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Garden Wars〜光射す庭・アレンジ
古くから続く家柄で、爵位を賜る切原家では現在嫡男のお家騒動で盛り上がっていた。
代々続く慣例に違わず、彼の結婚相手は親や親類縁者に勝手に決められてしまう。
そして無爵位ではあるものの諸外国の王侯貴族との交流も多く名門である一条家のお嬢様と婚約した。
おかげで両家の関係は円満で事業も順風満帆、誰もが喜ぶ縁談であった。
ただし、本人達を除いては。
郊外に建つ西洋のお城を思わせるようなカントリーハウスの庭で、一人の人物を巡り激しいバトルが繰り広げられていた。
片や切原侯を祖父に持つ赤也、片や名門一条家の末娘であるアリス。
そんな二人に挟まれて頭を抱えながら溜息を吐いているのが柳蓮二であった。
「お前、いい加減柳さんから離れろよ」
「あなたこそ離れなさいよ!蓮二は私のシャペロンなんだから!!」
「シャペロンてのは普通行き遅れのババアだろうが!!何っでこんな若くて綺麗でカッコいいこの人が、
お前なんかのシャペロンなんだよ!!」
柳は若い未婚の女性につく監督者、シャペロンの役目を仰せつかっていた。
赤也の言葉通り、通常は女性であるはずのそれではあるが、優秀であるが故にアリスの祖母の肝煎りで今の役割についている。
「赤也さん、褒めていただけるのは嬉しいですが…お二人とももう少し仲良くされたらどうですか?」
「やだ!!」
「嫌よ!!」
両脇をがっちりと固められ身動きが取れない柳は項垂れながら諭す。
だが右手に絡みつく赤也も左手に絡みつくアリスも、両者一歩として譲らない。
「お前が先に放せよ」
「そっちこそ早く放しなさいよ!馬鹿力で掴んで蓮二が痛がってるじゃない!」
実際は自分の方に引き寄せようと必死になるアリスの腕の方が痛かったのだが、柳は黙って好きなようにさせていた。
こういった馬鹿げた言い合いは今に始まった事ではない。
止めたところで止めない事も蓮二は知っている。
それにもうじきアリスの家庭教師がやってくる頃。
解放されるのも時間の問題なのだ。
そして柳の思った通り、すぐに使用人が家庭教師の来訪を知らせにやってきた。
「お嬢様の好きな歴史でしょう?頑張ってらっしゃい」
「はあーい…」
年配の使用人に連れられていくアリスの後姿に思い切り舌を出して見送る赤也の姿があまりに子供じみていて、柳は思わず笑いを漏らす。
「な…何?」
突然笑い始めた柳の顔を眺めていると、不意に赤也の頭をぽんぽんと撫でる。
子ども扱いされている、と赤也は膨れて腕から体を離した。
そして不機嫌なまま芝生の上に寝転がった。
お前の許婚と家長である祖父に突然差し出された相手は赤也本人も幼い頃から良く知る一つ年上の悪友とも呼べる女だった。
あまりに長くを共に過ごしてきて最早仲の悪い姉のような存在なのだ。
確かに美人で気立てはいいが、今更妻として愛せと言われても無理な話だと赤也は不貞腐れる。
それでなくとも会えば先程のような状態。
今は間にこの人がいるからと、ちらりと隣に座る涼しげな顔の人を見上げる。
アリスの監督者として柳がこの屋敷にやって来た時は運命だと思ったのだ。
この迷惑極まりない一方的な縁談はこの人に出会う為にあったのだと、そう感じた。
一目見て好きになった。
そして話していくうちに、どんどんと惹かれていった。
しかし博識で優しげで綺麗なこの人は、許婚の心も奪っていたらしい。
アリスは許婚である赤也には見向きもせず蓮二に熱を上げている。
そんなこんなで妙な三角関係が出来上がり、半月が経った。
婚前ではあるが、もう少し仲良くしろという家長の命令で今は領地の端にあるこの屋敷に三人で暮らしている。
柳の他にも使用人は沢山居るし、それにあんなはねっ返り相手に変な気も起こしようがない。
だいたい赤也の目はすでに完全に柳に向いている。
しかし柳はあくまで自分は使用人の一人にしか過ぎないのだと全く相手にしてくれないのだ。
寂しいが、それはつまりアリスに対しても同じ事。
少なくとも柳があの女に取られる心配はない。
淑女教育を受けているアリスは日々忙しく過ごしているが、赤也は学校の長期休みである今、暇を持て余している。
だからアリスが授業中のこのような時間で柳が自由になっている間はずっと側にいた。
「如何なさいましたか?」
じっと見上げる視線に気付いた柳は手にしていた本に栞を挟み、隣に寝転ぶ赤也を見下ろす。
「ねー…いい加減敬語やめようよ。アンタのが年上なのに気持ち悪ぃ」
柳はアリスと同い年だから赤也より一つ年上なのだ。
身分の差があるのだから当然であるが、それでも対等に話がしたいのだと赤也は膨れる。
だがそんな視線も柳は簡単に受け流してしまってますます面白くない。
そっちがその気ならばと赤也は無遠慮に柳の膝に頭を乗せた。
「……赤也さん?」
「何読んでんのー?」
子ども扱いしてくるのならば、それに乗じて甘えるまでだ。
ごろごろと太腿に頭を擦りつけてから横目に顔を見上げる。
「歴史書です」
「勉強?」
「ええ。まだまだ知りたい事は沢山ありますから」
「ふーん……えらいねー…俺勉強とか大っ嫌いだけど」
分厚い本を再び開き、その細い目でじっと文を追っている。
真正面から顔を見ると解らないが、下から見れば長い睫毛に縁取られた中にきらきらと光る瞳が見える。
それをもっと見たくなり、赤也は手を伸ばし本を取り上げた。
柳は一瞬表情を変えたが、すぐにいつもの涼しい表情になり何も言わずじっと赤也を見下ろした。
「何ですか?」
「怒んねえの?」
「怒りませんよ」
柳の顔に貼り付けられる薄く笑う表情が、どこか赤也を拒絶しているようだ。
赤也はそんな能面のような顔を見たいわけではないと睨む。
「……変な顔」
「は?」
突然の暴言にようやく柳の表情が素のものとなり、赤也は満足気に唇を歪める。
「そう!その顔!!いーじゃん、そうやって素の顔してる方が!!」
「…からかうのはお止しなさい。さあ、返してください」
「敬語止めてくれる?」
赤也の取り上げた本へと伸ばす手を掴んで上目遣いでおねだりする。
柳がこの視線を酷く困った顔をして見るのが好きなのだ。
そして赤也の期待通り、柳は少し眉を下げて苦笑いする。
「駄目です。お祖父様に叱られますから」
「俺がいいっつってんだからいいじゃんか。命令だっつってもダメ?」
「いけません」
完全にシャットアウトする態度に赤也の機嫌が些か悪くなる。
しかしすぐに何かを思いつき、がばっと体を起こした。
突然の行動に驚きを隠せず柳が目を見開いているのに満足する。
そして立ち上がると赤也は柳の腕を引っ張った。
「んじゃ、俺と勝負してよ!そんで、俺が勝ったら俺の言う事聞いて?」
「勝負って…一体何で勝負をするんですか?」
「んーっと…あ、あれ!テニス!!俺結構得意なんだよね」
庭の端にあるテニスコートを示すと柳は構いませんが、と頷く。
見るからに線が細く、本ばかりを読んでいて運動神経など皆無に違いない。
この勝負もらった、そう赤也は読んだ。
だが僅か15分後、赤也はコートに膝を付き沈み込む事となった。
「な…んで……1ゲームも取れなかったなんて……」
「気は済みましたか?」
荒い息を整えながら呆然と呟く赤也に、柳は平然と言い渡す。
そして薄っすらと汗を浮かべる額をタオルで拭いながら足早にコートを立ち去ろうとする。
慌てて赤也はその後ろについて行く。
「ま…待って!次!次の勝負!!」
「まだ何かするんですか?」
「次は剣術!ぜってー負けない自信あるし!」
庭で待つように柳に言い、赤也はラケットを片付け代わりに剣を手に戻ってくる。
しかし、やはり結果は同じであっという間に決着はついてしまった。
「つ、次!!カード!!」
場所を屋敷内に移し、赤也の私室で向き合うが、頭脳戦で柳に勝てるはずもなく、テニスや剣術よりも早く決着がついた。
様々なゲームをするが、どれも尽く負けてしまう。
「ロイヤルストレートフラッシュ。私の勝ちです」
「げっ…」
「次で最後にしましょう。もうすぐお嬢様の授業が終わる時間です」
カードを片付けながら暖炉の上に置かれた時計を見てそう呟く柳に、まだ付き合ってくれるのかと驚いた。
しかし赤也も勝つまで勝負を吹っ掛けるつもりでいたので黙ってその通りにする。
「んじゃこれで最後!チェス!!」
正直なところ、あまり勝てる気はしなかった。
それでもたとえ万に一つでも勝つ事ができるならばとその勝機にかけた。
だが予想外に赤也は善戦する。
徐々に柳の表情が真剣になっていくのを見て、上機嫌になりながら赤也は勝負や賭けの事なども忘れてそのゲームを楽しんだ。
「……赤也さん」
珍しく長考する柳に不意に呼ばれ、赤也は驚いて盤面から目を離す。
「何?」
「もしこれに私が勝てば、私の言う事を聞いていただけますか?」
「な…何…言う事って…」
何かとんでもない事を言われるのではないかと身を堅くしたが、柳は柔らかく笑いながら言う。
「それが賭けというものでしょう?あなただけでは不公平だ」
「そ…そーだけど……あんますげー事言わないでよ?」
「何、それほど難しい事ではありませんよ。あなたにとっては」
「は?」
どういう事なのだと問いかけようとして、目下の状況に目を剥いた。
「げっ!」
「さあ、チェックメイトです」
次の一手で柳の持つ白のクイーンが、黒のキングを守るポーンを撥ね退けるだろう。
ゲームが終わった。
「私の勝ちですね」
「ちょっ…まっ……ええっ?!全敗?!」
「さーて、何を聞いてもらいましょうか?」
薄っすらと浮かべる笑みはぞっとするほど美しく、そして底知れぬ恐さを含んでいる。
何を言われるのだろうとドキドキしながら見上げる赤也に、柳はふっと表情を崩した。
そして見せたのは冷たい笑みではなく、はにかんだような笑みだった。
「え?何?」
「では私に、あなたと対等にお話をする権利をいただけますか?」
「え?え?…それって……」
「使用人と主人の伴侶ではなく、一友人のように敬語を使わず話す事をお許し願えますか?」
柳はあまりに必死な赤也に感化されてしまい、思わずその様な願い事をしてしまったのだ。
暫くは言葉の意味が理解できずぼけっと呆けていたが、赤也は大きく頷いた。
つまりは赤也の願いと同じという事。
「もっもちろん!もちろんOKです!!呼び捨てにして話してよ!!」
「ありがとう、赤也」
そう言って少し照れくさそうに笑うのを見て赤也は、ああやっぱりこの人が大好きだと改めて感じた。
人のいる場では変わらず淡々とした態度だが、周りに人がいなくなると賭けの時約束した通り、柳は敬語を使わず接するようになった。
そしてあれ以来、柳に勝ってやろうと何かと勝負を吹っ掛けるのだが、赤也は尽く返り討ちに遭っていた。
何をしても勝てないのだ。
スポーツもどんなカードゲームもボードゲームも、もちろん勉強などで敵うわけがない。
涼しい顔をしてあっさりと赤也を負かす。
「…マジありえねえ……ビリヤードまでできんのか…シャペロンってのは何でもできるバケモンかよ」
華麗に球を沈めにやりと笑う柳を半泣き状態で見上げる。
「失礼な。万能戦士と言ってくれ。一人で生きていけるよう一通りの教養は身につけたからな」
「…一人って…何で?家は?」
「さあ、どこにあるか」
曖昧な言葉で誤魔化し顔を伏せるので何か深い理由でもあるのだろうか。
もしや大変な家庭事情があるのかもしれない。
不躾に聞いては駄目だと赤也は口を噤んだ。
そして話題を変え、明るい声で尋ねる。
「あ、アンタさー何か苦手な事ってないの?」
「弱点探しか?」
「うん」
あっさりと認める赤也に柳は声を上げて笑った。
「そうだな、そのうち教えてやる」
「ええっ!!今教えてよ!」
抗議の声を上げる赤也の背後で扉の開く音がする。
二人で視線をそちらに移すと、アリスが入ってきていた。
「なあに?なあに?楽しそうね。私もお話に入れて!」
漸く退屈な授業を逃れられ、楽しそうに駆け寄るアリスに赤也は追い払う仕草を見せる。
「だーれがお前なんて。向こうで女中のババアと一緒にちまちま刺繍でもやってろよ」
「もう授業終わったんだからいいじゃない。それに何度も言うようだけど、蓮二は私のシャペロンなのよ?」
アリスは赤也から引き剥がすように柳の腕を引き寄せる。
それを見た赤也は負けじと反対側の腕を掴んだ。
「だったら柳さんは今日から俺のガヴァネスにする!!」
「は?」
「は?」
アリスと柳の声が綺麗に重なり合う。
いきなり何を言い出すのだと二人で赤也に視線をやるが、本人は至って真面目な顔で柳を見ている。
「なあいいだろ?!そしたら俺だってアンタ独占できる権利がある!」
「あんた学校行ってんじゃない!何で今更蓮二をガヴァネスにする意味があんのよ!!それに蓮二は男じゃない!」
「そっくりそのまま返してやるよ!柳さんをシャペロンだって振り回すお前にだけは言われたくないね!」
「……お二人とも落ち着いて…」
冷静に考えればどちらの言い分もおかしいのだが、そんな事を言ったところで二人が納得をするはずもない。
柳を挟み、睨み合う両者を宥める方法は一つしかない。
柳は溜息一つの後、静かに言う。
「解った。引き受けよう」
「マジで?!やった!!」
「ええーっ!」
歓喜に両手を挙げて喜ぶ赤也と抗議の姿勢を取り、がばっと体を離すアリスに解放され柳はやれやれと頭に手を当てた。
「ただし、あくまで俺はお嬢様の監督者だ。赤也に時間を割けるのは限られているが、それでもいいな?」
「うぅー…………」
「赤也?」
「解った…」
優しく宥めるように名前を呼ばれてはそれ以上の強情は通せない。
赤也は項垂れるように首を縦に振った。
「お嬢様には少しお手間を取らせるかもしれませんが、構いませんね?」
「解ったー…もう、蓮二はずるい。そうやって言えば断れないって知ってるのよ」
アリスは柔らかい笑みを浮かべ首を傾げながら言う柳の腕を叩いて抗議するが、それも簡単に受け流した。
だが円満に終わるかと思ったその下らない話し合いも、柳の放った凍りつくような一言に場が一変する。
「赤也、俺はやるからには徹底的にお前を教育する。いいな?」
「…は?」
「俺の授業は容赦ないぞ。泣き言など一言でも漏らせば屋敷を叩き出されると思え」
「え?え?」
形ばかりの拘束をする為に家庭教師をしろと言い出した数分前の己に今の現実を見せてやりたい。
赤也は薄く唇を歪める柳を見て背中に冷たい汗を伝うのを感じた。
「お嬢様にはどこに行っても恥ずかしくない女性になる為、色々な事を学んでいただいてるんだ。
お前がそれに相応しい紳士になれるよう、俺が尽力しようじゃないか。ガヴァネスとして」
悪い顔でくくっと喉の奥で押し殺すような笑いを漏らす柳を見て、
赤也とアリスはこの屋敷に来て初めて手を取り合い後ずさりをして柳から距離を取った。
その言葉通り、本当に容赦がなかった。
休み明けに学校で不自由をしないようにと言って、柳は先に勝負をした事だけではなく勉強もみてくれると言う。
しかしその方法はまさにスパルタの一言に限る。
説明に使う指示棒をまるで鞭のように振り、容赦なく赤也の頭や手を叩くのだ。
今の英語の授業でも例外ではない。赤也の右手に勢いよく革製の指示棒が振り下ろされる。
「い゙ぢっっっ」
それは最早指示棒としての役割はなく、完璧な鞭となっている。
赤也は赤く筋のついた右手をさすりながら柳の顔を見上げた。
「違う赤也。綴りを間違えたまま繰り返し書いてどうする」
「は…ハイ…」
ノートに何度と書いたスペルに目をやり柳は刺すような冷たい視線を赤也に向ける。
こんなはずではなかった。
もっと一緒に過ごす時間が欲しいと思い自ら言い出した事だが少し後悔もしている。
だがそれでも今はアリスから柳を独占できている。
そして、
「……うう…出来ました…」
「…うん、今度は合っている。よく頑張ったな、赤也」
柳は厳しいが、その分頑張って出来た時は手放しに褒めてくれる。
優しく微笑み、頭を撫でる。それがたまらなく嬉しい。
「もっとご褒美欲しいんだけど?」
「褒美?チューして?とかはごめんだからな」
調子に乗った赤也にも容赦は無い。
目前に指示棒を差し出し冷たく見下ろす。
その瞳に先程までの優しさは微塵も感じさせず、赤也は途端に覇気をなくした。
柳はしょんぼりと肩を落とす姿に小さく笑みを漏らし、もう一度慰めるように頭を撫でた。
「…柳さん?」
「休憩にしよう。お茶を持ってこようか?」
「んー…それより表出ねえ?外の空気吸いたい」
赤也の提案に柳も同意して、二人揃って庭に出た。
季節の花が所狭しと咲き乱れる庭を並んで歩き、取り留めのない話をする。
赤也が一方的に話しかけ、柳はそれに相槌を打つだけだったがそれでも一緒にいるだけで幸せだと赤也は感じていた。
しかしそれも束の間、バラ園に続くテラスから柳の本来の主人が顔を覗かせる。
「赤也!蓮二!」
「お嬢様…」
「げっ」
折角二人でいたのにと不機嫌を隠さない赤也を宥めるように肩を叩き、柳はアリスの元へと歩み寄った。
テラスに置かれた真っ白なガーデンテーブルにはティーセットやお菓子が並んでいる。
「アフタヌーンティですか?」
「ええ。ご一緒にいかが?」
「よろしいのですか?」
一旦赤也の様子を伺えば、二人きりにさせるものかとアリスを睨んでいる。
しばし睨み合いがあったが、柳が席に着くや否や、二人は両脇を固めるように椅子に座った。
「……二人とも少し離れて下さい。動けません」
ティーポットを手にしたまま動けなくなった柳を間に挟み、牽制して睨み合う。
「折角のお茶が冷めてしまいます。それに、これ以上喧嘩なさるようでしたら、私はお暇を頂きますよ?」
究極の一言に、二人は慌てて同時に身を引いた。
そもそも赤也とアリスをもう少し仲良くさせる為の同居だというのに日に日に関係は悪化していく。
だがそれも互いに牽制し合ってはいるが猫の縄張り争いのようで可愛いものだと柳は思っていた。
大人しくティータイムを楽しむ態勢となった二人を見やり、ゆっくりとカップに口をつける。
「ローズティですね。美味しいです」
「本当?そこのローズガーデンの花を使って作ったのよ」
「別にお前が作ったわけじゃねーだろ。何でそんな得意げなんだよ」
「あら、お茶を淹れるお手伝いはしたわ」
ツンと顔を背け、アリスはティーカップに口をつける。
赤也は香りが気に入らないと言うので柳は別の紅茶を給仕係に頼んだ。
トレイに乗せて運ばれてくるティーポットを預かり、柳は赤也のティーカップに注ぎ入れる。
澱みない所作で琥珀の湯が注がれていくのをじっと眺めたままの赤也に柳はふっと笑いを漏らす。
「どうした?」
「アンタ紅茶の給仕もプロ級なんだ」
「当たり前よ。蓮二は私のシャペロンにするのなんて勿体無いぐらいのグレイトジェントルマンなんですもの」
「お褒めに預かり光栄です」
何でお前が自慢するんだとムッと不機嫌になる赤也の前にティーカップを差し出すと、少し顔を綻ばせた。
きょろきょろとテーブルの上に視線を彷徨わせる赤也に、柳は何を探しているかすぐに気付く。
「赤也、ダージリンのファーストフラッシュはストレートで飲んだ方が美味い。香りを楽しむ紅茶だ」
「ふーん…」
漸く自分のカップに入った紅茶に口を付け、赤也は満面の笑みを浮かべる。
「美味い…」
「いつもミルクティばかりでなく、たまには違う種類を飲むのもいいだろう?」
「え…いつもって……」
聞き返すがすでに柳はアリスと会話を始めていて、真意は確かめられなかった。
だが確信した。柳は自分をいつも見てくれていたのだ。
確かに赤也はいつも紅茶にミルクと砂糖を入れて飲んでいた。
銘柄など解らないからいつも一律に。
それを柳はずっと見ていたのだろう。
たったそれだけの事だが嬉しくてたまらない。
「赤也…?どうした?」
「へ?あ、いや…な…何でも…ない」
急に振られて上手く言葉を繋げられなかった。
顔に血が集まり熱が上がっていくのが解る。
しかし不自然に落ちる沈黙に、アリスの明るい声が挟まる。
「ねえ、赤也!懐かしいわね、ここのローズガーデン」
「ええ?あー…うん」
テラスから見える広大な庭は赤也とアリスにとって懐かしい場所でもあった。
このカントリーハウスは切原卿個人私有の物で最大の規模を誇るもの。
森からの続きで芝生が広がり、美しい庭園となっている。
その片隅はローズガーデンとなっていて様々なバラが咲いている。
今まさに花盛りの頃。
テラスからも沢山の花が臨め、手を伸ばせば花にも触れられる。
「このバラを見ると思い出すわー…あの子は元気かしらね」
「あの子?」
「赤也の初恋の子」
柳が問い返すとアリスはおもむろに立ち上がり、テラスに張り出す枝に咲く花に手をかけながら笑う。
「ブッッ…なっ…なんっ…」
それを聞いた赤也は口につけていた紅茶を思いっきり吹き出した。
「何故知っているのかって?あんなに解りやすい態度だったのに愚問よ」
「てめっ……柳さんに変な事言うなよ!!」
「あら、蓮二も聞きたいわよね?」
「ええ、大変に興味があります」
完全に面白がっている柳はアリスの言葉に笑いながら頷く。
不貞腐れる赤也を他所にアリスは勝手に説明を始めた。
「昔ここでは週末ごとにサロンが開かれていてね、その頃何度か来ていた子を好きになったのよね?」
「忘れた!!」
勢いよく顔を逸らすが、本当はよく覚えていた。
アリスの母親の友人だという夫人が連れて来ていた大人しい女の子。
いつも皆で転げ回って遊んでいる庭をこのテラスから眺めていた。
記憶はおぼろげで顔も覚えていない。
この庭に来ていたのも3度ほどで、以来見ていない。
ただ一つ、一度だけ会話を交わした時の事はよく覚えていた。
一瞬その記憶が頭を過ぎったが、アリスの声に現実に引き戻される。
「いいところ見せようとしてハウスキーパーのミセス・ケイに随分叱られてたのよ」
「やんちゃなところは今と変わらずだったんだな、赤也」
「…るっせー…っつーか初恋とか関係ねーし!!今好きなのはアンタなんだからな!!」
テーブルを乱暴に叩き柳に訴えるも、やはりやんわりと受け流された。
「しかし初恋は特別なものだろう?」
「…アンタにとっての初恋も?」
「ああ」
「聞きたいわ!蓮二の初恋のお相手はどんな方なの?」
「またそのうちお聞かせしましょう。さあ、お嬢様はもうすぐ次の授業ですよ。ティータイムは終了です」
つまらない、と頬を膨らませる二人を促し、柳は屋敷の中へと戻った。
何をしても勝てない赤也だったが、たった一つ柳に勝てる事があった。
それはパワー。
赤也は先日初めて柳に勝てたのだ、腕相撲で。
初めは公然と手に触れられるという邪な思いで吹っ掛けた勝負であったが、あっさりと赤也の勝利となった。
嬉しい反面、こんな事ならば勝利品をねだってから勝負すればよかったと後悔する。
だが柳は悔しがりながらも自ら何かねだり事はないかと聞いた。
そこで赤也は予てから思っていた願いをぶつけた。
「じゃ…じゃあベッドティの給仕してよ!」
「ベッドティを?」
「そしたら寝坊せず毎日起きるから!!」
目覚めに飲むアーリーモーニングティー。
赤也はそれを頼んでいなかったが、拳を握り締めて所望する。
赤也の寝坊癖は週に一度や二度では収まらないほどで、洗濯や掃除が出来ないのだとメイド達の手を焼かせていた。
柳が家庭教師を始めてからは規則正しい生活を強いられている為、多少はましにはなったものの、
毎朝赤也付きのヴァレットの手を煩わせている状態なのだ。
それでも柳が来てからは本当にお世話が楽になったのだと、
皺と白髪の増えたヴァレットがメイド達相手に涙ながらに感謝の念をしきりに話していた。
それを思い出し、柳は無下にできなくなってしまった。
多少手間は増えるが仕方ない。そう思い柳は受諾した。
以来、ブラックティを厨房で用意をして眠っている赤也に持っていく事が日課となった。
「赤也、起きろ。朝だぞ」
「うー………」
唸りながらごろごろとベッドの中で右往左往する赤也を一瞥し、柳はティーセットを乗せたトレイをサイドテーブルに置く。
「ほら、飲め。濃く淹れたから目が覚めるぞ」
「ちゅー…してくれたらもっと目ぇ覚める…」
本当は柳が部屋に入ってきた時点で目は覚めていた。
毎朝、定時にやってくる柳をベッドの中で今か今かと待ちわびているのだ。
しかし寝惚けたふりをして甘える。
それで上手くいけば儲けもの。
手酷く断られる事を予想していた。
だが、予想外にふわりと額に何かが触れた。
「え…えええっっっ!!!???」
それが柳の唇だと気付き赤也は額を押さえながら飛び起きた。
「お、本当だ。すぐに起きたな」
悪戯が成功したような表情で笑いながら、すぐに何事もなかったかのように柳はティーカップを赤也に渡す。
反射的にそれを受け取ったが、赤也はまだ上手く思考がまとまらずぽかんと口を開けたまま柳を見た。
「な…な……何…っ」
「お前が言い出したんだろう」
「そそっ…そうだけどっ」
「早く支度しろ。もうすぐ朝食だ」
それまでヴァレットの仕事だった赤也の身支度までが、いつしか柳の仕事となっていた。
部屋に備え付けられているクローゼットから今日着る服を用意している柳の後姿を眺めながらカップに口をつける。
紅茶なんて誰が淹れても同じだ。それに銘柄や種類など解るはずもない。
せいぜい濃い薄い、といった部分以外は解らなかった。
だが柳の淹れたものは違う。鼻をくすぐる香りも喉を通る時にする味も、全てが一級品だと思える。
「ねー柳さん……」
「どうした?」
「……俺寄宿帰りたくねえ」
赤也は中身のなくなったカップをじっと眺めながらそう呟く。
学校が始まればまた寄宿舎に戻り、こんな風に柳に起こしてもらえなくなる。
それどころか厳しい規則で会う事もままならないだろう。
次に寄宿舎を出られるのは、恐らく9月の卒業を迎えてからだ。
あと半年近くもある。
こんな曖昧な関係のまま戻れば、もう会う事もなくなってしまう。
それにこのまま祖父の言いなりになりにアリスと結婚となれば、役目を終えた柳はこの家から去ってしまう。
「そんなの嫌だ!!」
「な…何だ突然」
急に叫ぶ赤也に驚き、手を止め柳がベッドに近付く。
その手に持っている服を引っ手繰ると床に投げ捨て、腕を引っ張るとベッドの中に引きずり込む。
柳は何も言わず赤也のしたい通りにさせ、抵抗もしなかった。
馬乗りになり、思いつめた顔で睨むように視線を落とす赤也に柳は些か驚いたような表情を見せる。
「…赤也?」
「柳さん…俺……俺っ」
「どうした?」
強い瞳で睨む赤也を優しい表情で慰めるように頬を撫でる仕草に隠れる拒絶を感じ取り、赤也はそっと身を引いた。
「……何でもない…」
もう一度、ベッドに寝転んだままの柳が名前を呼ぶのが聞こえる。
だが赤也はそれに背を向け、床に落とした服を集め着替え始めた。
長い春休みが終わり、もうすぐ新学期が始まる。
この屋敷にいられる期間も一週間を切ってしまった。
どうすればこれからも柳と一緒にいられるだろう。
赤也はそればかりを考えていた。
広い芝敷きの庭の真ん中で寝転び、ぼんやりと空を眺めていると突然目の前に影が出来る。
それが赤也を覗き込む柳の顔であると気付く。
「…柳さ…」
「どうした?今日は何の勝負もしないのか?」
「…うん」
これまで毎日何かしら勝負を吹っ掛けていたのだが、どうしてもそんな気分にはなれない。
だが一つだけ希望の光を見ていた。
いつの間にかアリスの位置が自分と摩り替わっている事に気付いてからは。
今もそうだ。アリスは授業中ではなく、自由時間なのだ。
ならば何故ここにいるのだろう。
隣に座る柳の顔を伺うが、いつもの無表情で何も読む事ができない。
「赤也?暇ならどこかへ行くか」
「え…どっかって…?」
こんな片田舎、行ける場所など限られている。
「そうだな…遠乗り、と言いたいがそんな時間もないか……そこの湖ぐらいにまでなら行けるが、どうする?」
「行く!行きます!!……あ…でも…」
頭を過ぎるのは、遠くに見えるアリスの存在。
テラスでメイド達と何か話していたが、赤也たちに気付くと長いスカートを翻し近付いてくる。
嫌だ。この人を取らないでくれ。
そんな棘のある視線を向けていたが、一目散に柳の元へとやってきた。
「二人で何の相談?」
「遠乗りに行こうという話をしていたんです」
「まあ!私もご一緒していい?」
そら来た、と赤也は俯き必死で舌打ちを飲み込む。
柳はアリスに甘い。
この後、きっと赤也構わないかと同意を求めてくる。
そしてそれを断れないのだ。
子供じみた独占欲だと思われて嫌われたくない。
そう思い俯いたままでいると、思わぬ言葉が頭上に降り注いでくる。
「申し訳ありませんお嬢様。今日は赤也と二人で行きたいんです」
「そうなの?男同士で内緒話かしら?」
「……え?」
「そうですね。準備してまいりますので、少し失礼します」
アリスが駄々をこねず、柳の言うままに受け入れた事も意外だったが、それよりもきっぱりと断った柳に驚いた。
厩舎に向かう柳の背中を呆然と見送っていると、赤也の目の前にアリスの手がかざされる。
「なっ…何だよ」
「べっつにぃー」
アリスは拗ねたようにぷいっと顔を背ける。
さぞや何か文句を言いたいのだろうと思うが、その類の言葉は出てこない。
「そんなに好きなの?蓮二の事」
「それ…はっ…!!」
替わりに出てきた思わぬ攻撃に赤也は一瞬ひるんだ。
しかしここで引くわけにはいかない。
「どうなの?」
「す…好きだよ…まだ会ってひと月ぐらいだけど…すげー好き。どこが好きとか無くて、理屈抜きで…好き」
「ふうーん…」
恥ずかしかったが牽制するように告げる。
だがアリスは大して興味がなさそうに気の抜けたような声を上げる。
「何か言いたそうだな」
「べっつにぃー…でも蓮二はもうすぐここからいなくなっちゃうわよ?」
「…嘘だろ?」
「本当よ。私と赤也がここに滞在する間だけ期間限定で雇っているんですもの」
知らなかった。ここを離れたとしてもアリス付きの使用人であれば、いつかまた会える日が必ずやってくると思っていたのだ。
もう間もなくやってくるであろう別れに赤也は目の前が真っ暗になる。
「さーてと。女は女同士でお茶会でも開こうかしら」
固まったまま何も言わなくなった赤也を放ったまま、アリスはスカートを翻し再びテラスへと戻っていってしまった。
しばらく足元の芝生を睨んだまま力なく座っていると、馬を連れた柳が戻ってきた。
「あれ?一頭だけ?」
「ああ。他の子は調子が悪いと言われてな…丁度いいからお前の手綱捌きを見せてもらおうかと思う」
「お…俺?!」
「そうだ。紳士たるもの、いつご婦人を乗せる場面に出くわすかもしれんのだぞ?」
よく解らない理論だが、二人で乗れるのならばそれでいいかもしれない。
赤也は柳から手綱を預かると、森へ向けて歩き始めた。
背中に伝わる柳の鼓動と温もりに、動揺が隠せない。
どんどんと体温が高まっていくのが解り、気が触れそうだ。
赤也は手綱を握る手が汗で滑らないよう必死に力を込める。
後ろで柳が一言二言と何か話しかけてくるが、心に留まらない。
大した会話もないうちに、目的の湖が見えてきた。
畔にある木に馬をくくりつけ、二人で湖を眺めるように並んで座る。
「…元気がないな?赤也」
「え?あー…ちょっと疲れた…かな」
「そうか。少し横になるか?」
そう言うや否や、柳は赤也の肩をぐっと引き寄せそのまま自分の膝に赤也の頭を乗せた。
「えっ…ええっっ」
突然の膝枕に何が起きたか解らず柳の顔顔におろおろと視線を彷徨わせていると、不意に目の前が真っ暗になった。
それが柳の手による仕業であると気付き、また心拍数が上がる。
「や…柳さん?」
「静かだな」
視界が遮られ、鳥の囀り、水音、風が森を通り抜ける音、そして柳の静かな声だけが耳に届く。
「柳さん……あの…」
「どうした?」
顔は見えないが、底抜けに優しい声がする。
それに少し心が落ち着く。
「ここ辞めた後って…どうすんの?」
「誰かに聞いたのか?」
「アリスに聞いた。ねえ、どうすんの?」
しばらくは闇と静寂が赤也を支配していた。
だが赤也は柳の手を握り、そっと目の上から外した。
急に光が目に入り真っ白になって上手く顔が見えない。
二度三度と瞬きするとようやく柳の顔が見えてきた。
いつもと変わらない表情を想像していたが、存外に傷付いたような顔が見える。
「柳さん?何でそんな顔してんの?」
一瞬泣きそうに歪んだ表情が見えたが、再び視界を遮られる。
「泣かないでよ…」
「…泣いてなどない」
「でも泣きそうな顔してる。…俺、アンタが好きだから泣いてるとこなんて見たくないんだけど」
瞼にかかる手がピクリと震えるのが解る。
どうしたのだろうと不思議に思っていると、手と同じだけ震える声が聞こえてくる。
「そんな事を……言うな…」
「え?」
「お前にそう言われる度…どうしていいか解らなくなる」
その言葉に手を払い除けるように体を起こし、柳の目線に合わせるよう向き合って座る。
すでにそれまでの不安げな表情は微塵も感じさせない。
だが瞳の奥が揺れていて、何か思っている事は確かだ。
「柳さん…俺の事、嫌い?」
「だからそういう事を…」
「ちゃんと俺の顔見て言ってよ!!もう…いなくなるんなら……ちゃんとフッてけ…」
次の瞬間、赤也の瞳に飛び込んできたのは柳の頭頂部だった。
俯いたまま動かない。
泣いているのかと思ったが、声はしっかりとしていた。
「…いなくなるのは……もっと先だ」
「え?」
一瞬何を言われているかが理解できなかった。
しかし顔を上げた柳は柔らかく笑っている。
「お祖父様から、このカントリーハウスでフットマンをしないかと言われた」
「えっ…ええっっ?!マジで?!」
それはつまり、一条家ではなく切原家の使用人になるという事。
このまま今生の別れではなくなるのだ。
「だから、九月に学校を卒業すればまた遊びに来ればいい」
「う…うん!来る!!絶対!!」
「俺はずっとここにいる」
都心部にある本宅からは離れているが、ここも来られない距離ではない。
それに切原家の使用人ともなれば、赤也が望めば本宅の使用人として招く事ができるかもしれないのだ。
断絶すると思われた未来に一筋、光が射した。
しかしそれも柳の言葉に現実を知ってしまった。
「だが……お前が愛すべきは俺ではない。お嬢様だ。それだけは忘れないように」
「え…俺…結婚なんてしないよ?ずっとアンタと…」
「赤也、これはお前一人の問題じゃないんだぞ」
「それでも!誰と結婚させられたってこの先愛してんのはアンタだけだ!!」
そう叫ぶ赤也の声に、近くの木々に止まっていた鳥たちが一斉に羽ばたいていく。
小鳥の囀りが止み、一瞬何も聞こえなくなる。
そして次に聞こえたのは小さな溜息。
赤也の口から漏れたものだった。
「もういいよ…アンタの言いたい事は解るし…ただ、これだけは聞かせて……」
「…何だ?」
「俺の事、好き?家とかアリスの事とか身分とかそんなの全部なくして、丸裸んなったら、俺の事好きになってくれる?」
赤也の告白にまず驚いた表情を見せ、そして目を伏せる。
何か言いたそうで、しかしそれが音になる事はない。
ああ、初めからこの恋に期待なんてしてはいけなかったのだ。
柳は自分の事を、何とも思っていない。
そう結論付け赤也は瞳を閉じた。
「それ…を、答えてしまえば……お祖父様に…暇を出されてしまう……事になる」
闇の中で聞こえてくる柳の震えた声に驚き、瞼を開けるともうそこに柳の姿はなかった。
馬を繋げた場所まで背中を向けて歩いていってしまっている。
赤也は慌ててその後を追った。
「ねえ!今のどういう意味?!」
「察しろ!それ以上は言えん!」
背中越しに見える頬どころか耳までも赤くして子供のように顔を背ける柳に、赤也は思わず飛びついた。
不意打ちを食らった柳は体勢を崩し、その場に倒れた。
柔らかい若草の上に転がる体を逃げ出せないように力一杯に抱き締める。
「好き」
「うん」
「好きです」
「ああ…」
赤也が好きと告げる度、少しずつ柳の体から力が抜けていく。
腕から逃げられる心配がなくなり、赤也は力をゆるめて顔を覗きこむ。
「ほんとにアンタだけが…」
「だが俺は…お嬢様からお前を奪うわけにはいかないんだ……」
「……解ってるよ」
「だから…返事は保留にさせてくれ」
その明確な答えがない限りは、ここにいられるのだから。
そう言って柳は静かに瞳を閉じた。
いよいよ屋敷を去る日が明後日と迫っていた。
赤也の荷物をまとめているヴァレットの手伝いをしていると、柳はアリスにお茶しましょうと呼び出された。
言われた通りテラスに向かうが、まだティーセットは届いていなかった。
用意ができるまで少しお散歩をとアリスに誘われ、柳は庭に下りた。
テラスのすぐ側にあるローズガーデンを見上げていると、不意に腰のあたりに衝撃を食らい、驚き振り返る。
それがアリスの体が抱き付いたものあると気付き、柳はゆっくりと体を離した。
「お嬢様…」
「もうすぐお別れなのよ?少しだけ……」
「駄目です」
「何故?私は蓮二が――…」
「お嬢様」
その先にある言葉を遮り、柳は縋り付くアリスの手を取り、微笑んだ。
「そんな事をしても、赤也は貴方の気持ちには気付きませんよ…?」
柳の言葉に、アリスは生来大きな瞳を更に大きく見開き驚く。
「…気付いていたの?」
「ええ」
柳は初めから気付いていた。
アリスの瞳が自分ではなく、赤也に向いていた事を。
そして彼女が少しでも赤也の視界に入ろうと柳と共に行動していた事を。
「怖い人ね、蓮二は。ナニーなんかより、ずっとずっと私の心が読めるみたい」
幼い頃から乳母として側にいる者を引き合いに出して拗ねる様子を見せるアリスに柳は苦笑いする。
「私を取り合っている時の目ですよ」
「目?」
「赤也は真っ直ぐに私を見ていましたが…貴方の視線はずっと赤也にあった」
本当に怖いわ、と言うアリスに恨みの念などなく、清々しいほどの笑顔を見せている。
「どうしてかしら…私、赤也と喧嘩している時が一番楽しいの。飾り物じゃない自分だからかしら?
皆が望む淑女でなくてもいいって考えると、すごく気持ちが楽なの」
「赤也の不思議な力ですね…彼は対峙する者の心を丸裸にしてしまう」
「あら、蓮二もそうなの?」
「さあ、どうでしょう?」
とぼけた様子で明確な答えを回避する柳の肩を勢いよく叩き、アリスはくるりと背中を向けた。
「お嬢様?」
「私ね、ここを出た後イギリスにいるお兄様の元に行くの。留学よ」
「留学?どうして……」
このままいれば、黙っていても好いた相手の妻となれるというのに、何故。
矛盾しているが柳はアリスの決断が納得出来なかった。
「だってあいつ……蓮二を好きだって言うんですもの。顔のどこが好きとか、性格のここが好きって言われれば張り合えるけど…
貴方の存在そのものが好きなんて言われちゃ太刀打ちできないわ。完全な失恋よ」
そう言って俯くアリスの横顔には憂いが含まれている。
柳は何も声をかけられなかった。
だがアリスは思った以上にタフな心の持ち主らしく、すぐに笑顔に変えてしまった。
「私、待つのは嫌いなの。いつか赤也の目が私に向く日を待つなんて出来ないわ。常に攻めの姿勢でいたいの!」
それは赤也とよく似ている。赤也も常にその姿勢だ。
「一足先に本国で社交界デビューして、あんなちんちくりんじゃなく、もっと素敵なジェントルマンと結婚するの!その為の留学よ!
そして、いつかあいつを見返してやるの!こんないい女を振ったんだって、後悔させてやるわ!!」
アリスは拳を握り締め、はしたなく天に向けて突き出す仕草を見せる。
その気合の入りように柳は思わず笑ってしまった。
「でもきっと赤也は後悔なんてしないんでしょうね…」
刹那、悲しげに伏せられる顔。
しかし次に顔を上げた時にアリスの顔に涙はなかった。
「ねえ、蓮二は?蓮二は赤也を好き?」
「さあ…どうでしょう?」
「ずるい!ちゃんと答えなさいよ!」
柳はいくら駄々をこねても口を割ろうとしない。
アリスが不機嫌に頬を膨らませていると、遠くからお茶の用意が出来たとメイドが声をかける。
二人はテラスに場所を移動して、ローズガーデンを眺めながらのティータイムとなった。
しばらくは二人で黙ったままだったが、何かを思い出したようにアリスが口を開く。
「蓮二はどうしてこの屋敷に来たの?」
「はい?」
「だって望めば何でも手に入るはずよ?公爵様の落し胤じゃない?」
「どうしてそれを…!」
無表情を崩し、驚いた顔を見せる柳に、質問をしたアリスの方が逆に驚いた顔を見せる。
それに彼女が何故そのような質問をしたのかを気付き、柳は頭を抱えた。
「お嬢様…はめましたね……」
「じゃあ本当だったの?!蓮二は本当に東部宰相柳卿の息子?」
参った、と一度天を仰ぎ苦笑いしたまま頷く。
それを見てアリスは興奮したように言う。
「へぇー…本当にそうなんだぁ…ミセス・ケイの目も侮れないわね!
蓮二のあの洗練された所作は絶対にどこかのお坊ちゃまよって言ってたの!」
「そうですか」
「あら?でも…それならどうして?柳家といえば幸村家真田家に次ぐ御三家よ?
そんな貴方がどうして家柄も随分低いここにやってきたの?」
アリスの言う通り、柳と切原の家では領地で換算しても倍程の落差がある。
三代昔の婚姻で王家と親類関係になり、今は宰相として国の中枢にいる人物を父に持つ本物のエリート。
そんな人が何故、とアリスは首を傾げた。
「急に色々な事をしたくなったんです…家を離れて。もっと沢山の事を学びたくて…
どうしようかと思っていたらマスターが拾ってくれたんです」
「うちの…お祖父様が?」
「ええ。マスターと隠居したうちの祖父は古い付き合いらしくて、
私が家を継がないと言い張って頑固で意見を曲げないので暫く頭を冷やせと言って…」
「でもそれはここで使用人をする理由にはならないわ。だったら本宅で客人として迎えられるじゃない?
どうして私のシャペロンなんて引き受けたの?」
「引き受けたのではなく、無理を言って私がお願いしたんです。ここに来られる理由なら、何でもよかった…」
唐突に柳は立ち上がり、テラスの一番ローズガーデンに近い場所に立ち不意に遠い目を見せる。
アリスはそれを不思議に思いながら言葉を待った。
そして誰に向けてでもなく、独り言のように呟く。
「光り輝くものを…取り戻しに」
「なあに?それは…ここにあるものなの?」
「……この庭に置き去りにした…大切な思い出です」
柳は綺麗に咲く白いバラを一輪摘み取ると、顔の前に持ってきてその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「蓮二は…この庭を知っているの?」
「もう10年も前の話です。私が初めてここを訪れたのは」
「10年って…もしかしてお母様の開いていたサロンに?」
柳の微笑みが肯定を示している事が解る。
アリスは必死になって記憶の糸を辿った。
だが、あの頃はとにかく人の出入りが激しく、同じぐらいの年の子供が多くて一人一人はよく覚えていないのだ。
それでもこれだけ目立つ容姿ならば気付いても良いはずなのに、と言うと柳の苦笑いが返される。
「ここに来る時はいつも違う姿でしたから」
「違うって?」
「姉の名代だったんです。だから嫌々ドレスを着せられて…本当は男だとバレるのが怖くてずっとテラスで大人しく座っていた」
丁度ここに、と再び腰を下ろしたのはローズガーデンから一番遠い、屋敷から出る為の窓を背にした席だった。
「母親は他のご夫人との話に夢中で放っておかれて、遠巻きに見ているだけで誰も話しかけてくれないし自分からも話しかけられない…
それでも構わないと思ってここで本を読んでいたら…いたんですよ、私に話しかけてきた奇特な馬鹿が」
テーブルに置かれた白いバラを眺めながら、柳は思い出を噛み締めるように目を細めた。
光射す庭で顔も名前も知らない子供達が笑いながら転げまわっている。
自分には関係のない世界で生きている子達なんだと思い、人との繋がりを絶つように振舞っていたというのに、
あいつは遠慮なく俺の中に踏み込んできた。
同世代の子とは話も合わないし泥だらけになって暴れたくもない。
だからここに来ると図書室にある本を貸してもらい、テラスの陽だまりに座って一人で本を読んでいた。
そんな異質な俺には誰も近付いてこようとはしない。
一人でも寂しくなんてない。本があればそれでいい。
そう言い聞かせながら遠くにはしゃぐ声を聞きながら文字を目で追った。
しかしそれほど厚くない本。あっという間に読み終えてしまった。
また借りに行くか、と立ち上がると、ふとバラの花々が目に留まった。
庭師が手塩にかけたローズガーデンはこの屋敷の自慢のもので先程ここの夫人が熱っぽく語っていた。
確かに綺麗だ。ベルベットのような質感に触りたくなって手を伸ばしたが花には少し手が届かない。
テラスを下りて庭に回り、頭上遙にある花をじっと眺める。
届かないし荊で手や服が傷付くのは嫌だなあと眺めるだけに留めていた。
「欲しいの?」
だが不意に後ろから声をかけられ驚く。
振り返ると先程まで庭で駆け回っていた男の子が立っていた。
先頭に立って一番楽しそうに遊んでいた子だ。
確かこの家の、と思い返事をするのも忘れてじっと見つめていると、いきなり花壇の中に入っていった。
「えっ?!ちょっと…!怒られるよ?」
「大丈夫だって!ねえ、どれが欲しい?」
「え…えっと…じゃあ、白いの」
「了解!」
特別欲しかったわけではない。
と、いうより欲しがってはいけないのだと思っていた。
だがきらきらと光る真っ直ぐな瞳を向けられ、つい答えてしまった。
「んー…硬ぇー!ハサミ持ってくりゃよかった」
「ねえ危ないよ?棘が刺さって怪我する!」
「大丈夫ーっ」
太い幹から枝分かれした先に咲く大輪の花を摘み取ろうと必死になっている背中に向かって言うが、
相手は聞き入れる様子もなくぐいぐいと奥へと進んでく。
バキ、バキと枝の折れる音が何度かして、再び戻ってきた。
それを呆然と見ていると、相手は枝に残る棘を指で一つ一つ取り満面の笑みと共に渡してきた。
「はい!」
「…あ…ありがと…」
その手は傷だらけで血が滲み、白の服は枝の汁が移って腕の部分が緑色に染まってしまっている。
癖の強い髪には葉が絡み、あまりの姿に思わず声を上げて笑ってしまった。
「へ?何?」
「す…すっごい格好になってる」
バラを持つ手と反対側の手で髪に絡まる葉を摘み取る。
笑いが止まらないまま全てを取り終わると、何か珍しい物を見るような瞳が向けられている事に気付いた。
「何?」
「初めて笑う顔見たなーと思って」
「…そうか?」
「うん!あんな変な顔じゃなくってそっちのがいい!」
変な顔と言われ、むっと不機嫌になると慌てたように言い訳を始める。
「あ、変っていうか、あのっ…いっつも人形みたいにそこに座ってばっかで全然楽しそうじゃなかったからっ」
「そう…か」
「うん、だから…」
「まあ!!何なさってるんですか坊ちゃん!!!」
何かを語り始めた言葉を遮るように、屋敷の中からハウスキーパーの声が降ってきた。
あまりの姿にすぐに飛んできて説教が始まる。
「あれほどここのバラを折らないようにと奥様に言われていたのに貴方はまた!!」
「馬鹿ねーまた怒られてる!」
「うるっせー!アリス!あっちいってろよ!!」
「坊ちゃま!さあ着替えに戻りますよ!」
庭で遊んでいた子供達からも嘲笑が漏れるが反省の意はなく、不貞腐れたままずるずると手を引かれ屋敷の中へと連れて行かれる。
だが屋内に入る寸前、振り返ると先程と同じ笑顔を向けながら言ってくれた。
「あ!!アンタ笑ってた方がいいよ!その方が絶対いい!」
そんな言葉をかけられたのは初めてだった。
誰もそんな事は言ってくれなかった。
親は自分を自慢の材料にするだけで褒めてなんてくれなかった。
出来て当たり前。出来なければ落ちこぼれのレッテルを貼られてしまう。
笑っていても、泣いていても誰も何も言ってくれなかった。
だからいつしか忘れていた。
感情を表に出し、笑う事、怒る事、泣く事、そして楽しむ事を。
それを取り戻させてくれたのは、一輪のバラと満面の笑みだった。
「それって…」
「だから言ったでしょう?初恋は特別なものだと」
テーブルに置いたバラを掲げ、珍しく茶目っ気を見せる柳に感嘆の声を上げ、アリスは右手を口にあてた。
まさかあの子が、信じられないと言葉を失う。
その様子を見ながら、おもむろに柳は胸ポケットから何かを取り出した。
それはバラの花弁をあしらった栞。
黒い紙に真っ白な花弁が映える。
柳はあの日赤也に手渡された花を、こうして大切にずっと持っていたのだ。
「でもあの日を最後に、翌週からは姉が母のお供をしていたんです。だからそれ以来ここへは来れなかったけど…忘れた日はありませんでした」
「すごいわ…あの日が今日に続いていたなんて……何だか私まで興奮してきましたわ!だってあの子ね、ずっと蓮二を待っていたのよ」
「え?」
「この白のバラにね、リボンをかけてこのテーブルに置いていたの。丁度…こんな感じよ」
アリスは柳からバラを受け取ると、髪を結っていた赤いリボンを解き、茎に結わえ付けた。
「何をしてるのって聞いても教えてくれなくて…結局寄宿舎に入る年になってここへは来なくなったんだけど、それまではずっとこうして…」
そしてテーブルに置かれたティーセットのシュガーポットの取っ手部分に挿し込んだ。
それを見ると柳は至極優しい表情を浮かべ、目を伏せる。
「忙しい毎日を過ごして、いつしかあの日の赤也の言葉を忘れていたんです…だからもう一度……もう一度ここで赤也に会いたかった」
中途半端なまま互いの記憶に残った幼い思いは心を燻り、今日まで引きずってきてしまった。
だがその出口には、やはりあの日と同じ笑顔があった。
「ねえ蓮二?これからどうするの?」
「お嬢様はどうされるんですか?本当に赤也とは結婚なされないおつもりですか?」
「もう!質問に質問で返さないで!……でも、そうね…しないわ。だって私、こんな運命的な恋って大好きなんですもの」
本当に物語の中のような恋ね、とはしゃぐアリスに、柳は冗談めかした口調で返す。
「そうですか…私はお嬢様になら赤也を取られても悔しくなかったのですが」
「まあ!奇遇ね!私もよ。私も蓮二になら赤也を取られてもちっとも悔しくないの。だから二人の応援をしたいわ」
互いに言葉に笑い合う。
そして一呼吸を置いて柳は静かに口を開いた。
「折角光り輝くものを取り戻したんです…もう家には戻りません。暫くはここにいます」
この10年の間に様々な事を経験して、沢山の事を見てきただろう。
しかし赤也の瞳はあの日と寸分違わない澄んだものだった。
柳はそれが嬉しかったのだ。
この子はずっとこのままでいてほしい。その為になら命をかけるのも厭わない、そう思っていた。
だが現実はそれほどに甘い物ではない事も解っていた。
「でも貴方ほどの優秀な人を、そんなに簡単に手放すかしら?」
アリスの言う通り、恐らくはこんな我侭が通るのも今のうちだという事は柳も解っている。
「そうだわ!逆に赤也を使用人にするのはどうかしら?」
「私は自分より優秀な使用人以外必要ありません」
「まあ、蓮二は口が悪いのね。でも正直でいいと思うわ」
ここに赤也がいれば間違いなく真っ赤な顔で憤慨しそうな会話を平然とかわす。
そしてアリスは額に指をあて、考える仕草を見せた。
「そうね、ここでフットマンをした後バトラーになるかもしれないもの。そうすれば蓮二は結婚もせず、ずっと一緒にいられるわ」
「それもいいですね」
そんな夢物語が叶う保障などない事は二人にも解っていた。
だがそれを願う事は罪ではない。そう思い、無邪気に言うアリスに柳は微笑み返した。
「私の願いなんて、ほんの些細なものなんです。赤也との将来の事など解らない。ただ―――…」
「あー!柳さん!やっと見つけたーっ」
「赤也…」
静かだったテラスに賑やかな声がすると同時に現れた赤也は、
アリスと二人きりでお茶をしているのが気に入らないのだと不機嫌を隠さない。
膨れる赤也にアリスは見せ付けるように柳の腕に自らの腕を絡ませた。
「同じ思いを共有する者同士の内緒話をしてたのよ、ねっ蓮二?」
「な…なんだよそれっ!!」
教えろと、そして離れろとアリスに噛み付く赤也をツンとした態度で無視すると、柳に向き直る。
「ねえ、さっきの続きを教えて?」
アリスが何を言わんとしているかをすぐに理解し、柳はそっと耳打ちした。
その間赤也が刺す様な視線を絶えず送っていたが、全く解さずアリスは満面の笑みを浮かべた。
「ロマンティックね!素敵!そういうの大好きよ!」
「なっ…!大好きって何?!俺にも教えて!!」
「俺とお嬢様の間だけの秘密だ」
指を唇にあて、内緒だと体言する柳に、ついに赤也は本格的に機嫌を損ねてしまい、そのまま屋敷の中へと戻ってしまった。
「ねえ蓮二…本当にあんなので、いいの?一生を捧げる相手よ?」
「ええ。私には充分すぎるほどの宝物ですよ、赤也は」
一寸の衒いも無く言いきる柳に、アリスは一つの提案をした。
「そう、なら…今この時から、貴方を解雇するわ」
「え?」
「赤也が戻るまでの二日間、使用人としてではなく、柳蓮二として側に居てあげてちょうだい」
突然の解雇通告に柳は目を丸くして驚く。
だがその裏にあるアリスの優しさに気付き、深々と礼をした。
「ありがとうございます、お嬢様」
「もうお嬢様じゃないでしょう?」
「そうでした…アリス」
「貴方とは素敵なお友達になれそうね、蓮二」
「では友人として一言いいか?」
「何かしら?」
柳はそっとアリスの手を取ると、その甲に小さなキスを落とした。
「素敵なレディになって…幸せになるんだよ、アリス」
「ありがとう、蓮二も赤也と幸せにね」
どこか赤也に似た部分も持ち合わせたアリスは、人としてとても好きだった。
ただ、アリスも蓮二も互いに思いが近すぎて、それが男女として合う事はなかった。
しかしそれでよかったのだ。それがかけがえのない同胞となり、仲間となりえる要素となったのだから。
「赤也、起きろ。朝だ。そしていい加減機嫌を直せ」
「うームカつく!!何で教えてくんねーんだよ!!」
まだ昨日仲間外れにしている事を根に持っているのかと、その子供のような様子に最早笑いしかこみ上げてこない。
「また一人で思い出し笑いしてるし……」
「ほら、飲め。刺々しい気持ちが一掃するぞ?」
「そうやって誤魔化すな!!」
文句を言いながらも、サイドテーブルに置かれたティーカップに口をつけ、飲み干す頃には機嫌が上向く事を柳は知っている。
それは今日も違わず着替えをする時にはすっかりと朝食に気を取られている。
「やっぱアンタの淹れるお茶が一番!明日もよろしくね」
「ああ」
その言葉に昨日アリスにそっと耳打ちした言葉を思い出した。
―――先の事なんて解らない…ただ、明日目覚めのブラックティーを運ぶ役目が俺であればいいと、そう思うんです。
そのささやかな願いだけを叶えてくれれば、それ以上は望まない。
きっとそんな毎日が、未来になっていくのだから。
〜終〜