湯殿

柳がそれらしい理由をつけてくれたおかげで過酷さとは裏腹に短時間で練習が終わるようになって一週間が経った。
密度の濃い練習に体は疲労困憊ではあったが、病院から足が遠のく事はない。
仁王は今日も一人幸村の入院先へと向かった。
病棟の階段を上り真正面にあるナースステーションでは何故かジャンケン大会が行われている。
レクリエーションか何かだろうかと思っていたが、聞こえてくる会話からそうではないと察した。
言葉の端々を読むに、どうやら幸村の風呂介助を誰がやるかを決めているらしい。
相変わらずモテる事だと呆れたが、待てよ、と思わず足を止めた。
風呂の介助という事は、つまり幸村の裸をあのギラギラとした目の女達に晒す事になるのだ。
急に嫉妬渦巻き、心が冷えていく。
彼女達はあくまで仕事であって仁王が思う程邪な事は考えていないのだろうが、不愉快である事には変わらない。
どうにかして回避出来ないかとぐるぐる考え込んでいると、背後から声を掛けられた。
「どうしたの?仁王君」
「おお、ビビった……いや、あれ」
振り返った先にいたのたよく幸村の世話をしてくれている見知ったナースで、病室をよく訪れる仁王とも顔見知りだった。
彼女にジャンケン大会の事を話すと顔を歪めた。
またくだらない事を、と。
若いナースの多い病棟で眼福だと冗談めかして幸村は喜んでいたが、こうした下らない覇権争いのような事を嫌っている事を彼女はよく知っていた。
だが今は力仕事に長けた男性看護師は別の仕事で不在で頼む事が出来ない。
さてどうしようかと逡巡した先で仁王と目が合った。
「あ」
「何じゃ?」
唐突に指差され、嫌な予感がする。
胡乱げに睨むとにっこりと笑顔を返されてしまった。
「よろしく」
「は?」
「風呂介助って言っても難しい事しないくていいの。要は転倒しないように見張ってるだけだから」
「俺にやれってか」
患者の家族にしてもらったりもする事で、特に看護師の仕事というわけではないのだと言って、浴室を借りる為の使用中と書かれた札を押し付けられる。
「はい、ドアのフックにこれ吊り下げて。鍵もかけられるけど中にナースコールあるから何か困ったら押してね、すぐ行くから。じゃ、よろしく」
そう言って彼女がナースステーションに消えて十数秒後、盛大な不満声が上がった。
これで野獣共の目に幸村が晒される心配はなくなったが、何だか面倒な展開となってしまったなと髪を掻いた。
だがこれもいい機会かと気持ちを切り替え幸村の病室へ向かう。
中に入ると風呂の準備をしていたのか、部屋に備え付けのロッカーと向き合っているところだった。
「あ、いらっしゃい。でもごめん、今か―――……ら?」
「これじゃろ」
「……そうだけど……何で?」
部屋に入って早々入浴予約の札を見せられ、幸村は首を傾げた。
「そこでシズカちゃんに頼まれたんよ。風呂場で転ばんように見張っててって。何、俺の介助じゃ不満か?」
若く可愛いナースでなく、と少し拗ねた様子を見せればにっこりと笑顔を返された。
「いや、お前でよかったよ。仕方ない事だけど、あんまり気分よくないしね……赤の他人に風呂覗かれるのって」
「俺やとええんか?」
「良くはないけど悪い気はしないよ?」
「良くはないんか」
幸村は何か悪戯を仕掛けられそうじゃないかと笑ってはいるが、お前にそんな命知らずな真似は出来ないと心の中で愚痴る。
流石の仁王も他の部員にしているような事は出来ないし、それを解っている風な態度もまた気に食わない。
先刻は拗ねた振りをしただけであったが今度は本格的に口を尖らせた。
そんな仁王に構う事なく、小さなバッグに風呂の準備を詰め込んだ幸村は早く付いてくるよう言って病室を出た。

病棟の浴室は幸村の病室のすぐ前の廊下の端にあり、貸し切り風呂でありながらかなりの広さだった。
家の風呂のようなものを想像していた仁王は小さな銭湯程の大きさがありそうな浴槽を見て驚いた。
「結構綺麗だろう?広いし明るいし」
「ああ。うちのクラブハウスにある風呂もこれぐらい広さあったらええんやけどの」
「確かに」
運動部のクラブハウスの立ち並ぶ一角にある大浴場は練習後に入れるようにはなっているが、とても全員が入れるレベルの大きさではなく結局使わずにシャワーだけで済ませる事がほとんどだった。
日頃からそれを不満に思っている部員も多く、幸村も笑って同意した。
仁王は制服のズボンの裾を捲り上げ、靴下を脱ぐと先に浴室に入り、桶を手にすると湯船に溜まったお湯を冷たいタイルの上に撒く。
冷えた浴室の空気が少し和らぎ、これで冷たい思いはしなくて済むだろうかと思っていると全裸となった幸村が浴室にやってきた。
タオルで隠す事も無く堂々とやってくる姿に、邪な気分など微塵も湧き出でて来ない。
何と潔く男らしい事かと思わず呆れたように溜息をついてしまった。
「何?」
「いや……別に」
シャワーを手に取ると勢いよくお湯を出し、椅子を洗うと座るように促す。
すると急におかしそうに幸村が笑い声を上げた。
「何じゃ突然」
「至れり尽くせりだな」
「俺はいつでも優しいぜよ」
「まったくだよ」
支えなく椅子に座れない幸村の腕を掴み、ゆっくりと座らせる事も、先を見越すように行動している様も。
その全てが意外にも仁王がこのような介助をした事があると示している。
聞いたところで上手くはぐらかされるだけだろうと幸村は何も言わなかった。
「温度はどうじゃ?」
「丁度いいよ。ありがとう」
柔らかい水量のシャワーを浴びてどこか嬉しそうな幸村とは対照的に、仁王の心は深く沈み込んだ。
真田程も筋骨隆々というわけではなかったが、それでも薄く筋肉を纏った美しい細身の体は今や見る影も無い。
がりがりに痩せ細り、鎖骨や背骨が完全に浮き出てしまっている。
先程は堂々とした様に邪な気持ちが消えたように思っていたが、それ以上に衝撃的だったのだ。
骨の太さをそのままに皮と僅かな肉の細さとなってしまった大腿に、当たれば刺さりそうな程に浮いた腰骨が痛々しかった。
ぼんやりとそんな事を考え込んでいる間に幸村は体を洗っていて、すでに辺りは泡だらけとなっている。
手先も覚束ない様子ではあるが、必死に力を込めてスポンジで擦っている。
だが思うように力が入らないようで、何度も床に落としてしまっていた。
「あーもう!これ!」
「何じゃ」
突然眼前に泡だらけのスポンジを突き出され面食らう。
「持ちにくい!次風呂に入る時はタオルにするよ」
「ああ、そうしんしゃい」
タオルならば塊のスポンジよりは手に巻きつけるなどして扱いやすいだろう。
幸村の事だ、何かこだわりを持ってこれを使おうとしていたのだろうが、それ以上に不便へのいら立ちが上回ってしまったようだった。
「したら今日だけは俺が洗ってやろうか」
「……ん、頼む」
少し不貞腐れたように見えるのは、自分で出来る事は自分でやりたいと思っていたのにそれが叶わなかったからだろう。
仁王は触らぬ神に何とやらだと、黙って幸村の体を洗い始めた。
目に見えてがりがりに痩せ細っている幸村の体は実際触れても痛々しい。
スポンジ越しに伝わる骨の浮き沈みに顔を歪める。
幸村の背後にいた為見られないはずの仁王のそんな表情は幸村の目の前にある鏡越しに見られてしまっていた。
しまった、とすぐに表情を繕う。
しかし幸村はゆっくりと唇に笑みを乗せ、泡にまみれた仁王の手を指で突いた。
「つまんないなあー絶対何か仕掛けてくると思ったのに」
「襲って欲しかったんか。そんな事したらお前さん熱湯掛けてきそうやからの」
「うん、だからつまらないんじゃないか」
笑顔でとんでもない事を言われている気がするが、今目の前にいるのが誰でもない幸村であると再確認できた。
それに痩せた体も見慣れ、少し心も落ち着いて幸村を見る事が出来るようになってきた。
綺麗に体を洗い終えるとシャワーで泡を綺麗に流し、シャンプーに手を伸ばす。
だが幸村にやんわりと制された。
「自分でやるよ」
「指先に力入ってないんじゃろ。無理しなさんな」
「しばらく風呂に入ってなかったからあんまり触られたくないんだけど」
先刻の堂々とした姿から一変して随分と殊勝な事を言うと思わず目をむいて呆けてしまった。
その態度が不服とじっとりと睨まれる。
「気にしなさんな。汗臭さじゃ練習帰りの俺もそう変わらんけ」
「ふーん……シャワーも浴びずに来たって事?」
「のんびりしてたら面会時間過ぎるからの」
「それぐらいの時間はあるだろ?早く俺に会いたかったって正直に言えばいいのに」
得意げな顔で言う幸村を黙らせる為にシャワーを顔面に浴びせると抗議の声が上がった。
何をするのだと言ってはいるが半分笑い声が混じっている。
子供のような戯れに本気で怒るはずもないのだが、幸村が腕を伸ばし何をしようとしているかに気付き焦った。
シャワーを取り上げ反撃しようとする幸村の手首を掴み、引きはがす。
「おいおい、流石にそれは勘弁してくれ」
「なら一緒に入るか?」
濡れた指先が制服のボタンにかかり、じんわりとシャツに湯が染み込む。
本気で外すつもりはしていないのか挑発的な視線で見つめにやりと唇を歪めてみせる。
仁王はやれやれと肩を竦めもう一度シャワーを手にすると幸村の頭目がけてお湯を出した。
「はいはいまた今度な」
「また今度っていつだよ?」
子供のような切り替えしに苦笑いし、シャワーを止めるとシャンプーを掌に広げ泡立てる。
指先でマッサージするように頭を洗っているとご機嫌な表情が見える。
最初は泡立ちの悪かった髪も次第に指通りが良くなり、もこもこと盛り上がった泡をソフトクリームのように形を作って遊んでから綺麗に洗い流した。
さっぱりと綺麗に洗ったところで濡れた床で滑らないようしっかりと手を取り湯船まで連れて行く。
「ちゃんと肩まで浸かりんしゃいよー」
「あーやっぱり大きいお風呂はいいね」
久々の入浴にすっかりと機嫌の良くなった幸村は湯船の縁に身を預け、間延びした声を上げた。
「退院したら温泉にでも行くか」
「湯治ってやつ?」
「ああ」
「いいね。あ、蓮二も誘っていい?」
さも当たり前のように言われ思わず頷いてしまった。
柳が来るとなれば、もれなくその相方とも言うべく人物もついてくるはずだ。
だがそれも悪くないかもしれないと、仁王は次に来る時には温泉ガイドを持ってくると約束をした。


誰得かさっぱり解らないお風呂介助のお話です。
指先に力が入らないので体を洗ったり、髪の毛洗ったりが難しいのでね…
お風呂がとても苦痛なのですよ。
でも入院中はなかなかお風呂に入れないので湯船に浸かった瞬間
「うえぇはぁ〜」ってリラックス出来て幸せなのです。
そんな時間を共有させたかったってお話でした。

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