La Familia〜Reminiscence

>急速に芽生えた思いに戸惑った。
そして育て方を間違えた恋心が、いずれ暴走する事をこの時はまだ知らなかった。
ただ心に秘める事で精一杯になっていた。




二月に入り、いよいよ受験目前となっていた。
最後の追い込みに、皆一丸となって赤也の勉強を後押ししていた。
特に弦一郎など、お受験目前の幼稚園児を持つ母親のような熱血ぶりで、ある意味滑稽に見える。
弦一郎の気持ちも解らなくない。
しかし赤也の方が若干引き気味なのだ。
いや、熱心なのは大変に結構だが、あまりやる気に水を差すような真似は止めて欲しいものだ。
今は大人しく勉強をしているが。
書いている紙を覗けば、しっかりと問題を解いている。
ここ数ヶ月で見違えるまでに学力が上がっている。
こうして赤也の受験勉強を見るのは二度目だ。
この横顔を数ヶ月見てきて、最近よく思い出す事がある。
たった三ヶ月だったが、一緒に過ごした高校生活の事を。

一年後を見越して、周囲の反対を押し切り、当時の自分のレベルより低い高校を選んだ。
どうしても赤也と同じ高校に通いたかった。
先に一緒の高校に行きたいと言い出したのは赤也だったが、同じ思いだった。
本当は赤也でも安全圏のレベルの学校を選ぼうとしたが親が納得しなかった為、国公立を目指す特進科と普通科のある高校を選んだ。
普通科とはいえ、それなりに学力が必要だった。
それでも赤也は譲らず、必死に勉強をして入学した。
しかし自分の所為でその努力を水泡に帰してしまったのだ。
心にあった、薄汚い思いの所為で。

ここは文武両道を謳う学校であった為、運動部活動も盛んだった。
沢山ある強豪クラブの中で、赤也は迷わずテニス部を選んだ。
入部届を出しに職員室へとやってきた赤也とばったり会い、揃って廊下を歩く。
一年生と二年生では教室の階が違うので、なかなか合う機会はない。
「テニス部か…ここはインハイ常連だからな。レギュラーを取れるよう頑張れよ」
「あーあ…高校でも一緒にテニス部入れると思ったのにー…」
「特進クラスで運動部は無理だ。俺は生徒会にも入ってるしな」
拗ねるような仕草を見せるが、こればかりは仕方ない。
同じ高校に入れただけでも良しとしなければ。
「お前こそ大丈夫なのか?中学と違い高校は試験如何では同じ学年を二度しなければならないぞ」
「げっ!嫌な事言うなよー…」
「授業にはついていけてるのか?」
「あー……何とか。今のところは……ギリギリだけど」
赤也はげんなりと表情を崩し、更に肩を下ろす。
一年と二年の教室の丁度分かれ道となる階段の踊り場で立ち止まり赤也を見下ろす。
「まあ俺が卒業してもまだ一年生、という事にはならないようにな」
「…マジで性格悪ぃなアンタ」
「そんな俺を追いかけて入学してきたのだろう?」
今度はむっと膨れて恨めしそうに見上げてくる。
それに不敵な笑みを返せばますます不機嫌に口を尖らせた。
その姿に思わず吹き出しそうになると、後ろから声がする。
「切原次の移動だって、視聴覚室…っと先輩…」
赤也に声をかけたのは、生徒会の人間だった。
顔見知りだった為、慌てた様子で頭を下げられる。
「何、お前柳先輩と知り合い?」
「あー…」
名字が違えば誰が兄弟だと思うだろう。
順当な反応だ。
赤也は級友の質問に曖昧な返事をして、ちらりと視線を寄越してきた。
小さく首を横に振り、目で合図する。
「あー…まあ…ちょっとな」
上手い理由付けが出来なかったらしい。
二人が兄弟である事は担任以外は知らない事だった。
別段知られて困るような事ではないのだが、色々と家の事情を根掘り葉掘り聞かれるのは嫌なものだ。
何故名字が違うのか、何故赤也がうちで暮らしているのか、と。
まして赤也はその度に亡くなった両親の事を思い出すだろう事は必至。
漸く日常の中で思い出す事も少なくなってきて、安定した毎日を送っているのだから、それを掘り起こす事をしなくてもいいだろう。
そう思い、あえてこちらから何か情報を明け渡す事はしない事に決めた。
「同じ中学だったんだ」
「そう!部活の先輩後輩!」
「へぇー…あ、やべっ予鈴!」
頭上で鳴り響く始業五分前のチャイムに、赤也の級友が焦った様子を見せる。
それを見て、自分も教室に戻らねばと階段に足をかけた。
「ではな」
「ういっス!柳先輩」
学校でニイって変だよな、と言って自主的に赤也が始めた、この呼び方。
違和感を感じずにはいられないのだが、この状況では仕方ない。
僅かに生じた己の心のズレと隙間。
大きく決壊してしまわないようにしなければと必死に己を律した。

あの頃、一つ悩みの種があった。
毎日練習のある運動部は無理だが、活動が週一、二回ならば問題ないだろうと文芸部に入っていた。
尤も、のんびりと創作する時間などあるわけがない為、専ら批評と評論が中心だったが。
部員は限りなく100%に近い、自分以外は女子部員で構成されていた。
その為今の文学部での待遇と変わらず、顧問教師が目を掛けてくれていた。
だがそれは一年を過ぎる頃から徐々に形を変えていった。

その教師の注ぐ視線の異様さには気付いていた。
気付いていたが、受け流し続けていた。
別に腰を掴まれようと尻を撫でられようと、女ではないのだから大した問題ではない。
多少不快な思いはしていたが、上手く使えば相手の弱味を握り、こちらのいいように動かせるかもしれない。
そんな風に考えていたから、ある程度の事までは容認していたのだ。
だが赤也はそれを許さなかった。
一学期の期末試験も終わり、終業式までの束の間、各部活動が再開した。
文芸部もその例に漏れず、放課後の部室で計ったように二人きりにされた時の事。
それまではさり気なさを装い、軽く触れてくるのみだったのだが、今日は違った。
一年をかけて探りを入れ、ついに確信を持ったのだろう。
こちらに抵抗の意思がないという事に。
明らかに性的な意味合いを込めた手が髪や肩から背中へと流れて行く。
刹那、背筋が凍りつき、感じた事のないような悪寒が体中を走った。
流石にまずいと感じ、抵抗したが意外に強い力で壁に押しつけられる。
上背はこちらが勝るが、押さえつけられたまま腕が解けない。
どうする、どう対処する、上手く切り抜けなければと思っていた、その時。
部室の引き戸が軋んだ音を立てながら開いた。
その先にいるのは、
「あ……か、や」
一番見られたくない相手だった。
赤也は何が起きているのか理解できなかったのか、ドアの前で立ち尽くしている。
教師も同じく、暫くは固まっていた。
だが状況を理解して一瞬早く動き始めたのは赤也だった。
まだ腕を押さえつけていた教師の手を掴み、思い切り殴りかかった。
「―――っってっめぇ…ニイに触んじゃねえ!!!!」
あれほど抵抗しても動かなかった教師の体はあっさりと離れ、床に叩き付けられる。
押さえつけられていた体から力が抜け、その場にずるずると座り込む。
耳元でする自らの鼓動に囚われ、目の前の状況が上手く把握できなかった。
深呼吸をして気持ちが落ち着いた頃にはすでに顔の形が変わった教師が床で伸びていた。
すでに意識はなくなっているのか、微動だにしない。
「あ…赤也!!赤也もういい!これ以上は―――…!」
震える足を何とか前へと出し、転がるように赤也に飛び付き、殴ろうと振りかざされた手を握る。
教師の汚い血で汚れた赤也の拳は震えていた。
怒りに目は真っ赤に染まり、見た事も無いほどに発憤した様子で牙を剥き出しにしている。
それなのに、反して赤也の瞳からは涙が零れていた。
「赤也……俺なら…大丈夫だから。落ち着いて」
「ふ…くっ…うっ……うっ」
友達同士の喧嘩で殴り合う事も度々あったが、これほどまでに強い力で誰かを殴る事など今までになかった。
血だけではなく、うっ血して真っ赤になり震える拳を左手で握り締め、赤也はその場に力なく座り込んだ。
俯き嗚咽を漏らし、その度赤也の流した涙が床に水玉模様を作る。
「ごめんニイ…ごめん」
「何…?お前が謝る事など……」
赤也が一体何に謝っているというのか、それを訊ねようと顔を覗くが髪で表情は見えない。
その時小さな呻き声を上げた教師が意識を取り戻し、部室から転がるように出て行った。
事が事だけに、問題になるかもしれない。
案の定、すぐに他の教師がやってきて赤也は槍玉に挙げられてしまった。
当事者の教師は当然セクハラの事など言うはずがない。
もちろん真実を告げたが誰も信じようとはしなかった。
模範的で生真面目な教師が、あまり成績も素行も良くない生徒に殴られた。
それも酷い怪我を負わせるほどに。
その事実だけが横行してしまい、結局赤也一人が悪い形となってしまった。
流石に警察沙汰にするのは学校側にしても不名誉だと踏んだからか、内々で処分される事となった。
すぐに退学が決まり、ますます冷たくなった家人。
そして今まで仲良くしてくれていた友人も暴力事件に恐れ戦き赤也から離れていってしまった。
厄介事の飛び火など御免だとばかりに。
優等生や所謂エリートとも言える生徒が、保身の為に赤也を斬り捨てたのだ。
完全に孤立してしまい、誰からも相手にされなくなってしまった赤也を、守れるのはもう自分一人なのだ。
しかしそうしてしまったのは紛れも無く自分自身の所為。
「ごめんねニイ…ごめん…ほんとにごめん」
赤也が謝る事など何もない。
むしろ庇いきれなかった事を謝らねばならない。
「赤也?一体何を謝っているんだ?」
そう、本当に謝らなければならないのはこちらなのだ。
退学となったその日、ロッカーに入ったままだった荷物などを引き上げ学校から戻った赤也は部屋に入るなり抱き付き涙を流した。
問題のあの日と同じように震えながら。
「俺……許せなかった…あいつ…あいつが…絶対許せな…」
「それが何故謝る事になる?それが事実なら…」
お前は己の正義の心に従い当然の事をしたまでではないか。
確かに行き過ぎる暴力ではあったが、しかし赤也は必死に守ろうとしてくれた。
責められるはずもない。
「アンタの事だから……何か考えがあったはずだ…でなきゃあんな風になるまで放っておくはずなかった…」
赤也の言葉に頭が真っ白になった。
知っていたのだ、赤也は。
この心奥底にあった、汚い思いには気付いていない。
だがそれを引き出す原因となった悪意を享受していた事は、知られていた。
「噂で聞いてて…あいつがアンタに色目使ってるって。けどそんな筈無いって思って……
でも…実際その現場見たら…もう頭ん中グッチャグチャになって…」
「赤也…赤也っ…」
お前は悪くない。
こんな汚い思いの所為で傷付かなくていいんだ。
しかしそれを音にはできなかった。
赤也の涙が心に伝染して、涙を堪えるので精一杯になっていた。
「俺は学校辞めて済むけど、アンタまだ二年近く残ってんのに…居辛くなる。家でも俺庇ってる所為で…っ…
けど…イヤだった……イヤだった!!!アンタが他の奴に触られんのなんか絶対許せねえ!俺以外の誰にも触らせたくねえ!!」
赤也は正義の心で拳を振るったのではない。
全ては私欲を満たす為。
この一見子供じみた独占欲の出所がどこにあるかに気付いてしまった。
気付いたが、形にする事はできない。
赤也と自分の間にある繋がりは、兄弟という用意された枠なのだから。
しかし、
「こんな事誰にも知られたくなかったはずだよな…なのに俺が…大ごとにして…俺の所為であんた晒しモンにしちまった…
…俺庇う為にほんとの事公表して…俺が勢いであんな事しなきゃ…アンタ恥ずかしい思いしなくて済んだのに…
でも止めらんなかった……もうアンタをあんな目に遭わせようとか考えないようにって思ったら…
頭真っ白んなって…気付いたら……徹底的にブッ潰してた」
何て純な思いなのだろう。
汚い考えであの卑劣な行為を容認してきた己と対極にある、この純潔な赤也の思いを誰にも渡したくない。
相応しくないのかもしれない。
こんなに汚い思いに支配されてしまったこの体など、赤也には相応しくないのだ。
だが、赤也のこの思いを手に入れられれば自分も変われるかもしれない。
否、変わりたい。
打算と計算に塗れた汚い考えなど捨てて、赤也の全てを手に入れたい。
そんな強烈な飢えと渇望が、無意識にその行動をとらせた。
「…ごめんね…ほんとごめん…っ」
涙を零し、何度も何度も謝る赤也が愛しくてたまらない。
「……ニイ?」
戸惑う赤也の声が耳を通り抜ける。
腰に抱き付いていた赤也を逆に抱き締め、ついに零れ落ちた涙を見られないように顔を肩に埋めた。
「…かや……赤也っ…」
「何で泣いてんの?……怒ってる?」
「ごめん…赤也…っ…すまなかった……俺が…っ……俺の所為で…っ」
何故、と赤也は疑問符の付いた言葉を繰り返す。
だが言えない。
本当の事など、言えるはずが無い。
この無垢な心に、知られたくない。
知られたくないのだ。
ただ謝る事以外に何もできない。
だが一つだけは断言した。
これだけは赤也に伝えなければと、震える声を搾り出した。
「お前の事は…何があっても守るから……」
どうかこれに懲りて離れていかないでくれ。
その言葉の最後はほとんど音にはならなかった。
だが赤也には届いたようで、慰めるようにゆっくりと頭から背中を撫でられる。
あの日教師に触られた時はあんなに嫌な思いをしたというのに、赤也に触れられたそこは心にも体にも火を灯す。
この思いの出所に気付いてしまった。

赤也を一人にしたくないなどと聞こえのいい風を装い、本当は自分が一人になりたくなかったのだ。

確かに捨てたはずの卑しい打算は、残念ながら再び顔を出してしまっていた。
むしろ以前より酷い形で。
誰か一人に固執するという事が、どれほど幸せで、どれほど残酷な思いを心に落とすかを、知らなかった。
あの日芽生えた赤也への秘めたる思いを表に出す事はなかった。
だが歪んだままに思いを育ててしまった。
少しずつ赤也の周りから自分以外の物が見えないように上手く赤也を操作した。
それが家族であっても許せないと、両親と赤也の不仲を言訳に、二人で家を出た。
他に目を向けないよう、赤也に気付かれないよう徐々に暗い闇へと落としていった。
赤也にとって大切なものが、自分以外にいなくなればいい。
そんな薄汚い独占欲に塗れた赤也は理性を失った猛獣となり、容赦なく牙を剥いた。
否、そう仕向けたのは間違いなく自分なのだ。
なのに無責任に斬り捨ててしまった。
赤也を捨てた、友人達と同じように。
いや、違う。それよりも酷い形で裏切ったのだ。
解っていたはずだ。
純な思いはそれだけで凶器となる。
それはあの事件で嫌というほどに思い知ったのだ。
それすら飼い慣らしてみせるという自意識過剰な考えが、赤也を狂気へと導いてしまった。
追い回され、追い詰められ、傷付き、傷付けられていた日々。
何故こんな事に、と思いながら、本当は心の奥底で解っていたのだ。
今自分に向けられている狂気は、間違いなくこの身から出た錆なのだと。
そしてそれは、紛れも無く自分の望んでいた物だった。
ただ、決して望んでいた形ではなかったが。


「やーなーぎさん」
「……ん?」
「終わったっスよー」
「あ…そうか」
「何、ボーっとして。目、開けて寝てたの?」
「…いや…考え事を……」
いつか精市にも同じような事を言われたのを思い出した。
ぼんやりと回想をしている間に赤也は言われただけの課題をこなしていたらしい。
大きな瞳で顔を覗き込む赤也の頭を撫で、机に体を向け直す。
「最近…随分と頑張っているな」
答案用紙に目を落とし、採点をしながら問えば、得意げな声が返ってきた。
「そりゃー皆の期待背負ってるわけだし。しくじるわけにはいかないっしょ?」
赤也を見れば自信満々に笑みを浮かべてはいるが、一つ気になっている事がある。
「赤也」
「何っスか?」
「……お前は…もう一度高校に入り直す事に………抵抗はないのか?」
今更何を、と言われそうだ。
だが半ば強制的に決めてしまい、ここまで突っ走ってきた。
もしあの事件が赤也の心に影を落としたままだとすれば、とても酷い事をさせている事になる。
「確かに最初は何で俺がって思ったし…前に高校入ったのもアンタがいたからってとこもあったから、
正直アンタのいない学校行ってもって思ってた」
やはりそうだったか。
学校という場所に執着のない赤也を無理に放り込む。
その事が今更ながらに心に引っ掛かっていたのだ。
「けど今はちょっと楽しみっス」
「…楽しみ?」
「そう!アンタとか柳生さんとかが大学行って楽しそうなの見て、もう一回学生やってもいいかなーって思った。
勉強はイヤだし、また試験とかって考えるとユーウツだけどさ、楽しい事もありそうだし」
「そうか」
始まりがどうであれ、望んでいてくれてよかった。
胸を撫で下ろし、満点の答案用紙を赤也に返す。
「…あと半月、頑張ろうな」
「ういっス!!!」
丸で占められた答案に満足気な笑みを浮かべ、赤也は元気よく返事した。

二人して誤った道を歩んできてしまったが、それも今は間違いではなかったと思える。
あの頃、赤也以上に暗い闇に落ちていたのは自分だったのだ。
だが赤也以外に自分を純に思ってくれた精市や弦一郎と出会い、少しずつ暗闇の出口を見つける事ができた。
その後他の者とも親しくなり、完全に闇から抜け出す事が叶った。
今はただ、赤也が誰かを思いやり、大切に思える人と出会えた事が嬉しい。
そして沢山の大切な思いの中で、赤也にとっての一番が自分である幸せ。
先行きに不安がないわけではない。
それでも今は、その真実だけが心に光を灯してくれている。


 

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