アンジェラス シルキー36

遊びに行こう、という約束は結局果たされないままに夏休みは終わってしまった。
謙也は部活が忙しく、財前も義姉の里帰りについていってしまい、会える時間がないままに新学期が始まった。
だが今日からはまた会える機会が格段に増えるのだ。
それに今月半ばには約束していただんじり祭がある。
目下それを楽しみに生きていたわけなのだが、新学期早々謙也は地獄に叩き落とされる思いだった。
「へ?白石ら、も?」
廊下で、珍しく財前の方から声をかけられ浮かれ上がる謙也に容赦ない言葉の雨が降り注ぐ。
「はい。蔵ちゃん生のだんじり見た事ないから見たいって言うてて…一緒にお邪魔してもええですか?」
「あー……」
絶対に嘘だ。
大方疑う事を知らない財前を前に、盛大に羨ましがったのだろう。
謙也はぐったりと首を垂れた。
またあいつらも一緒か、と。
謙也の態度を見て、財前は表情を暗くする。
そんな態度を見せれば財前が誤解をするのも分かりきっていたはずなのに失念していた。
「すいません…やっぱり大勢で押しかけたら迷惑ですよね…あの、うち遠慮するんで蔵ちゃんらだけでもー…」
「ちょっ!ああああかんあかん!自分絶対来なあかんて!!」
そんな本末転倒な事などあるものか、と必死の形相になる謙也に、財前も思わずといった調子で頷く。
それにホッとして謙也は少し落ち着いた様子で言葉を続けた。
「いや、自分との約束のが先やのに。せやし、ほんま迷惑ちゃうから一緒来たらええよ」
遠慮がちにほんまですか、と伺う財前に満面の笑みを返せばホッとした様子で笑ってくれた。
折角うちに招待できると思っていたのに、と思っていた。
家で二人きりで過ごせるかもしれない、と。
下心が出るよりも先に、とにかく一緒に過ごす時間が、出来れば二人きりで過ごす時間が欲しかった。
だが今年は人が多くなりそうだから母屋へ行けと母親に命令されてしまった。
母屋は忍足の本家の人間が代々住んでいる屋敷で現在は祖父母とその兄弟や出戻り家族が住んでいた。
そんな何世帯も住めるだけの広さがあり、かつては住込みの人間なども一緒に暮らしていた場所なのだ。
そもそも祭りの時期と盆や正月は何十人という単位で人の集まる事になっている。
財前や白石、千歳が来たところで迷惑になるはずもない。
謙也個人的には白石と千歳に迷惑しているが、二人がいた方が財前が委縮せずにすむかもしれないと思考を切り替えた。
人見知りの激しい彼女にあの渦中は少し辛いかもしれないからな、と謙也は親戚の面々を思い浮かべる。
とにかく遠慮がなく、よく言えば人懐こく、悪く言えば馴れ馴れしい、
もっと悪く言えば全く空気を読まない言葉を選ばない人物ばかりが揃っているのだ。
そんな中に財前を置くのは些か心配だと思っていた。
だが謙也の心配はまさにという形で的中してしまった。
「謙也のくせに可愛い子よーけ連れて」
「何や、どれがコレやねん。自分の」
「うっさいわ!下品なポーズすんなアホ!」
「え…え?」
「くぉらぁオッサンどもきったない手ぇで触んなやァ!!」
酒に酔ったハイテンションな中年男性に囲まれ、財前は完全に萎縮してしまっている。
慌ててそれを追い払うと謙也は白石達を睨み付けた。
邪魔をしに来たのだからせめてお前らが防波堤になれ、と思っていた二人は別の集団の中で勝手に盛り上がっている。
それこそ、初めて財前と対面した合コンの時のようにまるで女王様のようにチヤホヤと持ち上げられていた。
お前らほんま何しに来てん、と怒りに満ち溢れていると玄関先がまた一段と騒がしくなった。
また誰か来たのだろうかと思っていると、広い座敷にどやどやと人が増える。
それは謙也すらあまり顔を合わせた事のない親戚で、今日はずっとこんな調子なのだ。
謙也は比較的人の少ない、だんじりの通る表通りに面した窓のない部屋に財前を連れ出した。
「ごめんな?うるさいやろ?大丈夫か?おっさん共に変な事されてへんか?」
「大丈夫ですよ。ちょっと最初はびっくりしたけど…うちも親戚結構多い方なんでお正月とかこんな感じなんですよ」
ここまで多くはないけど、と苦笑いする財前に無理をしている様子はない。
気分は害してないようだとホッとしたが、あの部屋に戻ればまた誰かに邪魔をされてゆっくりも出来ないはずだ。
そう思い謙也はここで待つようにと財前に言って一旦外に出た。
そして座敷にある大皿料理を取り分けるとお盆に飲み物と一緒に乗せて財前の元に戻る。
「お待っとーさん」
「あ、おでんや」
「おう。だんじり言うたらこれやろー。さっきはおっさんらに邪魔されてゆっくり食えんかったやろ?ここで食い」
「ありがとうございます」
謙也は置きっぱなしの座敷机の前に座布団を置くとそこに財前を座らせる。
その前におでんの入った器と冷たい麦茶の入ったグラスを出してどうぞ、と勧める。
鍋から出したばかりで温かい大根を口にして財前の顔がホッと緩んだ。
「いっぱい食べや。遠慮しなや」
「はい。あの、美味しいです、めっちゃ」
「ほんまか?ほな俺も食おー」
騒がしく囃し立てられた所為で謙也も何も食べていなかった。
財前の向かい側に座り、箸を手に取り、ふと視線を財前に戻す。
熱いものが苦手なのか一生懸命にふうふうと玉子に向けて息を吹きかけている姿が可愛い。
思わずじっと見入っていると、財前もそれに気付いたようで顔を上げる。
「あの……?」
「あっ、ごめん!!何もないで!」
不思議そうに首を傾げる財前に不審がられないよう慌てて厚揚げを口に入れると途端に熱い出汁が飛び出た。
「っっつぅああっつううう!!」
「えっ!?ちょっ…大丈夫ですか先輩っ」
熱い物がとりわけ苦手というわけではないが、勢いよく頬の内に噴射され温度以上に熱くて飛び上がる。
涙目になり、手で口を押えていると財前が急いで立ち上がり駆け寄ってきた。
座敷机にあった自分のグラスを手に取ると謙也に渡す。
「これで口冷やしてください」
「えっ、けど……」
「早よ冷やさな口の中爛れますよ」
さっき財前がそれに口を付けていたのを見ていたのだ。
間接キスという言葉が頭を過り躊躇したが、財前の心配そうな顔に一瞬湧いた下心が消える。
謙也はドキドキしながらグラスを受け取った。
こうなれば、折角なら、と謙也はわざわざ財前の飲んだであろう淵を選んで口を付け、一気に飲み干した。
「……大丈夫ですか?」
「う、うん。ちょっと皮めくれたみたいやけど…痛い事ないしいけんで」
そんな謙也の下心など露知らずといった様子の財前が本気で心配してくれているようで居た堪れない。
「……あっ!ごめんな!飲みもん取ってしもて…新しいの貰ってきたるわ」
「え、そんな…うちが行きますよ」
「ええからええから。また人数増えたみたいで五月蝿いし、俺が行ってくるって」
酷く格好悪いところを見られてしまったし、ここは一旦引いて体勢を立て直すと謙也は座敷の襖に手をかけた。

また新たなステップ入るよー
だんじりの日は大鍋におでんが多い。

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