La Familia〜Reeducation

もう少し先の未来を見据えた話をしよう

秋も深まる十月初旬。
試合に出かけた赤也が顔や腕に大きな傷を負って帰ってきた。
珍しく全員が出払い、滅多に無い静かな家の中でゆっくりと課題をしていた。
いつもなら元気いっぱいに家中に響くただいま、という声がしない。
不思議に思いながら階下に下りると、玄関には左頬を赤く染め、唇の端を切った赤也が立っていた。
「…どうしたんだその顔……また弦一郎にやられたか?」
そうは言ったが、明らかにいつもの鉄拳制裁の跡ではないものも混ざっている。
顔を覗き込もうとしたが、背けられてしまう。
そして不機嫌な顔を隠さず、赤也は質問に答えないまま風呂場へと掛けていった。
何があったのか、と赤也に付き添って行った弦一郎に視線を移す。
こちらはいつもの仏頂面よりも、何か呆れたような困ったような表情を浮かべている。
何があったのか、言葉にせずとも解ってしまった。
「また、か」
「また、だ」
それだけを言い、リビングに移動した弦一郎はかぶっていた黒い帽子を取り、
ダイニングテーブルの椅子に座って大きく溜息を吐いた。
赤也の血の気の多さと短気は今に始まった事ではない。
その為の失敗も沢山あった。
今日も試合相手と喧嘩でもしたのだろう。
尤も、一番大きな傷はそれを止めに入った弦一郎が作ったものらしいのだが。
「あいつにはほとほと手を焼かされる」
「まるで父親だな弦一郎」
キッチンとダイニングを仕切るカウンターの上にあるポットから急須に湯を注ぎ、お茶を淹れ弦一郎に渡す。
眉間に盛大な皺を寄せ、茶を一口飲んでもう一度溜息を吐いた。
「保護者という意味では否定できんな」
「ここしばらくは落ち着いていたと思ったが…まだまだあいつも子供だな」
笑い事ではないが、思わず唇が緩んでしまう。
呆れを含んだ笑いに弦一郎も大仰に肩をすくめた。
「スクールでの喧嘩は減っていたが…知らない相手だと噛み付いていく悪癖はどうにもならんな」
「そうか…俺が話すからお前はこの件から手を引いてくれ。今はあいつも意固地になっているだろうから」
「解った。赤也に関してはお前の方が適役だろう」
廊下の端から物音が聞こえる。
風呂から上がって部屋に戻ったのだろう、階段に足音が吸い込まれていった。
テレビボードに備わった収納に仕舞ってある救急箱を手に部屋に行く。
「赤也。入るぞ」
ノックをするが返事はない。
拗ねているのか、と扉を開ける。
だが姿が見えない。
正面にある大きな窓からベランダに出ると、その隅でしゃがみ込んでいた。
誰かと喧嘩をしたり、叱られたりして落ち込んだ時必ずここで一人膝を抱えているのだ。
「赤也」
少し距離を置いて声をかけると一瞬顔を上げて目を合わせてくれる。
だが泣きっ面を見られたくないからか、すぐにまた伏せてしまった。
赤也の前に腰を下ろし、救急箱から消毒薬を出した。
顔を隠している腕を手に取り、脱脂綿で消毒する。
されるがままの赤也に小さく笑みが漏れる。
幼い頃、喧嘩して帰ってきた時と変わらないその様子に。
「試合、どうだった?」
たっぷりと間をおいて、小さな声がする。
「………勝ったよ。優勝」
「ほう、凄いな。7連勝か?」
「違う。8連勝」
「そうか。今日はお祝いだな」
腕の消毒が終わり、ガーゼで傷を保護する。
次は痣だらけの顔だな、と肩を叩いて顔を上げさせる。
不機嫌な顔を隠せなくなり、バツの悪そうな表情を浮かべ、されるがままにする。
「聞かないんスか?何やったんだーとか…あ、真田さんに聞いたんっスか?」
「いや、何も聞いてない。話す気になったか?」
「ただ勝つだけじゃ面白くないと思って13分台で勝ったら……
決勝の相手が…俺に文句つけてきて…だからついカッとなって……」
「相変わらずだな」
顎に手を置き頬に出来た大きな痣を消毒していく。
つい出てしまった呆れた声に不安げに揺れる瞳とぶつかり、ふっと表情が緩む。
体ばかりが大きくなって、まだまだ子供だな、と。
「俺……悪いって解ってんだけど…自分が抑えられなくて…」
「そうだな。しかし悪いと解るようになっただけ大人になったか」
「……ごめんなさい」
「まずは迷惑をかけた弦一郎に謝れ。喧嘩の相手は…まあ失言の所為でもあったらしいしお相子でいいだろう。できるな?」
「…はい」
「よし」
消毒液を救急箱に戻し、立ち上がろうとしたが腕を掴まれ阻まれた。
「…どうした?まだ痛むのか?」
再び俯くので心配になり、顔を覗き込んだ瞬間口付けられた。
「心の消毒っ」
「……殊勝な顔をするから心配してやったのに」
「へへっ」
全く反省の色の無い笑いを漏らし、今度は首に腕を絡めて本格的に迫ってくる。
まだ座ったままの赤也に引き寄せられ、膝をつく。
前のめりに倒れ込み、赤也の腰の横に手を着くと再び口付けられる。
絡められる舌から鉄の味がした。
「……血の味がする」
半年前の出来事を思い出し、少し心が疼いた。

赤也は今も時々凶暴な一面を見せる。
身近な存在へ向けられる事は無くなった。
だが、今日のように知らない相手や親しくない者に対しては容赦なく牙を向ける。
いつか大きな事故に繋がらないか心配で仕方ない。
あの時は一人悩んでいたが今は一人ではない。

夕食前、走りに出されて赤也が不在なのを見計らい話を切り出した。
「…なるほどな」
以前の赤也の片鱗をよく知る精市が深く頷いた。
それを知らないブン太たちも、赤也の短気はよく知っている為納得している。
「あいつの精神年齢は三年前で止まったままだ。中学の時もよく同じ様な問題を起こしていたからな」
「そういや赤也って高校行ってないんだよな?」
夕食当番のブン太はカウンター越しにキッチンに立っている。
珍しく仁王が手を貸しているが、半分は邪魔をしているようにも見える。
その証拠に時々ブン太の怒る声が混じっていた。
「いや、行っていた。夏休みまでの…最初の三ヶ月だけだがな」
「…登校拒否?」
精市が平坦な調子で聞く。
九割は否定される事を期待した声だった。
「いや、退学だ」
「何やらかしたんだ?」
言うべきか迷ったが、ここは正直に言った方が良いだろう。
「部活の顧問をしていた男性教諭を殴った所為だ」
「理由は?あいつは見境無い暴れ者だが理由もなく人を殴るような奴ではない」
弦一郎は赤也の事をよく理解してくれている。
何か原因があってこその結果だと思ったのだろう、理由を問うてきた。
言い辛い内容だったが言わないわけにはいかない。
少し間を置き、口を開いた。
「セクハラ…だ」
一瞬の静寂。
しかし次の瞬間オモチャ箱をひっくり返したような問答が始まった。
「何、赤也がセクハラにあったのか?!」
「はぁ?!男じゃろ?相手っ」
「まさか。誰か女生徒を庇ったとかでしょう?あれで彼も正義感が強いですから…」
「だよな、ありえねーよあいつが狙われるとか」
仁王の素っ頓狂な声とブン太の焦った声に柳生とジャッカルの冷静な声が重なる。
だがどれも的外れだ。
「いや…」
「何、やっぱり赤也が被害者なのか?」
「違う」
ブン太の問いにハッキリと否定をした。
その様子のおかしさに、敏い精市は気付いたようだ。
的を得た答えが出てしまった。
「もしかして…蓮二?」
「ああ……俺だ」
「なるほど…それでキレちまったわけだ」
納得がいったらしいブン太は、驚いて固まったままだった手を再び動かし始めた。
「でもそれなら相手にも非があるのでは?退学はいくらなんでもやりすぎでしょう」
「しかし両頬と鼻と顎の骨を砕く怪我をさせたんだ。相殺するにもこちらに分が悪すぎる」
真っ赤になった瞳をぎらつかせ、赤也はその男目がけて飛び掛っていった。
止めようにも一瞬の出来事すぎた。
気付けば顔の形が変わった教師が床で伸びていた。
我に返り、慌てて赤也の手を握り止めに入ると血で染まった拳を震わせ泣いている。
怒りに任せ、鬼の形相を浮かべていたというのに。
その後、事を露呈する事を嫌った学校側は、一方的に赤也を悪者にし学校から追放した。
真実を伝えようとかけあったが取りあってもらえなかった。
「あの時は俺の為でもあったからな…それに関してはあまりあいつを責めないでやってくれ」
「それが負い目になって更に甘やかしたな、蓮二」
「…ああ」
責めるような精市の瞳が痛い。
自分の所為で赤也の道を大きく誤らせてしまった一番最初の事件だ。
それまでは小さないさかいをよく起こしてはいたものの、誰かの為に事を起こしたのはそれが初めてだった。
学校での居場所を失い、暴力沙汰で退学になった事で両親はますます赤也に冷たくなった。
それが不憫で家を出る決心をしたのだ。
「あいつはどうにも集団の中での自分の位置を見失いがちなのだ」
弦一郎の意見は尤もだ。
昔から同級生の中でも友達は多い方で、年上からは可愛がられ、年下からは慕われていた。
だが同じぐらいに敵も多い。
人との距離感を上手く取れない赤也は、辺り構わず噛み付いていく。
それが原因のトラブルがあまりに多すぎる。
「今のあいつに必要なのはテニスプレイヤーとしての技術以上に社会性と適応性だ。
動物のように本能のまま動いていては今に限界がくるぞ」
「ああ、解っている」
メンタル面が大きく左右するテニスには、人としての器も必要だろう。
ましてプロを目指しているのだ。
今のままでいいはずがない。
だが、どうすればいいか解らない。
思い悩み、押し黙っていた。
数十秒の沈黙の後、イモの皮をむいていたブン太が何かを思い付いたのか、あっと大声を上げた。
「なぁ、さっき三年前で時間が止まってるつったよな?」
「…ああ、そうだ」
「なら進めてやりゃいーじゃん」
「……どういう意味だ、丸井」
大きく眉を顰め、弦一郎が言葉の先を促す。
皆一様に続きを待った。
「だから。高校行かしゃいーじゃん。ホラ、学校って一番お手軽な集団生活だろぃ」
何か突飛な事を言い出すと思っていたが、まさかそうくるとは思わなかった。
だがいい提案かもしれない。
柳生もそう思ったのか手を叩いて賛同した。
「なるほど。いい案ですね。学校は家庭の次に大きなコミュニティ。人間性を養うには丁度いい」
「けどキッツイ練習もあるのにどうやって通うんじゃ」
「定時制なら練習後に行けば時間的に問題もないでしょう。
それに来年から入るにしても、4年間で丁度同い年の人たちが大学を卒業するのと同じ年数ですしね」
「そうだな定時制なら色々な事情の人も通っているだろうし…社会勉強にもなるだろう」
意外にも弦一郎はこの話に乗り気のようだ。
精市もジャッカルも大きく頷いている。
「だが…あれに受験勉強をさせるとなると……骨だぞ」
一つ大きな問題が思い当たり、肩を落とす。
赤也は大の勉強嫌いなのだ。
「中学の時の成績は?」
「毎回赤点ギリギリだ」
「赤点じゃないのなら上等だ」
精市の判断基準が解らない。
しかし満場一致で方向性が決まった。
あとは本人をやる気にさせるだけだ。

早速柳生と協力し合い、高校の資料を集めた。
全てお膳立てをした後ならば赤也も断り難いだろうという計算も含めて、先に決めてしまった。
受験校も、受験勉強も。
案の定、赤也は盛大に嫌がった。
リビングには仕事に行ったブン太とジャッカル以外の全員揃っていたが、口を挟まないよう頼んでいた。
弦一郎は何か言いたげにしていたが約束を守り、しかめっ面のまま腕を組んでダイニングの椅子に座っている。
「えぇーっっっ!!!何で今更学校なんか行かなきゃなんないっスか!」
「今のお前に必要な力をつけるためだ」
「何で?意味解んねーよ!!」
ソファに沈み込み、手足をバタつかせて駄々をこねる。
「練習だけでもいっぱいいっぱいなのに学校なんて行ってらんないっスよ」
「お前はもう少し集団生活の中で自分を見つめなおした方がいい」
「……こないだの事っスか?」
「それもあるが…お前の将来の為にもなる」
「俺がプロになれなかったらって心配っスか?!」
心外だ、と声を荒げて立ち上がる。
ここで感情的に言い合えば間違いなくヘソを曲げてしまう。
一拍間を置き静かに言う。
「そうじゃない。その後の話だ」
「…え?」
「俺はお前がプロになるという夢は現実になると思っている。だがどんなに気をつけていても選手としての終わりは必ずやってくる。
その後はどうするんだ?選手として過ごす時間より、その先の時間の方がずっと長いんだぞ?」
赤也は大きく目を見開き、何か思い当たったように口を噤んだ。
「数学や英語を学んで欲しくて高校へ行けと言っているわけではない。
それなら通信制でも大検でも受けて自主的に勉強すればいいのだから。
それよりもっと大事なものを学んでほしいと思っている。俺も…他の皆もだ」
「けど…俺頭悪ぃし……」
「お前の集中力の凄さはよくわかっている。それを利用すれば受験勉強など、どうという事はない。
受験まであと四ヶ月もあるんだからな。もちろん練習は怠るなよ。それでテニスの腕が落ちたとなれば本末転倒だ」
「……けど…」
「赤也」
「え…?」
「これは強制じゃない。だが、お前を思っての意見だと思えば…答えは決まっているな?」
静かに言い放つと、赤也は室内に視線を移した。
動向を見守っていた精市たちの厳しくも温かい視線に気付き、ついに首を縦に振った。
「………解った…俺…やるっス」
「そうか」
赤也はやると決めれば必ずやり遂げるだけの力を持っている。
饒舌で大口を叩く事も多いが、それを現実にするだけの実力があるのだ。
「お見事です柳君」
黙って見守ってくれていた柳生が、よく冷えたりんごを切って持ってきてくれた。
赤也も睨み合いに疲れたのかそれに手を伸ばし、しゃりしゃりと齧り始めた。
「頑張りましょうね、切原君」
「いい家庭教師がこれだけいるんだ。落ちるはずないよ、赤也」
精市の言葉に、赤也の動きが止まった。
「…ってあんた達に教わるんスか?!」
「当然だ。塾に行く暇などあるわけがなかろう」
「も…もしかして真田さんも…」
「先に言っておくが、俺は蓮二のように優しい教え方はせんぞ」
「言ってくれなくても解ってますよ!!!」
やはり間違いだったか、と赤也は頭を抱えた。
しかしもう後には引けない。

赤也の受験校はスクールのすぐ近くで、家からもバスで通える距離だった。
無理なく通えるように四年制を選択し、試合や遠征などで授業を抜けても大丈夫なように一部単位制の学校にした。
倍率は低く、試験も5人に4人は通るような程度のものなのだが、如何せん勉強嫌いの赤也だ。
そのレベルにまで持っていくのは大変だろう。
実際大変だった。
「やあっっと柳さんの番がきたぁああ!!!」
「ど…どうした赤也」
久々に時間が出来て家庭教師をする番が回ってきた時、赤也は半泣き状態で抱きついてきた。
聞けばここ一週間は散々だったらしい。
弦一郎が教えると時間の半分は説教に消えた。
ブン太は教えながら遊んでしまい雑談で時間が過ぎた。
柳生はあまりの出来の悪さにイライラしてしまい教える体勢が整わない。
ジャッカルだと赤也の甘えが出てしまい授業にならない。
仁王は教えるのが苦手らしく、赤也が理解するには至らない内容だ。
精市は何を言ったのか赤也が怯えて本気で教わる事を嫌がっている。
「俺っ!やるって決めたからには絶対受かりたいんっス。皆忙しいのに俺の為に一生懸命やってくれてるわけだし…
けどハッキリ言ってこの状態で四ヶ月も勉強するのは無理です!!」
「………なるほど…少しやり方を変えてみるか」
サボり癖からくる文句ではない。
赤也の心の底から、魂の叫びだ。
それは追々考えるとして、とりあえず今日は今まで通りのやり方で教える事にする。
受験教科は国・数・英で、国語の成績は元々良い方だったので漢字の読み書きと長文に対する対策を少し。
あとは数学と英語を重点的に教えている。
今日は英語か、と柳生の用意してくれたテキストと参考書を開く。
少しの解説の後、問題を出してそれを解かせる。
弦一郎のスパルタが利いているのか、少し単語力は上がったようだ。
最近は練習中も容赦ないらしい。
ラリー中、不意打ちで英単語テストのように次々質問を投げかけられ、答えられなかったりショットを失敗すると制裁が下る。
赤也も元来の負けず嫌いが顔を出し、必死で食らいついていくらしい。
真剣な瞳で英文を読む横顔に見入る。
こうして勉強を教えてやるのは初めてではない。
だが目の前にあるのは中学生の頃とは違う、少し大人になった横顔。
相変わらずの短気とふわふわの癖っ毛。
「ねぇ柳さん、ここの単語…あ、違う、ごめん。自分で調べる…柳生さんに怒られたんだった。解らない単語を調べるのも勉強です、って」
一人問答する赤也にも気付かず、ぼんやりと眺めてしまった。
反応のない事に赤也が不思議そうに顔を覗き込んできた。
「…柳さん?」
「あ、いや……すまん」
「何見てたの?」
はっと我に返り、目の前の赤也の顔に驚く。
何を、と言われて答えられなかった。
口篭っていると赤也を勘違いさせてしまった。
「あ、もしかして間違えてる?!」
「……いや…合ってるよ」
「っしゃ!!よーし次の問題っと…」
折角赤也が集中しているというのに、こちらが漫ろでどうするのだ。
しかし、つい口が開いてしまった。
「赤也は…来年どうなってるんだろうな……」
「どう…って……もちろん高校行ってますよ」
「いや、そうじゃなくて…」
何が言いたいのだ、と赤也の頭の上に疑問符が浮かんでいる。
赤也の為を思えば、この狭い世界でなくもっと広い世界を見た方がいい。
だがそうなれば沢山のものに囲まれ、自分の存在が薄れていってしまうかもしれない。
「…不安だ」
そういった漠然とした不安に駆られたのだ。
自分で言い出した事だというのに何と勝手な思いだろう。
それは思わず唇から零れてしまった。
が、また勘違いをさせてしまった。
「え?俺頑張るから!!ちゃんと受かってみせるし!!」
「いや、そうじゃなくて…」
「じゃ、何が?」
「……何でもない」
声がだんだんと震えてくる。
情けない、しっかりしなければ。
だが赤也の顔をまっすぐに見られなかった
「何でもないって顔じゃないよ!」
「赤也…痛い」
痕の残る手首を強く握られ思わず身を引いてしまった。
赤也も気付いたようで、すぐに離してくれる。
「あ…ごめん」
「…大丈夫だ。もう痛くないから」
心配そうに手首を撫でる赤也に笑いかけたが、笑顔を作りそこなってしまう。
「俺…何かした?柳さんが不安なのは嫌だ。何でも話してよ」
「……赤也は何も悪くない。ただ…俺の心の問題だ」
「だから、それを言ってってば!俺じゃ頼りない?」
「そうじゃない。心配しなくてもいい。今は自分の事だけを考えろ」
「ニイ!!」
思わず出てしまったのだろう。
懐かしい呼び方に、一瞬思考が凍りついた。
そして何を下らない事を悩んでいたのだろうと笑いがこみ上げる。
「久しぶりだな。そう呼ぶのは」
「くっそー……もう呼ばねぇって決めてたのに」
がしがしと頭を掻き、落ち込むように項垂れた。
初めて赤也が家に来た日を思い出した。
急に出来た兄を、何と呼べばいいだろうと悩んでいたあの日を。
「赤也は何も変わらないな」
「俺だって成長してますよ」
「いや、そうじゃなくて…」
拗ねたように唇を尖らせぷいっと顔を背ける。
言葉とは裏腹の子供じみた仕草だ。
どこが成長したというのか。
「これからどんな風に変わっていくんだろうな」
「俺?もちろん今よりむちゃくちゃカッコよくなってますます惚れさせてやりますよ」
「それは楽しみだ」
随分と脱線してしまった。
テキストをもう一度開き、そちらに集中する。
しかし素っ気無い返事に不満気な赤也がそれを取り上げてしまう。
「信じてねぇな」
「信じてるよ。それを一番近くで見ていたい」
「それってずっと一緒って事?」
「そうだ」
「へへっ何かプロポーズみたいだ」
思わぬ解釈に双眸開いて驚いた。
だがそう違いない。
「あ、けど柳さんはあんまり綺麗になんないでね」
「は?」
綺麗など誰も思っていないし、綺麗になりようもない。
第一男に対して使う言葉ではない。
「これ以上綺麗んなって変な男に付け回されたりとか考えたら心配で心配で」
「…何故男に付け回されなきゃならないんだ。馬鹿馬鹿しい」
180もゆうに越える男を誰が好き好んで付け回すのだ。
悪い冗談だ、と思ったが赤也の表情は真剣だった。
「もうちょっと自覚して下さい!」
「訳が解らん…」
「ちょっ…ほんとに頼みますよっ」
「解ったから早く問題を解け」
まだ納得がいかないと頬を膨らませているが、言われた通り渋々問題集に向かった。

もう少し先の未来を見据えた話をしよう。
どんな未来を迎えるか、今は解らない。
ただ一つ言えるのは、ずっと側にいられればそれでいいという事だけ。
それだけだ。

 

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