La Familia〜Reduction
赤也の受験日が、いよいよ二日後に迫った。
と、いうのに何という体たらくだろう。
ぼんやりとする思考の向こうに誰かが来たのを感じる。
「おーい柳ぃーおかゆ作ってきたけど食えるか?」
真っ赤な頭が目に入り、それがブン太だと解った。
「いい……食欲がない」
「んな事言ってたら治るもんも治らねえぜー無理にでも食え」
促されるままベッドに座ると頭の中身がくらりと揺れる。
また熱が上がったようだと溜息が漏れた。
絶対に赤也に移してはならないとしっかりと予防と対策をしていたのだが、課題と家事の両立で疲れていたところに、
世間では風邪が大流行していて体が追いつかなくなってしまい、ついに伏せてしまった。
大学はすでに長い春休みに入っていて出席や単位の心配はない。
幸いインフルエンザではなかったのだが、熱が下がらず朝計った時点で38℃を越えていた。
体はダルく、頭も喉も痛い。
久々に寝込むような風邪を引いてしまった。
少なくとも家を出てからは風邪一つ引かなかった。
この家に来て、皆に囲まれているうちに気が緩んでしまったのだろうか。
昨日の夜から甲斐甲斐しく世話を焼いてくれているブン太の顔を見る。
年の離れた弟がいると聞いていたが、この家で一番面倒見がいいのは、実はこの男なのではと思う。
「何だよ?」
「いや…ありがとう」
お前こそが母ちゃんと呼ばれるに相応しいという一言を飲み込み、差し出された小さな土鍋の蓋を開ける。
それまで全くなかった食欲が、優しい香りと色合いの卵粥に呼び起こされた。
熱いのでゆっくりではあるが、匙を進める姿に安心したようにブン太が笑う。
「美味いか?」
「ああ…お前は本当に料理の才能があるな」
「だろ?いっぱい食ってしっかり栄養つけて早く良くなれよ」
薬と水を置いて部屋を出ようとするところを呼び止める。
「そうだ…すまないが今日から赤也をお前の部屋に泊めてやってくれないか?」
「別に構わねーけど…」
「…今風邪を移してしまったら大変だからな」
「あーそっか。そうだな。わーった」
了承してくれたブン太は、赤也のベッドから布団一式を下ろすと自分の部屋に持ち帰ってくれた。
今は赤也の事で皆忙しいというのに、余計な世話をかけてどうするのだ。
兎に角一刻でも早く治さなければ。
そう思い、用意された粥を半分と薬を腹に収め、眠りにつく。
薄らいでいく意識の中で、懐かしい夢を見た。
軟弱に見えるようだが日頃から徹底した体調管理をしていた為、滅多として風邪を引かなかった。
それは赤也も同じで、昔から二人とも健康優良児だったのだ。
そんな折、出先で珍しく風邪をもらって帰ってしまい、更にそれが赤也に移って二人して寝込んだ。
仕事で忙しかった母に代わり看病をしてくれた姉にはこんな事までお揃いにしなくても、と笑われしまった。
赤也の方が体の造りが丈夫だったからか先に治っていた。
しかし布団を隣に並べ、だらだらとする赤也に祖母や母はだらしない、といい顔をしなかった。
尤も、まだ体がすっきり治りきっていないのだろう。
顔色は優れなかった。
だがそれも精神的な問題だったようで、こちらが完治してしまえば何事もなかったのように二人仲良く床上げとなった。
「だって…具合悪そうなニイ見てたら心配でこっちまでしんどくなってきたんだもん」
なんて可愛い事を言ってくれる赤也が浮かんでは消え浮かんでは消え、ふと冷たくなった額に急激に意識が戻る。
額に乗せられた冷たいタオルに重みがかかっている。
今乗せてくれたのだろうか。
誰だ、と目を開くと赤也の心配そうな顔が目の前にあった。
「……か…や…?」
「苦しくない?水、飲む?」
確かに眠っていて喉はカラカラに渇いている。
声を出そうにもこれではどうにもならないと差し出されるコップを受け取り、上半身を起こして一口飲んだ。
「どうして…部屋に入るなと伝えてあっただろう」
「あーごめんって。すぐ出てくから」
コップを取り上げると赤也は寝かしつけるようにベッドに横たわらせてくると、そっと手を握ってきた。
「…今日の…」
「復習はちゃんとやったって。スクールにもジムにも行ってきた。っていうか俺の心配はいいからさ、早く治しなよ」
「…お前こそ…自分の心配をしていろ!こう近くにいられては…かえって迷惑だ」
普段は熱いと感じる赤也の手が温く感じる。
相当熱が上がっている証拠だろう。
心配そうに見てくる赤也を早く部屋を出ろと追い出した。
少し冷たい言い方となってしまったが、赤也の為なのだ。
今ここで風邪を移してしまってはここ半年の努力が無駄になってしまう。
赤也は本当に頑張っていた。
特にここひと月の学力の伸びは目を見張るものがある。
だからこそ、自分の所為で再び躓くような事があってはならないのだ。
本当は心細いから一番側にいてほしいなど、言えるはずもない。
そんな軟弱な思考を振り払うように布団を被りなおし、もう一度眠りについた。
寒い、暗い中を一人彷徨い歩いている。
ここはどこなのか、解らない。
自分がいる空間が妙に広く感じられるのだ。
生温い風が吹いて空気が気色悪い。なのに、何故か体は氷のように冷たい。
誰か、誰か助けてくれ。
そう思い暗闇の中に手を伸ばすと、不意に握り返す感覚がある。
よく知っている感触だ。
「だ…れ…?」
返事はない。
また生温い風か体を纏い、同時に体が冷えていく。
「寒い……あかや…寒い…」
一人にされるのが怖い、そう感じて目の前にある何かをぎゅっと握り締める。
するとその先にあるものが握り返してきて、それが手だと気付いた。
「蓮二?」
「たすけ……て、赤…也……」
違う、これは赤也の手じゃない。
ならば、誰だ。
「蓮二!?しっかり!…うわっ……すごい熱…」
薄っすらと目を開けると、目の前にはよく知った顔があった。
「せ…い、いち?」
「また上がったかな?ちょっと熱測ってみて」
「ん……寒い…」
勢いよく布団をはがれ、冷気に身が縮こまる。
冬だからという寒さではない、これは。
熱からくる悪寒だ。
夜中になってまた熱が上がったのかもしれない。
精市に渡される電子体温計を脇に挟んで寒さに耐える。
目の前が霞んでよく見えないが、精市の心配そうな表情だけはクリアに頭に入ってくる。
計測が終わったという電子音は耳に届かず、精市が勝手に服の中に手を突っ込んできた。
そして表示を見て瞠目する。
「げっ…エラー?!この体温計じゃ測れないって事?!使えないなぁもうっ!
ちょっと待ってて、昔使ってた水銀のやつないか探してくる」
バタバタと足音高く精市が出て行き、静かになった部屋の遠くの方に時計の針の音が聞こえる。
実際は枕元に置いてある目覚まし時計なのだが、やけに遠くに感じるのだ。
そちらに目をやると、すでに日付も変わり午前1時を示している。
2時間ほど眠っていたのか、と思いながら布団を被りなおすが寒気が一向に引かない。
ベッドの上に置いてあるカーディガンに手を伸ばすが、それすらも寒さとなって体に突き刺さる。
それに耐えながら寝間着の上に羽織り、再び布団に入って暖を取る。
「蓮二、大丈夫か?」
次にやってきたのは弦一郎だ。
精市に言われたのか、その手には毛布が数枚ある。
うわ言のように寒いと繰り返していると、布団の上からかけてくれた。
しかし、それでもまだ一向に体が温まらない。
「げん…いちろ……すまん…明日も…仕事だろう…?」
「何を言っている!俺の心配などせんでもいい!」
今日も全員この家に揃っていたはずだ。
夜中に大騒ぎをして、明日の事を考えれば申し訳ない気がする。
「柳君、お加減いかがですか?」
そうこうしているうちに、柳生や仁王も起きたのか部屋にやってきた。
「すまん…起こしてしまったか…?」
「いえ、我々は課題をやっていてまだ起きていましたからお気になさらず」
「…そう…か」
「おい、湯たんぽ持ってきてやったぜ」
そこへジャッカルもやってきて、凡そ彼に似つかわしくないそのアイテムを足元に入れてくれた。
何故かジャッカルと湯たんぽという組み合わせが妙におかしくて、笑いがこみ上げてくる。
「ど、どないしたんじゃ参謀」
「い…いきなり笑い始めましたね……もしや熱で頭が……?」
確かに柳生の言う通り、いつもの冷静な思考などとうに消えてしまっているかもしれない。
笑いが止まらず、体の震えも相まって妙なテンションになってきた。
「……何やってんだ?柳…」
「さ…さあ…突然笑い始めて…」
布団から顔を出して声のする方向を見るとブン太が怪訝そうに覗き込んでいた。
「おーい柳ーしっかりしろよ。体温計持ってきてやったぜ」
駄目だ。何をやっても、何が出てきてもおかしくて笑いが止まらない。
相当に熱が脳細胞を蝕んでいるらしい。
自分を客観的に見れるだけの冷静さはあるのに制御が利かない。
差し出される体温計をじっと見るだけで何も出来ないでいると、誰かがそれを取り上げてしまった。
「おわっ…びっくりした。何だ幸ちゃんかよ」
「蓮二、尻に突っ込まれたくなかったら早く脇に挟む」
にっこりと笑う精市の顔が夜叉か何かの類に見えるのは錯覚ではないはずだ。
そこにいた全員が一斉に精市から一定距離を置いた。
再び問答無用に布団を剥ぎ、強引に服の中に体温計を突っ込んできた。
「真田、時間計って。5分」
「あ…ああ」
ベッドを囲むように全員が立っていて、じっと見られて居心地が悪い。
そういえば赤也はもう寝たのだろうか。
きょろきょろと辺りを見渡すが赤也の姿はない。
「赤也ならブン太の部屋で大人しくしてるから」
「……ああ」
病に対する恐怖を誰よりもよく知る精市は落ち着きのない様子に気付いてくれ、安心させるように頭を撫でてくる。
「幸村、時間だ」
「ん、出して」
無駄に笑った事で余計な体力を使ってしまったのか、もう指一本を動かす元気もない。
ぐったりとしているとまた精市は勝手に服の中に手を突っ込んできた。
そして体温計を見て、酷く驚いたように大きく目を見開く。
無言で柳生に渡すと、それを覗き込んだ柳生や仁王たちまでも同じ表情のまま固まった。
「蓮二、まだ寒い?」
精市の問いに、頷くしかできない。
足元は湯たんぽのお陰かあまり冷たくはないが、背中が凍るように冷たい。
「まだ熱が上がるかもしれませんね…病院へ行きましょう」
「そうだな。タクシーを呼んでこよう」
柳生と弦一郎の声がだんだんと遠ざかっていく。
目の前が真っ白になり、周りから音が消えていく。
寒くてたまらないはずなのに汗が吹き出してくる。
「蓮二立てる?………蓮二?」
広い空間の端から精市の声が響いてくる。
だが息が苦しく声にならない。
「ちょ…蓮二?!」
薄く開いた視界に精市の心配そうな顔が一瞬映り、すぐに真っ白な世界に放り込まれた。
次に気付いた時、何もない広い空間で眠っていた。
確か部屋で寝ていたはずなのに、何故。
それに周囲には誰もいなくなっている。
目の前に広がるのは妙に明るい印象のある灰色の世界。
起き上がろうと床に手をつくと、触る感覚が掌に伝わる。
熱でうなされながら見ている夢ではないようだ。
そういえばふわふわとしていた頭もしっかりと意識を保っている。
もう熱は下がったのだろうかと左手を額に当てるとひんやりと冷たかった。
ゆっくりと起き上がり辺りを見渡しながら歩いていると、小さな川にたどり着いた。
水は淀んでいるようにも見えるが、空の暗さが映っているだけで川底まで見えるほどに透き通っている。
対岸は霧で霞んで見えないが、こちら側はずっと草原のような空間が広がっている。
風もないというのに音もなくさわさわと動く草は、まるで意思をもって生きているようにも見えた。
向こうに渡る橋はないものかと川沿いを歩いていくが、何も見当たらない。
そしてどちらが上流で下流なのかもわからない。
川下に向かっていたはずが、いつのまにか川上に向かって歩いている。
見る度に流れの変わる水面を見ているうちに、その川が何を示すものなのかに気付いた。
まずい。
このままここに居てはいけない。
そしてこの先へは進んではならない。
急いで来た道を引き返した。
だが進めども進めども草原が途切れ、あの何もない空間に辿り着く事はない。
それどころか、川に背を向けて歩いていたはずなのにいつの間にか再び川に戻ってきている。
逃げるようにもう一度その場から走り去るが、やはり何度行っても同じ場所に帰ってしまう。
嫌だ、まだそちらには行きたくない。
そう思って必死になって走る。
何度も振り返りながら川から離れていっているはずなのに、まるで自分を取り囲むよう川が流れているかのように、
狭い範囲で何度も何度も川べりにつれて来られてしまう。
こんな八方塞の状況は覚えがある。
まるであの頃によく見ていた夢に似ている。
赤也に追われ、逃げ、そして精市に助けられた頃の。
だが今は違う。この先にある光を知っているのだ。
「赤也!」
そう叫ぶと足元に生える草が一斉にざわめき出し、足に絡むように伸びてくる。
「精市っ…どこだ?!弦一郎!!」
それを振り払うように足を進め、心に浮かぶ名を次々と叫ぶ。
「ブン太っ!ジャッカル!!いないのか?!柳生!仁王!!!」
そこから先へは行かせないと、足に絡みつく蔦のような草を引きちぎる。
そしてもう一度叫ぼうと口を開くが、今度は声が出なくなっている。
灰色の空に向かい、何度も何度も試みるが、掠れた空気ばかりが口から漏れるだけで音にならない。
嫌だ、戻りたい。
皆の居る場所へ。赤也の元へ。
「赤也!!赤也!!!」
空気が振動していて確かに音になっているはずなのに、自分の耳に届かない。
聞こえなくなってしまったのかと焦ったが、そうではないようだ。
自分の声より、鮮明に聞こえる優しい音が鼓膜を揺する。
この音は何だ。
それが聞こえ始めた途端、足を拘束していた草が一斉に動きを止め、元のように静かに佇んでいる。
その不思議な音色に誘われるように、一歩、また一歩と足を進めた。
次第に川が離れていく。
先程までは再び川べりに戻される頃合だが、今回は違った。
聞こえてくる音を頼りに歩く程に川が遠ざかっている。
帰れるかもしれない。
気が急いてしまい、足をもつれさせながらも必死でその音を辿った。
次第に重そうな空が晴れ上がるように白み始める。
するとそこから赤い一筋の光が降り注いでくる。
何か強い力を感じ、頭を庇うように顔の前で腕を交差させると左手首に嵌めたままのバングルに反射した。
赤の光に照らされ、青い石がキラキラと光っている。
それと共に、耳に届く音が鮮明になってきた。
この音の正体を知っている。
夏より後、いつも聞いていた音だ。
心安らぐ場所にある、皆の声。
そして、誰より愛しい人の声。
「赤也…!!」
雲が晴れ太陽が射すような強い光が目を焼き、瞼を開けていられなくなった。
だが目を閉じたままでも手探りに辺りの様子を伺う。
すると何かが手に触れた。
この間の夢とは違う手だ。
だがこの手の主は良く知っている。
これを頼れば必ず戻れる。
そう確信して、白い闇の先にある手を握ると、そっと握り返された。
その手を頼りに前に進むと浮上する流れに乗れた。
ふわりと浮く体を強く引き寄せられると、ようやく瞼が開いた。
「……柳さん!!」
そこはもう川辺ではなかった。
四角い白い天井には銀のカーテンレールが見える。
顔のすぐ横にあったのは、赤也の顔だった。
「……赤也?」
「あー…よかったぁー……気分、どう?もう苦しくない?」
「ああ……」
声が掠れて上手く出ていないが、もう頭も体も痛くない。
体のだるさも消え、気分も晴れて渡っている。
「ここ…病院?」
「そうだよ!むちゃくちゃ心配したんだからなー!もー…」
意識が途切れてから先の事は覚えていなかったが、どうやら救急車でここに運ばれたらしい。
大袈裟なと言うと、ベッドの側に置いた椅子に座る赤也の後ろに立っていた精市が珍しく怒りを露に言ってきた。
「あのねえ、40℃以上の熱出してるのにそのまま放っておけっていうの?」
「…すまん…」
「とにかく無事でよかったよ。肺炎起こしかけててほんとに危なかったんだからな」
皆に意識戻ったと連絡してくる、と精市は病室を出て行ってしまった。
先刻の精市の言葉が比喩的でない事は自分が一番よく解っている。
あの夢とも現実ともつかない空間は、恐らくそういう事なのだろう。
そしてそんな場所から強く引き寄せてくれたのは、他でもないこの手と皆の声だった。
点滴の繋がった左手を握る赤也の手をじっと見つめ、大変な事に気付いた。
「―――っっ赤也お前試験は?!」
「へ?何言ってんっスか?もう終わりましたよ。っつーか今日。試験帰りに寄ったんだよ?ここに」
「何?」
「アンタ二日も眠ったまんまだったの」
そんなに長い時間眠っていたのか。半信半疑であったが、赤也が腕にはめていたデジタル時計を見せてくれる。
そこに示された日付は確かに試験当日だ。
赤也を激励する事ができなかったと、思いが表情に出てしまっていたのか、赤也が苦笑いを漏らす。
「んな顔しないでよ。俺だって辛かったんっスから。ほんとはずっと側にいたかったのに」
辛い時に側に居られなかったのはお互い様という事か。
「幸村さんがずっとアンタに付いててくれたんっス」
「精市が?」
「そう。お前は今やるべき事をやれって言われて」
「そうか…それで?出来はどうだった?」
「もーバッチリ!絶対合格間違いなしっス!!」
「そうか、よかった…」
自信満々の態度に強がっている様子はない。
結果が解る一週間後までは安心しきれないが、それでも一つ山を越えようやく肩の荷が下りた思いだ。
「蓮二、皆すぐ来るってー」
ほっとして笑いあっていると、携帯電話をポケットにしまいながら精市が病室に入ってくる。
「……精市」
「ん?何?」
赤也の隣に立ち、見下ろしてくる精市を真っ直ぐ見つめる。
「すまなかった…迷惑かけたな」
「蓮二、かけられたのは迷惑じゃなくて心配。俺だけじゃないよ。赤也も、真田も、ブン太も他の奴らも。
皆心配で心配で、すっごく心配で胸が潰れそうな思いだった」
そんな思いを、過去三度度経験した。
精市が倒れた時、父が倒れた時、そして熱に浮かされた赤也を見た時。
殊に赤也の時は本当に心臓が握りつぶされるかと思った。
表情を暗くすると、精市は赤也の肩に手をかけ、柔らかく微笑んできた。
「俺達もう家族なんだから、迷惑かけられたなんて誰も思ってない。心配はしたけどね」
「そう…か…悪かった」
「ほんとにそう思ってるなら、早く良くなって安心させてよ」
「ああ、わかった」
心配をかけた皆の為にも早く良くならなければ。
それに自分がいなくて家の中は大丈夫なのかという、まるで母親のような心配をしてしまっていた。
だが精市は笑ってそれを否定する。
「早く帰って来た方がいいよ。すっごく面白いものが見れるから」
「面白い?何だ、気になる」
「それは見てのお楽しみかな。ね、赤也」
「そうっスね」
二人でにやにやと笑い合うだけで、事の真相は教えてもらえなかった。
その言葉の意味を知るのは、それから五日後、体力が回復して自力で食事が摂れるようになり退院が決まった後だった。
退院して、まず驚いたのは家の綺麗さだった。
皆気を使い掃除してくれたのだろう。
何より、仁王の態度の変化は些かの薄気味悪さすら感じてしまった。
昼食の準備をしようかとキッチンに向かおうとするが、座っていろと言われる。
ソファに座って眺めていると、器用に手際よく何かを作っている。
手伝わなくてもいいかとそわそわとしていると、後ろからブン太に肩を叩かれた。
「本人やる気んなってんだし、やらしときゃいーじゃん?」
「…そうか?」
「そーそー。病み上がりなんだし、もっと甘えろって」
そう言ってブン太も自ら進んで部屋の掃除を始めた。
普段は隙あらば料理以外の家事をジャッカルに押し付けようとしていた。
文句ばかりで絶対に自分から手伝いなどしないというのに、どういう心境の変化なのだ。
首を傾げながらある種異様な風景のリビングとキッチンを眺めながら、ふと精市の言葉を思い出す。
「……なるほど、そういう事か…」
確かにこれ以上なく面白いものだ。
感心しながら二人の働く姿を眺めていると、リビングに精市が入ってくる。
「どうした?」
「…いや、面白いな、と思って」
「言った通りだったろ?」
笑いながら精市はおもむろに窓際に立った。
「こっちにも面白いものがあるよ」
そう言って手招きをされ、指差す先を辿ると門扉のところで腕組をして落ち着きなくウロウロとしている弦一郎がいた。
あれではただの不審者ではないか。
しかしそれと間違えられて警察に通報されても面白い気がする。
「……何をやってるんだ?」
「郵便屋待ち。ほら、今日合格発表だから」
「ああ、なるほど……」
確かにそれが原因で全員が仕事を休み、今か今かとその結果が届くのを待っている。
赤也など落ち着かないのか先程から意味なく部屋とリビングを往復していた。
自信はあるのだろうが、しかし合格の報せがあるまでは落ち着かないのも解る。
それにしても、どこで待っていても同じだというのに、弦一郎の挙動不審ぶりは赤也を越えるものがある。
この家で一番肝っ玉の小さいのは意外にもあの男なのかもしれない。
暦の上では春とはいえ、まだまだ風は冷たいだろう。
そろそろ室内に回収しなければ、あいつまで風邪を引いてしまう。
とはいえ、あいつはそんな軟弱ではないと思うが。それに何とかは風邪を引かないという。
「心配しなくてもあいつは脳ミソまで筋肉だから風邪は引かないよ」
隣からする心を見透かしたような精市の言葉に思わず笑ってしまう。
「けど蓮二は外に出たら駄目だよ。温かくして大人しくしてる事」
「そんなに過保護にしなくとも…もう大丈夫だ」
「ダメ駄目。風邪は治りかけが大事なんだから」
「大事なのは引き始めだ」
「そうだっけ?……あ、来たみたい」
再び窓の外に視線をやると、弦一郎が赤いバイクに乗った郵便局員から何通か封筒やハガキを受け取っている。
弦一郎は過ぎ去る局員に深々と頭を下げた後、一目散に玄関に駆け込んできた。
「赤也!届いたぞ!」
玄関の扉が開くと同時に弦一郎の声が家中に響き渡り、全員が手を止めた。
ダイニングで課題をしていた柳生も、昼食の準備をしていた仁王とジャッカルも、掃除をしていたブン太も。
上階からはバタバタと大きな足音がして赤也も下りてきた。
全員が頭を突き合わせるように赤也を囲み、手の中にある封筒を見下ろした。
「早く開けろよ!」
ブン太に急かされ、赤也は一度ゆっくりと深呼吸をした後、封筒の上部にハサミを入れた。
震える手で中に入っていた白い紙を取り出し、もう一度深呼吸をしてからゆっくりと開く。
だがぶるぶると肩を震わせるだけで何も言わない。
「……赤也?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜やっっっったぁああああ!!!!!!」
心配になり肩を叩くと勢い良く顔を上げ、両手で拳を作って天に向けて突き出した。
その瞬間、ゴンッという小気味よい音が響いた。
赤也の拳が弦一郎の顎を直撃したのだ。
しかしそれを心配する者はいない。
「やった!!やりましたよ!!!合格!合格しました!!」
それどころか殴った張本人すら気付いていない。
赤也は飛び上がって喜んでいて、各々の手荒い祝福をしている。
うっかりと弦一郎に気を取られていた所為で輪に入りそびれたではないか。
些か不機嫌になりながら痛がる弦一郎をリビングの隅においやる。
無遠慮に頭を小突かれ、頭を撫でられる中から飛び出し、赤也が飛びついてきた。
「やったよ!!すっげー嬉しいっ!!!」
「よかったな赤也!おめでとう」
「はい!!」
手加減なしに抱き締められ少し痛いが満面の、これ以上ない程に破顔する赤也を見て全て吹き飛んだ。
「っっしゃー!んじゃ今日はお祝いといきますかーっっ!!」
ブン太の声を合図に赤也は体を離し、そして全員が拳を突き上げ団結した。
「あーあ…あんなに喜んじゃって」
「精市…」
「大変なのはこれからなのにね」
「そうだな」
「けど…ま、今日ぐらいはいいか」
そう言うなり精市も輪の中に入っていった。
その後に続き、ようやく痛みから回復した弦一郎がはしゃぎすぎだと怒り始めた。
精市の言う通り、本当に大変なのはこれからだ。
高校に合格する事が目的ではない。
その先に待ち受けている事が試練か幸福か、まだ解らない。
それでもここにいる皆と、赤也の喜びを我が事のように喜んでくれる仲間達と共に乗り越えていけると確信した。