まれたという処置室へと向かった。
「赤也!!」
「あれ?柳さん。どうしたんっスか?」
時間が経つにつれ悪い方悪い方と向かっていた思考回路が遮断される。
処置室の端にある丸椅子に座り、看護師の手当てを受けている赤也が目に入った。
そのすぐ脇にはジャッカルと仁王が立っていて、赤也と同じように驚いた顔をしている。
思っていた以上に元気で拍子抜けした。
「お前……事故に遭ったって…」
ふらふらと近付いて見下ろす。
今自分がどんな顔をしているかなんて考えたくも無い。
恐らく情けないほど崩れているはずだ。
「ああーそれ俺じゃなくって真田副部長っスよ。
犬に引っ張られて車道で転んでた女の子助けようとして、突っ込んできた車避ける時腕に怪我したんです」
「お前は?!」
右腕に頑丈に巻かれた包帯を指す。
事故に遭っていないというのなら何故怪我をしているんだ。
「これ?これその犬に噛まれたんっスよ。逃げようとしたの見て真田副部長が『赤也ー捕まえろー!』って怒鳴るもんだから
慌ててとっ捕まえたら尻尾掴んじゃって。それでビックリした犬が思いっきりガブーッと…」
張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、その場に崩れ落ちそうになった。
「えっ…ちょっ!大丈夫っスか?!」
赤也が腕を掴んでくれなかったら、そのまま倒れていたかもしれない。
深呼吸を一度、何とか平静を取り戻す。
「もしかして心配してくれたんっスか?」
「…何?」
嬉しそうにする赤也に急激に怒りが湧き上がる。
不謹慎だ、という以上にこんなにも心を裂いた事に対して。
そして悔しく思う。
「ねえねえ俺の事しん…ぶべっっっ!!」
こんな風に瞬間的な感情で動いたのは初めてだった。
気付けば俺の左手は赤也の右頬を打っていた。
弦一郎には殴られ慣れている赤也も、流石に目を白黒させている。
俺自身、生まれて初めて誰かを殴った。
「この…馬鹿者!!何が心配をしたか、だ!こんな事で怪我でもしてテニスが出来なくなったらどうするつもりだったんだ!!」
「あ…あの…」
「王者立海の一角を担う者としての自覚が足りん!反省しろ!!」
言うだけ言って、俺は部屋を出た。
「ちょっと柳君?どこへ…」
「弦一郎の様子を見てくる」
入口で事の次第を見ていた柳生にそう伝え、俺は案内表示を頼りに外科の診察室へと向かった。
丁度診察が終わったところらしく、廊下に出てきた弦一郎と鉢合わせる。
いつも制服の下に着ている半袖の白いシャツ姿で左腕には大きなガーゼが貼られていた。
「弦一郎、大丈夫か?」
「ああ、蓮二。来ていたのか」
「怪我の程度は?」
「どうという事はない。ただの打ち身とかすり傷だ。練習にも差し支えはない」
「そうか…よかった」
見受ける印象としては赤也の方が重傷なように思える。
弦一郎も大丈夫だからと言ったらしいのだが、助けた女の子の母親が万が一の事があったら大変だと強く勧めてくる為、
仕方なく診察を受けたらしい。
その女の子も転んだ時に膝を擦りむいただけで、大した怪我もなく済んだそうだ。
結局のところ、事故とは関係なく犬に噛まれた赤也が一番の重傷になってしまったという事か。
何にせよ大事に至らなくて本当に良かった。
「大変だったみたいだね」
「精市」
病室から騒ぎを聞きつけてやってきたのか、寝間着姿の精市が近付いてくる。
まだ少し足元が覚束無いようだがこちらも元気そうだ。
二人の顔を見て些かの落ち着きを取り戻す。
「真田ぁーこれやっぱ落ちねーわ」
そこへ丸井もやってきた。
血と土で汚れてしまった制服のYシャツをトイレで洗っていたらしい。
ブレザーは脱いでいたから被害を被らなかったが、Yシャツはそうもいかなかったようだ。
「ほい、んじゃこれは家帰って洗濯しろよ」
「うむ。わざわざすまなかったな、丸井」
弦一郎はテニスバッグに汚れたシャツをしまい、女の子の母親へと診察結果の報告と挨拶に行った。
丸井も赤也の様子を見に行ってくるとその場を離れる。
「ちょっと蓮二。赤也に何言ったんだ?」
「何とは…」
「さっき様子見てきたら物凄いヘコみようだったから」
精市の言葉に、先程感情のままに赤也を打った左手が急に痛みを取り戻す。
きっと赤也はこの何倍も痛かったはずだ。
「……あまりに不謹慎な物言いだったから少し説教をしただけだ」
「少し、ね…」
「…すまないが今日はこれで失礼する。俺も少し動転しているようだ」
何かを見透かしたような精市の視線に耐えられず、俺は病院を後にした。
こんな事で気付きたくは無かった。
自分の本当の気持ちになんて。
§:赤也
「おっかねぇー…」
「参謀もあんな風に怒る事あるんじゃのぉ」
おっかなびっくりなジャッカル先輩と、のん気にそう言ってのける仁王先輩の声に俺の呆然としていた意識が戻ってくる。
初めて柳さんに殴られた。
ビックリしすぎて痛いとか感じるヒマなんてなかった。
熱を持って赤くなってるだろうけど、今も全然痛くない。
そんな事よりはっきりと言われてしまった。
あの言い方だと俺の事、ただの後輩として、立海のレギュラーとして心配してただけなんだ。
思いっきり落ち込んだところに追い討ちをかける一発が頭に落ちてきた。
それもまた、意外な人物によるものでビックリした。
いきなり脳天ぶち抜くような衝撃が降ってきて、一拍おいて後頭部を殴られたのだと気付く。
振り返ると拳を握り締めた柳生先輩が立っていた。
「…しぇんぱい…?」
痛みでいえばこっちのがよっぽど痛い。
涙目で訴えるが鬼の形相のまま見下ろすだけだ。
「反省したまえ切原君!!ここに来るまでの間、柳君がどんな心境だったか考えてもみなさい!
それなのに君ときたらあんなにも嬉しそうに……まったく、不謹慎にも程があります!」
「おっ…落ち着けヒロシ!!」
ジャッカル先輩が止めに入ってくれなかったら間違いなくもう一発拳骨を食らってただろう。
「何騒いでるんだ。ここは病院だよ」
「…幸村君」
入口でする声に振り返ると幸村部長が立ってた。
何で?って思ったけど、よく考えたらここ部長が入院してる病院だったな。
「幸村!お前出歩いて大丈夫なのかよ」
「大丈夫。病棟内なら歩行可能だって許可下りてるから」
ジャッカル先輩は心配そうにしてるけど、俺の目には元気そうに見えた。
「で、赤也。お前蓮二に何したんだ?」
「いででででででででで」
理由も聞かずに俺の耳思いっきり引っ張るぐらいに元気なんだな。
元気になってよかった、と思ったけどこんな目に遭うのはゴメンだ。
「痛いっス幸村部長!!」
病人相手だから強引に振り払えない。
まあ幸村部長相手に力で勝とうなんて思ってないけど。
っていうかほんとにこの人病人なのか?
「まあお前がどうなろうと知ったこっちゃないけど…蓮二傷付けたら……解ってるな?赤也」
にっこり笑って言い放たれた言葉に背筋が凍る。
「解ったら笑顔で頷くんだ」
「は…ハイ…」
恐怖で笑顔は上手く作れない。
引きつる唇を辛うじて上げて、俺は首が取れそうな程頷いた。
すぐにでも柳さんの事追いかけて謝りたかったけど、そうもいかなかった。
咬まれた部分が化膿するかもしれないからって点滴に繋がれて、血液検査して、
全部の治療が終わったのは結局それから2時間経った後だった。
他の先輩たちは皆幸村部長の入院してる病室にいたけど、そこに柳さんはいなかった。
柳生先輩に散々説教食らって、丸井先輩と仁王先輩に散々笑われて、やっと解放されたのは夕方も過ぎた頃。
幸村部長が夕食の時間になったおかげで助かった。
食事が運ばれてきたのを合図に解散になった。
一人で食べるのは味気ないって我侭言うから真田副部長は残ってたけど。
家に帰ってから何度か柳さんのケータイにかけたけど、出てもらえなかった。
だから晩飯食ってから、意を決して柳さんの家に押しかける事にした。
迷惑かと思ったけど、そうも言ってられない。
柳生先輩の言う通り、すっげー心配してくれてたんだったら俺はとんでもない事をした。
この時間なら流石にもう帰ってるだろうし。
柳さんの家の最寄り駅降りてからもう一回かけたけど、やっぱり出てもらえない。
衝撃デート以来の道のり。
あの時とはまた別の緊張で心臓張り裂けそうだ。
あんな風に呆れさせて見放されて、もう二番目どころか本格的に嫌われたかもしれない。
何にしても、とにかく謝らないと。
駅から10分の道のりはあっという間。
威圧感満載の門を前に俺はハッキリ言って怖気づいていた。
インターホン押すにも緊張する家だな、と。
けど思い悩んでても仕方ねぇ!!
思い切って門扉の隅にあるインターホンのボタンを押そうとした。
その瞬間、玄関のドアが開いて口から心臓が飛び出したかと思った。
格子の門からこっちが見えたのか声をかけられる。
「あら?どなた?」
「や…夜分にすいませんっ!俺っ立海大テニス部の者で…」
近付いてきて、ようやくそれがあの美人の姉ちゃんだと気付いた。
うわっすっげー写真で見るより美人だし。
「ああ、蓮二さんのお友達の方ね」
喋り方までお上品だよオイ。
すげえー…本物のお嬢様だ。
うちの姉貴とエライ違いだ。
…って今はそれどころじゃなかった。
「はっはいっ!あのっ柳先輩は…いますか?」
「ごめんなさいね、今弦一郎君のお宅にお邪魔してるの」
「真田副部長の…?」
あの人の家ってこの近所だったっけ?
部の名簿見た時住所近いなとは思ってたけど。
っていうか、何で真田副部長のところに?見舞いか?
「すぐ帰ると思うから…中に入ってらして。どうぞ」
「いっ…いえっ……いいです!あの…失礼します!!」
お姉さんは門を開けて中に入るように言ってくれたけど、俺は断って元来た道を全力疾走で戻った。
こんな時間に何しに行ったんだろうとか、今までだったら嫉妬で腹ん中ぐっちゃぐちゃになってた。
説教食らってもいいから真田副部長の家押しかけて柳さんと二人きりにさせるもんかって思ってた。
けど今はそんな事も考えられなかった。
さっきまでは謝る気してたけど、それも何か自信なくなってきた。
顔見て喋るの辛いかも。
今まで俺があんなに強気の態度に出る事ができたのは、少なからず柳さんが味方でいてくれたからなんだ。
今こうして暗闇ん中に放り出されて、本気でどうしていいか解らない。
あんなに毎日が楽しくて、一日が終わって早く明日になって柳さんに会いたいって思ってたのに。
柳さんに会えない、会いたくないなんて思ったのは出会ってから初めてだ。
明日も朝練あるのに、どんな顔して行けばいいか解らない。
俺は何も考えたくなくて、家に帰ってそのままベッドに潜り込んだ。
§:蓮二
騒動の所為で弦一郎に借りていた本をうっかりと返し忘れていた事を思い出し、夕食後に真田邸を訪れた。
明日にでも返せばよかったのだが、何となく話を聞いてほしかったのだ。
時間も遅かったので家の中に上がる事はしなかったのだが、門の前で話し込んでしまった。
今日、生まれて初めて人に手をあげた。
その事は弦一郎にも衝撃的だったのか、こちらから話題に出す前に言われてしまった。
よもやお前が赤也に手をあげる日が来るとはな、と。
「……殴る方も痛いものだな…手も心も」
「俺の心労が解ったか?」
「お前は趣味のようなものだろう」
「誰が好きで殴ったりするか!」
心外だ、と怒っているが、ああもしょっちゅう手をあげていればそうは思えない。
「まあ…今日の事では大事な事に気付かせてもらった」
「大事な事?」
「ああ…事故に遭ったと聞いて、正直お前の事など微塵も考えてなかった」
「酷いな」
だがそれが真実だ。
頭の中は赤也の事でいっぱいだった。
こんな事で気付きたく無かった。
だが気付いてしまった。
本当に弦一郎の言った通りだった。
「お前の言う通りだ。二番目などと思っていたが…いつの間にか一番になっていた」
「ん?…今日の寓言は赤也の事だったのか?!」
あれだけ解りやすくて今の今まで解らなかった弦一郎の方がどうかと思う。
赤也の思いなど部内ではレギュラーだけでなく皆知っている事だというのに。
「今頃気付いたのか」
「……全く知らなかった」
「だろうな」
「しかし今まで一番だったと思っていたのは誰なんだ?」
それをお前が聞くか。
「それはお前の知らなくていいところだ。墓の下まで持っていく」
隠し事が嫌なのか、しかめっ面をしているが言うわけにはいかない。
それにすでに過去となった事だ。
今更表に出して波風を立てる事もあるまい。
この事は俺と赤也だけが知っていればいい。
俺は弦一郎と別れ、ゆっくりと歩いて自宅へ戻った。
「おかえりなさい」
「ただいま」
玄関のすぐ脇にある洋室から姉が出てきて出迎えてくれる。
「さっきね、テニス部の可愛らしいお友達がいらしてたの。本当についさっきよ」
「テニス部の?誰?」
可愛らしいという表現にあてはまる人物を思い浮かべる。
間違えても仁王やジャッカルではないだろう。
となれば丸井か?
「赤い髪の?」
「いいえ、クルクルパーの方」
赤也か。
しかし…
「……パーで止めないで下さい」
「あ、そうね。クルクルパーマの方よ」
厳格な祖母によって徹底した淑女教育を受けた姉はまさに深窓の令嬢に相応しい振る舞いだが、
その所為か、逆に一般的な言葉が不自由で時々可笑しな間違い方をする。
まあパーで止めたところで強ち間違いではなさそうだが。
「弦一郎君のお宅に行ってるだけですぐに戻るから中に入って待っててと勧めたんですけど…」
「そのまま走って帰った?」
「そうなの…」
やはり。
何てタイミングの悪さなのだろう。
「何か気に障ったのかしら…どうしましょう?」
「姉さんの所為じゃありませんよ」
恐らく頭の中で色々と思考を悪い方へと持って行ったのだろう。
今日の俺のように。
フォローの電話を、と思って携帯電話を見れば着信の嵐。
家に帰ってからは部屋に置きっぱなしにしていて、出かける時もすぐに帰るつもりで持ってでなかったのが災いした。
リダイアルするが、コール音も鳴らない。
ただ電話会社のアナウンスが流れるだけだ。
これは電源を切って不貞寝をした確率98%だな。
携帯魔の赤也がうっかりと電池を切らせる事などしないだろうし、今の時間に圏外になるような場所にいる確率も低い。
家の方に電話をかけようかと思ったが、時刻はすでに九時を回っている。
このままでは明日の朝練にも出ない確率が80%以上だろう。
これは朝自宅まで行って話をする方が早いな。
そう思い、俺は早々に布団に入った。
翌朝、いつもより三十分早く家を出て、三駅先にある赤也の自宅へと向かった。
時刻は6時40分。
さてどうしたものか。
ここまで来たは良いものの、こんなに早い時間にインターホンを押す訳にもいかない。
赤也の携帯は相変わらず不通のまま。
冷静に考えれば解った事だ。
まったく、昨日かららしくない事ばかりをしている。
こんなにも俺の事を振り回せるのは、あの精市を除けばお前だけだとこっそり罵倒した。
玄関先で思案していると、玄関の扉が開いた。
まさか赤也が、と思ったがそうではなかった。
エプロン姿の、恐らく赤也の母親だろう人が出てきた。
目が合ってしまったので軽く会釈する。
赤也の母君はこちらに歩いてきて、塀に埋め込まれたアルミの郵便受けから朝刊を取り出した。
そして門扉を開けて出て来てくれたので、改めて頭を下げる。
「おはようございます。朝早くに申し訳ありません」
「立海の制服ね…テニス部の方?」
「はい。朝練に遅れてはいけないと思いまして、赤也君のお迎えに上がりました」
朝の弱い赤也に対しては非常に有効なはずだ。
我ながら上手い言訳だと心の中で自画自賛する。
「そうなの?!あの子さっき起こした時今日は朝練ないからもうちょっと寝かせろなんて言ってたから…」
やはり。
「まぁーごめんなさいね!わざわざ朝早くに…えっと…真田副部長、じゃなさそうね。どう見ても筋肉ダルマのオッサンじゃないし…」
あいつは家で一体どんな話をしているのだ。
「柳さん、ね」
言い当てられた。
俺の話は一体どんな形でしているのか、知りたくもあり、聞きたくない気もする。
が、初対面で自己紹介しないのも失礼な話。
俺は頭を下げて改めて名乗った。
「はい。柳蓮二と申します」
「やっぱり!でも最初女の子かと思ってたのよーあのバカ息子、
『背が高くて細身でモデルみたいにスタイルのいい超美人の先輩』なんて言うもんだから」
笑い事ではないです、お母様。
早急に眼科と脳外科を受診させた方がいいと思います。
確か学期始めの健康診断では両目とも1.5以上あったはずなのに、急に視力が落ちたのではないか心配だ。
「入って入って。あの子私が言っても起きやしないんだから、部屋に行って一喝してやってちょうだい」
「は?いやしかし…」
「遠慮しないで!赤也から貴方の話は嫌って程聞かされてるから初めて会った気がしないわー」
なるほど、この有無を言わせぬ強引さは間違いなくあいつに遺伝している。
しかし嫌という程どんな話をしているんだあいつは。
余計な事まで喋ってやしないか非常に不安だ。
「大好きな先輩に起こしてもらったら、いくらあの子でも一発で起きるわね」
余計な事まで喋っているようだ。
結局断りきれず、赤也の部屋に入った。
中は想像していた程汚くはなかった。
棚や机の上は乱雑に散らかっているが、床は充分に歩けるだけのスペースはあるし、綺麗に掃除されている。
乱雑に物が重なったスチール製の収納棚のうち、目の高さにある一段だけが綺麗に片付いていて、見覚えのある箱が置いてあった。
これは以前遊びに行った際俺がゲームセンターで取って赤也にあげたゲーム機だ。
箱を開けて遊んだ様子も、その箱が傷ついた様子もなく綺麗なまま鎮座している。
嬉しそうにしていたが、本当はいらなかったのだろうか。
俺に気を遣い、あんな風に喜んでくれたのだろうか。
そんな事を考え、少し心に隙間風を感じた。
§:赤也
もう真田副部長に殴られても怒鳴られてもいい。
とりあえず朝練はサボってしまおう。
放課後までに心の整理つけて、何とかしよう。
テニスしてりゃ…忘れ…られないだろうけど、気は紛れるはずだ。
そう思って叩き起こしに来たお袋を部屋から追い出した。
なのにまた起こしにきやがった。
「赤也」
っるせーな…さっきからまだ十分も経ってねえし。
「赤也、起きろ」
まだ起きる時間じゃアリマセン。
「仕方ない奴だな…毎朝こうしてお母様の手を煩わせているのか?」
…ん?お母様?
ってお袋じゃねえの?
あれ?
「赤也、いい加減目を覚ませ」
この声って…
「ええっっ?!」
被ってた布団跳ね上げて飛び起きて、目の前の光景を確認。
そして壁際まで後退り。
「やっ…やややや……柳さん?!」
何で柳さんが俺の部屋にいるんだ。
すっげー都合のいい夢見てるよ俺。
「…ゆ…夢?」
「夢ではない」
思わず手を伸ばして顔触って確認。
ベッド脇に正座してんのは、紛れもない柳さんだ。
「なっ…何で?!」
俺は転がるようにベッドから下りて柳さんの前に正座した。
そしてとりあえず心の中でお袋に感謝。
こないだ勝手に部屋の掃除されて、隠してあったエロ本捨てられたりとさんざんだったけど、
今となっては捨ててくれてありがとうございますって感じだ。
そんでこんな俺の罵詈雑言など無視して綺麗に掃除してくれてありがとうございます。
これからは不測の事態に備えてマメに掃除しないとな…
と、余計な事を考えて黙っていると柳さんが口を開く。
「昨日お前がうちに来たと姉に聞いてな…その後すぐに電話をかけたのだが不通だったから会って直接話す事にした」
「えっ…けどっ……学校行って…部活とかで言えばいいじゃないっスか!!何でわざわざ…」
「お前、今日一日を不意にするつもりだったのか?」
「え…えっと…」
「昨日誤解したまま帰ったお前が朝練に出ない確率は80%、そのまま授業を受けても身につかない確率100%、
放課後の練習に出てもうわの空のままで弦一郎の鉄拳を食らう確率も100%だ。だから朝一番にお前に会いに来た」
ん?
待てよ。
誤解ってどういう意味だ?
「お前昨日俺が弦一郎の家に行っていると聞いて色々考えたのだろう」
「いや…はい…まぁ……」
「まったく…」
呆れるように溜息一つ。
何だよ。
わざわざ追い討ち掛けに来たのか?
「怪我の具合は?」
「へ?…あ、ああ…ちょっと痛いけど…平気っス」
「そうか。よかっ…」
っていうか先に謝らねえと!!
「ごめんなさい!!」
「赤也?」
「柳生先輩に聞いたんです…アンタがすげー心配してたって…
…なのに俺あんな風に喜んだりして…ほんとすみませんでした!!」
正座なんかしてたもんだから、自然と土下座する形になった。
「あんな怒らせて…謝って済むと思えねえけど…でもっあのっ」
怖くて顔見れない。
顔上げらんねえ。
今どんな顔してんだろ。
知りたいけど怖い。
「もう好きになれとか一番にしろとか言わないんで嫌いになんないで下さい!!」
頭下げたまま、怖いぐらいの沈黙が10秒。
その後聞こえたのは柳さんの笑い声だった。
「へ?」
「嫌いにならないだけでいいのか?」
柳さんの優しい声に顔を跳ね上げる。
怒ってるっていうか呆れてるんだと思ってたけど、笑ってる。
何で?
「本当にそれでいいのか?」
「や…あの………嫌です」
じっと見つめられて、正直に答える。
好きで好きで好きで、あんなに頑張って空回りして、それでも大好きだ。
諦められるわけない。
「だったらそう正直に言え。心にもない事を言ってお前自身傷つかなくていい」
「……スミマセン」
「もう謝らなくていい。それに俺も謝らねばならん」
「は?」
俺何か謝られるような事したっけ?
全然意味解んなくて、ぽかーんと見上げてると不意に右のほっぺたを触られた。
「うええええぇ?!」
「まだ痛むのか?…すまない!」
たぶん昨日殴られたとこの話だ。
いきなり触られてビックリして引いただけなんだけど。
過剰反応しすぎたから勘違いさせてしまった。
「人に手をあげた事などなかったから力加減が解らなくて…本当に悪かった」
「いやっ!全然っっ!いつもの真田副部長の鉄拳とか昨日の柳生先輩の拳骨に比べたら!ヘでもないっス!!」
「……お前…柳生にも殴られたのか?」
「あんなに心配かけたのに反省したまえって…後頭部ガツンと」
拳作って殴る真似してみせると、笑ってくれた。
柳生先輩がそんな事するのって想像つかねえし…
「昨日はあいつにも随分心配をかけたからな」
「え?」
「あんなに取り乱したのは初めてだった」
それって…
「……そんなに…真田副部長の事心配だったんですか?」
そういう事だよな。
「阿呆」
「へ?」
「お前だ」
俺?
俺が何?
「弦一郎の事など頭の片隅にもなかった。微塵も考えてなかった。病院に着くまでの間お前の事ばかり考えていた」
「…え?」
「もしお前に何かあったらどうしようと、最悪の事態まで考えてしまった。
あんな風に突き放さずネクタイぐらい結んでやればよかったとか、
こんなに後悔するなら俺の気持ちを伝えればよかったとか…こんな事では気付きたくなかったが…」
「ちょっ…それ…っ…それって…一番に俺の事考えてくれたって事ですか?!真田副部長じゃなくて!!」
興奮して思わず肩掴んでしまった。
自然と力が篭っちまって痛い思いさせたかもしんないけど、柳さんは真っ直ぐに俺を見て言ってくれた。
「ああ…急激な感情の変化に自分自身制御できなくて昨日はあんな風に言ってしまったが…
俺はお前が一番大切で、絶対に失いたくない」
「ほ…ほんとにほんとっスか?冗談とかじゃないんっスか?俺の事からかってんじゃないよね?」
「お前はこんな場面で俺が冗談を言ってからかってるように思うのか?」
「思いません!!!」
「なら信じてくれ」
初めて見るはにかむような笑顔に、それが現実だと急速に心に染み渡ってきた。
いつの間にか真田副部長の存在を超えられた。
柳さんが、俺を一番にしてくれた。
胸がいっぱいで何も喋れずにいると、柳さんは悪戯っぽく笑って言った。
「さんざん焦らして待たせてこんな強請り事も憚られるが…」
「何っスか?何でも言って下さい!!」
「俺の気持ちが解ればもう言ってくれないのか?今までは飽くほどに言ってくれていた言葉を」
何?何言ってほしいんだ?
パニクって上手く頭が働かない。
「そうすれば…俺もようやく答えを返せる」
もしかして…
でも合ってるのか?
でもやっと答えを返してもらえるんだ。
そう思って、俺は今までで一番気持ちを込めてその一言を言った。
「柳さん、大好きです!!」
やべっ…声大きすぎたか?
けど柳さんは一番優しい顔で笑って言ってくれた。
「ああ…俺も。赤也が一番大好きだ」
ようやく俺を見てその言葉を言ってくれた。
ずっと待っていた瞬間に涙が出そうなぐらい嬉しくて、
「大好きです!」
もう一度繰り返した。
俺の事を好きになってくれた。
俺を一番にしてくれた。
だから今俺の感じてる幸せ、これからは全部アンタに分けてやるから。
Special Happiness Endless L∞P!!