La Familia〜Rearmost〜The special weekday〜X'mas Eve
今年は人生で一番の怒涛を経験した
あと少しでこの一年も終わってしまうと思うと少し淋しい気がする
カリカリとシャーペンが紙を走る音だけが部屋に響く。
デスクに向かい赤也が必死になって擬似試験問題を解いているのだ。
それを隣のベッドに腰掛けながら眺める。
あと5分か、とキッチンタイマーを睨んだ。
柳生の考案したこの勉強法は画期的だと思った。
赤也の勉強に対する集中の限界が1時間という非常に短いもので、それを逆手に取った方法だ。
本番での試験時間は50分。
この時間を体に染み付けさせる為に、50分で擬似試験を行い、10分で採点をする。
その間赤也は休憩を取り、そして間違えた問題を中心に残り1時間で解説する。
この二時間勉強法が赤也には丁度よかったらしい。
だらだらと何時間も勉強をさせるより、この方法の方が格段に学力が上がるのだ。
元より人一倍だった集中力も更に上がったようで、テニスでもそれは如実に現れているのだと弦一郎が喜んでいた。
最近では時計を見ずともだいたい50分が解るらしく、試験に対する時間配分も出来るようになった。
これならば受験も安心だろう。
最初はどうなる事かと思っていたが、意外とどうにでもなるものだ。
ピヨピヨと鳴くヒヨコ型キッチンタイマーの音に、赤也が試験用紙の上に突っ伏して盛大に溜息を吐く。
試験終了の合図だ。
ストップボタンを押して立ち上がり赤也の方へ向かう。
「あ゙ー……づがれ゙だー…」
「お疲れ様。ほら、10分休憩だ。今のうちに休んでおけ」
「はーい…」
飛び込むようにベッドに寝転ぶ赤也と入れ替わりにデスクにつき、再びタイマーを10分間設定して採点を始める。
最初の頃は×印で真っ赤に染まっていた答案用紙も、今ではほぼ全問正解に近い成績を上げている。
今日の試験用紙は見事に丸ばかりが並んだ。
「凄いな、赤也。満点だ」
「マジっスか?!っしゃーっっ!!」
ベッドから飛び起き、近寄ってきた。
デスクの上にある答案用紙を手に大きくガッツポーズをしてみせる。
「しかしこの過去問は既に3度目だ。本当なら2度目で満点を取らなければ…」
「ちょっ…でも満点取ったんだから褒めてくれたっていいじゃん!!」
「だから言ってやっただろう。凄いな、と」
「そんだけ?!」
不満そうな赤也が何を望んでいるかなど、顔を見ずとも解る。
だから敢えて顔を背けたまま答案用紙を覗き込んだ。
「この問題、随分悩んだ様子があるが当てずっぽうではないだろうな」
「柳さんってば!ご褒美は?!」
「お前は褒美無しでは何もできないのか?」
首が取れそうな程頷く赤也に、子供ではないのだから、という気持ち半分。
とりあえず見せ掛けだけの溜息を吐く。
が、そんなものが通用する相手ではない。
「では弦一郎相手でも同じように褒美を貰うのだな?」
「え…っ!!」
「もし今日の担当が精市でも同じように」
「ないです!!ありえねぇ!!!」
こうして自分だけに素直に甘えてくれる事への嬉しさ半分。
「もー…何でそう気持ち悪い喩え出すかなー……そんなのアンタ相手にしか言うわけないじゃん」
赤也はキャスター付きの椅子をデスクから引き出し、膝の上に向き合い乗りかかってきた。
そして首に噛り付くように抱きついてくる。
「重いぞ」
丸まった背中を二度三度と撫でるように叩くが動く素振りを見せない。
頭を撫でるとようやく顔を上げてくれた。
が、
「ご褒美くれないんなら勝手に貰う」
と、再び首筋に顔を埋めてきた。
「待て!」
不埒な動きを見せる腰に添えられた手に些かの焦りを覚える。
不本意な搾り取られ方をするのならばこちらから与えた方が幾分マシだ。
背中が半分めくり上げられた衣服を元に戻し、今度は心の底からの溜息を吐いた。
「全く…褒美がなくては出来ないなんて、犬ではないんだぞ」
「だーから犬扱いしないでくださいよ」
「ならば次からはこんな子供じみた事を言うんじゃない。俺は犬とキスをする趣味はない」
こちらの溜息などまるで関係なくヘラリと笑う赤也の頭に一つ拳を見舞った後、ゆっくりと顔を引き寄せ唇を重ねる。
甘い空気を裂くようにデスク上で再びピヨピヨと鳴き始めるタイマーを、赤也は手探りで止めた。
これで満足だろう、と思いきや。
顔を離した途端に服の中へと手を差し入れられる。
「続きは?」
「調子に乗るな」
「えーっ」
「もう休憩は終わりだ。続きを始めるぞ」
しかし赤也は一向に離れようとしない。
引き離そうにも力一杯首に噛り付いたままだ。
「赤也」
十秒経過。
やはり離れない。
今度は頭を撫でようとも聞き入れる様子はない。
「…もうお前の方がウェイトはあるんだ。そろそろ離れてくれ。重い」
「えっ…何で俺の体重知ってんの?!」
「洗面所の体脂肪計の記録に残っていた」
ようやく首筋に埋めていた顔を離してくれたが、膝から下りる様子はない。
だが無理に突き落とすわけにもいかず、そのまま向き合う形で話す。
「っていうかダメじゃん!アンタまた痩せたの?」
「お前が太ったんだ。同じ質量なら筋肉の方が重いからな…随分鍛えられているようだ」
二の腕についた筋肉を確かめるように撫でると嬉しそうな表情を返される。
「誘ってる?」
「勉強にな」
呆れて物も言えない。
それは自分一人ではなかったようだ。
「勉ー強ー中ー…じゃないの?」
ノックの音に気付かなかった。
部屋に精市が入ってきた事にも気付かなかった。
「何の勉強してるんだ?赤也」
精市に睨まれようやく赤也が静かに膝の上から下りた。
やれやれと溜息を吐き、痺れかけていた足を擦る。
顔を上げると精市が笑顔で赤也の頬を引っ張っているではないか。
当然の仕打ちなので暫くは眺めていたが、赤也の顔が変形する程も引っ張り始めたので慌てて止めに入る。
「何の用だ、精市」
「ああ、そうそう。ジムから電話。夕方から機械メンテ入るから今日来るつもりなら早い目に来てくれだって」
「だ、そうだ赤也。続きは帰ってからだな」
「…それってどっちの続き?」
精市のニヤニヤとした顔を受け流し、ジムに行く準備を始めた赤也を手伝った。
「なーんかやる気殺げたー…ジム行く気しねー……」
「そう言うな。折角跡部の心遣いで通わせて貰ってるんだ、しっかり鍛えて来い」
「ういーっス。いってきまーす」
洗濯したばかりのジャージやタオルをテニスバックに詰め、出かけていった。
今月頭から赤也は専属のアスレチックトレーナーがいるスポーツクラブに通い始めた。
跡部の会社が経営しているジムなのだが、お前が有名になりゃいい宣伝になる、と言って無償で使わせてくれている。
先行投資というわけだ。
跡部は上に立つ者として、人を見る目がある。
そんな相手に見込まれているのだ。
それは赤也も解っている。
口では文句を言いながらもテニススクールと平行して通っていた。
跡部は高校卒業後アメリカの大学に進み、会社経営をしながら主席をキープし続けているらしい。
そこまでしろ、とは言わないが来年から学校に通いながらテニスをするのなら、赤也もそれぐらいの器用さがあればよいのにと思う。
人と比べてもどうにもならない事だが。
それに赤也はよく頑張っていると思い直す。
テニススクールとジムを平行して通い、家では勉強もして家事の手伝いもしている。
否。
後二つは、させられている、だった。
何にせよ、一つの事に一点集中しがちな赤也があれもこれもやっているのは凄い成長なのだ。
あとは何事に対してもすぐに文句を垂れる事を止めればいう事がないのだが。
「じゃあ俺も出かけるから、留守番よろしくな」
「いってらっしゃい」
赤也に続いて仕事に出かける精市を玄関まで見送りに出る。
クリスマス商戦に則り、精市の店も忙しいらしく連日借り出されている。
体の調子が心配だが、本人は至極楽しそうに働いているので口は挟まないでいた。
尤も、弦一郎は渋い顔をしていたが。
ブン太の店もそれは同じで、最近はほとんど寝に帰ってきているだけの状態だ。
暇ならお前も手伝え、とブン太に引き込まれて仁王もケーキ売りのバイトをしている。
それも明日明後日までか、とリビングにかけられたカレンダーを見る。
今日は十二月二十三日。
今年も残すところあと一週間と一日。
思い出に浸る間もなく、残ったリビングの大掃除をやってしまおうとエプロンを身につけた。
信心がなければ、クリスマスイヴなどただの忙しい平日だ。
いつもと違うところといえば、リビングに飾られたツリーぐらいのもの。
結局大掃除ではツリーは見つからず、新しいものを精市が買ってきた。
弦一郎を連れて出たかと思えば、何を考えているのか随分大きな物を買って帰って来たのだ。
その所為で広いはずのリビングが狭く感じる。
三人掛けのソファの横に鎮座する様はなかなか迫力と威圧感があって落ち着かない。
だが赤也やブン太が子供のように喜んでいたので良しとしよう。
今日も家の者は皆出払ってしまい、一人家に取り残され家事と勉学に勤しむ。
本当は弦一郎が休みになるはずだったのだが、急を要する仕事があるのだと跡部に本社へと呼び出されてしまった。
ブン太と精市は一年で最も忙しい日で帰るのは日付が変わってからになるだろう。
それは手を貸す仁王も同じ事。
柳生やジャッカルは実家に戻り家族と過ごすという。
練習の予定の入っていた赤也は最後まで行く事を渋っていたが、無理に追い出した。
勉強も練習も一日一日の積み重ねが大切なのだ。
世間がクリスマスだと浮かれているからといって同じ様に浮かれていていいはずがない。
だが今日ぐらいは少し甘えさせてやっても良い。
九月の誕生日の時のように皆は揃わないが、この家で二人きりになるのは久しぶりの事だ。
夕食はいらないと言っていたが、ケーキぐらいは食べられるだろう。
そう思い、本屋に寄ったついでにブン太の働く店へと出向いた。
駅前にあるWa'Furuは若い女性だけでなく、家族連れやカップル、老年の方からも人気のあるケーキの専門店だ。
テイクアウトだけでなく、店内でも食べられる喫茶コーナーもあるのでいつも人で溢れ返っている。
だが今日は普段の比ではない。
収まりきらない列が店から伸びていてとても買える雰囲気ではなかった。
しばらく呆然とその人の山を見つめていると、中からサンタクロースが現れ近付いてきた。
「参謀!」
赤い帽子を脱ぎ、声を聞いてようやくそれが誰だか気付いた。
「仁王。忙しそうだな」
「俺は売るだけやしまだマシじゃ。厨房におるブン太なんか殺気立ってて近付けんわ」
「そうか…折角のクリスマスだしケーキでもと思ったのだがこれでは無理そうだな」
「そうやのー……あ、ちょっと待ってて。すぐ戻る!」
何かを思いついたらしい仁王が再び人だかりの中へと消えた。
忙しいのなら悪い事をしたな、と帰ろうかと思ったが、待っていろと言われた手前それもできない。
暫くした後、といっても大して時間も経っていないのだろうが、如何せん寒空の下。
たかが数分が酷く長く感じられたが仁王が戻ってきた。
手には何か大きな箱の入った袋が二つが握られている。
「すまんすまん。寒かったじゃろ」
「いや…」
「これ、ブン太から」
「ケーキか?」
「ブッシュドノエルとプチシューのツリーやと。自分用に作ってたらしいわ。あとこれ、伝言」
紙切れを渡され、中を見れば『帰ったら俺も食うから全部食ったら殺す』との物騒なメッセージが綴られていた。
「食べ物の恨みは怖いからな…承知した」
「じゃあな。気ぃつけて帰りんしゃい」
「ああ、ありがとう」
忙しなく持ち場に戻る仁王の背中を見送り、家路についた。
そして帰宅した後、仁王に渡された箱を開ける。
中からは綺麗に飾られたケーキが出てきた。
チョコレート色の切り株型のものと、プチシューが重ねられたツリー型のもの。
ブン太は本当に料理の、特に製菓の才能がある。
自分用に作ったと言っていたが、店頭に置いてあれば間違いなく女の子達が喜ぶだろう可愛いデザインのものだ。
あまりの出来の良さに、写真に撮ってしまった。
そのデジカメをダイニングテーブルに置いて、ケーキをしまう為にキッチンへと持って行く。
かなりの大きさがあるので冷蔵庫に入れるのも一苦労だ。
中の棚板を二つ外してやっとツリーが入った。
夕食も一人のつもりをしていたので、材料を何も買っていなかったのが幸いした。
しかし見事にケーキ以外何も入っていない冷蔵庫になってしまった。
食べに出ようにも、どうせどこも混雑の極みだろう。
今日は遅い時間にでもスーパーに行って何か買ってくるかと再び冬休みの課題を始めた。
いつもの事ながら、集中すると周りが全く見えなくなるらしい。
課題がひと段落してリビングに下りると壁に掛けられた時計が丁度九時を示したところだった。
やはり、というかまだ誰も帰っていない家中は静まり返っている。
BGM代わりにテレビをつけても下らないクリスマス特番が流れるだけで興味をそそられるものではない。
折角滅多に無い静かな空間を堪能するか、とテレビの電源を落とす。
夕刊を取りに外に出ると突風に身が切られる。
どうせ寒いのならば雪でも降ればいいのに。
そう思いながら急いで温かいリビングへと戻った。
ソファの横にあるファンヒーターをつけて一瞬で凍りついた手足を温める。
ある程度人肌にまで戻ったところで夕刊を開き、読み始めた。
半分まで目に通したぐらいで急に眠気が襲ってきた。
冷えていた末端が順に温もっていき、それに伴ってどんどんと夢の世界が近付く。
辛うじて残った力で夕刊を畳んでローテーブルに置き、そのまま眠りの中へと落ちた。
「………ん?」
「あ、起きちまった」
「…赤也?」
「こんなとこで寝てたら風邪引くよ」
「眠ってしまったか…」
急浮上する意識に、居眠りしてしまった事を思い出す。
そして何故赤也が、という疑問。
しかもまた勝手に膝の上に乗っている。
ソファに膝を付いているので身全てを預けられた昨日を思えばマシだが重い。
「寒くない?」
「ああ。寒くはないが重い」
「寒いって?んじゃ俺が温めてあげるっス」
「人の話を聞け」
ぎゅっと首元に噛り付く赤也はすでに着替えた後で、外の匂いも汗の匂いもしない。
代わりにするのは慣れた風呂の香り。
「お前いつ帰ったんだ?もう風呂にも入ったのか?」
「30分ぐらい前かな。全然起きねぇから先入った」
リビングの時計は記憶にあるものより40分進んでいる。
眠ってすぐに帰って来たという事か。
「そうか。おかえり赤也」
「ただいまーっ」
迎え出てやれなかった詫びに抱きつく赤也の頭を撫でてやれば、ますます力を込めてくる。
苦しい、と背中を叩くと漸く体を離してくれるが、やはり膝から下りるつもりはないらしい。
「まだ誰も帰ってないんっスね」
「今日は皆遅くなると言っていたからな…日が変わるまでに帰れんだろう」
「って事はケーキ眺めただけでまだ何も食ってないんっスね」
誰か一緒でなければ食に関しておざなりになりがちな事をよく知る赤也に指摘された通りだ。
まだ何も食べていない。
しかし何故ケーキの事を知っているのだろう。
「ん?冷蔵庫を見たのか?」
「ううん、こっち」
ローテーブルに手を伸ばし、何かを掴んで目の前に差し出してくる。
それはダイニングテーブルに置いたままにしてあったデジカメだった。
「あまりに出来が良かったんでな…食べてしまうのが勿体無くて思わず撮ってしまった」
電源を入れて画像を再生した瞬間、不穏な物が一瞬目に入った。
赤也も気付いたのは慌ててデジカメを取り上げようとした。
が、手の長さはこちらが勝る。
「あっ…ちょっ」
「お前っ…!」
そこに写っていた写真を瞬時に消去する。
「人の寝顔を撮るとは趣味が悪い」
「だってー……」
電源を入れてすぐに出てきたという事は、今撮ったものだろう。
写真に関してはここのところあまりいい思いをしていない為、誰かの目に触れるより先に消してしまった。
赤也は不満げに睨んでくるが知った事ではない。
また精市や仁王あたりにでも見られたら面倒な事になりそうだ。
「折角可愛い寝顔撮れたと思ったのにー…」
「可愛くなど無い」
「消す事ないじゃん」
「誰かに見られたらどうする」
「俺以外に見られたくないって事?」
「そうだな」
誰かに見られたらという事にばかり気を取られていて考えつかなかった。
が、思わず反射的に肯定してしまった。
深く考えていなかったが赤也を喜ばせるには充分だったらしい。
再び首元に擦りついて甘えてきた。
猫のようだと、その愛い様子に背中を抱き締めてやる。
「そんなに寝顔が見たいのなら写真などでなく夜中にでも好きなだけ眺めればいい」
「んな事言ったら毎日一晩中でも眺めちまうし」
「寝不足は体に良くないぞ」
「そういう事じゃなくてさ…」
赤也は思い立ったように体を起こし、じっと睨むように視線を寄越す。
「…何かアンタ変わった」
「俺はどこも変わらないと思うが…」
「絶対変わった。前は思ってる事とか全然話してくれなかったけど今は何でも話しすぎる」
確かに秋頃にあったあの諍い以来、極力思っている事を口にしようと努力してきた。
初めの頃は気恥ずかしさもあったが、ここのところそれが自然になっていたのでいい加減慣れてしまった。
しかしその加減を見失っていたのかと些か不安になる。
「嫌なのか?」
「嬉しいけど時々恥ずかしくなる」
「そうか。恥ずかしいだけなら我慢しろ。また余計な諍いを起こすよりはいいだろう?」
「そうだけどさー…」
「お前だって言いたい事を言ってるじゃないか」
「俺はいいんだって!言っても言っても言い足りないから!」
「何だそれは…」
「あーちょっとちょっとちょっと…」
呆れて体を離そうとしたが、それを許す相手ではなかった。
赤也を転げ落とす覚悟で無理に立ち上がろうとするが、赤也は背もたれに体を押し付け無理矢理唇を奪ってきた。
全体重をかけるようにぎゅっと体を密着して乗りかかり、逃げられないように動きを封じにかかる。
「…赤…っコラッ…」
口先だけの咎めなど聞くはずもない。
10秒、20秒と合わさったままの唇が赤也の温かい体温を伝える。
「アンタ唇むちゃくちゃ冷えてんじゃん…」
親指でむにむにと下唇を撫でるように押さえられ、くすぐったさに身を捩る。
調子に乗って頬や耳までも撫で始めたので慌てて両手を握ってそれを封じた。
そして先程から気になっていた事を指摘する。
「腰に何か硬い物が当たっている」
「え?勃ってないよ?まだ」
「下品な話をするな。ポケットに何か入ってるんだろう?」
「あ、そうだった!」
密着したままだった体を起こし、ポケットを探ると小さな箱を取り出した。
赤いリボンのかかった緑の小さなそれを手渡される。
「メリークリスマス!」
「…俺に、か?」
「他に誰がいるんっスか!」
けらけらと笑う赤也にそれもそうだと思い、リボンをほどいて中身を開ける。
箱の中から出てきたのは細い針金のようなシルバーが編みこまれて作られた小さな青い石の入ったバングルだった。
中身を見て驚いた。
これは、と思い固まっていると勘違いした赤也が言い訳を始める。
「ごめんねこんなのしかあげらんなくて…俺まだ借金生活中だから」
赤也はまだ誕生日プレゼントの余波で精市から毎月の小遣いの天引きを食らっている。
どちらも自分の為なのだから文句など言うはずもないのに、眉を八の字に下げて申し訳なさそうに顔を覗き込んでくる。
「あ、気持ちが嬉しいとか言うなよ!何か空しいし…」
「ではこれからのお前に期待しよう。ありがとう赤也」
付けてくれ、と赤也に手渡し左手を差し出す。
女物のようにも見える繊細なバングルは赤也の手により、スポーツを止めてすっかり痩せてしまった手首に嵌められた。
冬になり、若干の日焼けも落ちた生白い手首にある痣は、夏よりも色濃くなって目に入っていた。
だがそれを覆うように銀が被さり、癒すように青い石が淡く光る。
「光ってないけど一応サファイアだから、これ」
「そうか…ありがとう。俺からもプレゼントがあるんだ」
「マジっスか?!」
プレゼントという言葉に赤也は膝から飛び降りる。
赤也の居た場所が急に体温を失い寒く感じる。
室内は適温に保たれているというのに。
「何くれるんっスか?」
あんなにも離れ難いといった態度だったのにプレゼントの方がいいのか、という子供じみた感情が前に出てくる。
今度は犬のように尻尾を振ってついてくる現金な態度の赤也に、無性に腹が立ってきた。
今日行った本屋で仕入れてテレビ台に置いたままにしてあった物を渡す。
「…何っスかこれ」
「クリスマスプレゼントだ」
包装もされていない本屋の紙袋に入っているのは入試対策の問題集三冊。
「これが?!」
「しっかり勉学に励めよ」
「ちょっ…ちょっとーっっ!!」
中を見て面食らった赤也が泣きそうな顔で訴える。
その様子に腹の虫も治まり、ダイニングに置きっぱなしのカバンの中に入れたままにしていた包みを取り出した。
「冗談だ」
「ほへ?」
「メリークリスマス」
「え?え?」
先程赤也から渡された物と同じ店の箱に同じリボンが掛かっている物を手渡す。
訳が解らないと顔と箱を行き来する視線に思わず笑いが漏れた。
「偶然だな。俺も同じ店で選んだらしい」
「開けてみていい?!」
「どうぞ」
赤也は焦って上手くほどけないリボンにイライラしながらも、何とか外し箱の蓋を開ける。
そんなプレゼントを前にした幼い子供のような様子を眺めながら再びソファに戻って腰を下ろす。
「うわぁーすげぇ!チョーカーだ!かっけぇー」
シルバーの大きなクロスの中央に真っ赤な石の入ったトップが皮の紐に吊るされたそれを手に取り赤也が歓声を上げた。
気に入ってもらえたようで胸を撫で下ろす。
手に乗せて眺めたままでいる赤也を手招きで呼び寄せ、付けてやろうと正面に立たせた。
手が少し届かないと赤也の肩を押さえ身を屈めさせ、首に紐を巻き結んでやる。
「うん、似合っている」
「ありがとう!!むちゃくちゃ嬉しいっ!」
勢いよく抱きつかれ、赤也を受け止めたまま背もたれに体が沈む。
上体は起こすものの、やはり離れるつもりはない赤也は膝に乗ったままじっとチョーカーを眺める。
首元で鈍く光る赤い石が気になるのか先程から赤也の視線が釘付けになっていた。
「これは?何?」
「ルビーだ」
何の因果だろう。
箱を開けて驚かされた。
「知っているか?サファイアとルビーは同じ鉱物なんだ」
「え?そうなの?こんなに色違うのに?」
赤也は自分の首に結わえ付けられたクロスとバングルを交互に見比べ、目を丸くする。
「混じっている金属イオンの差でこれだけの色の差が出来るらしい」
「んじゃ何か俺らみたいっスね」
「何故?」
「同じ家で育ってきたのに全然違う」
「…そうだな」
同じ物質でありながら対照的な色に性質を持つ赤と青。
まるで正反対の色を放つ石と自分達を重ね合わせる。
長く同じ器に閉じ込められてきたが、赤也と自分では全く違う。
「これ、俺の好きな色だ」
「赤はお前のテーマカラーだろう?それにルビーは勝利と栄光を呼びこむ石…お前にぴったりだ」
「じゃ、これは?サファイアは?」
手首を掴んでじっと石を見つめる赤也を見上げ、ふと悪戯心が湧いた。
確かサファイアの意味するところは"信頼、誠実、真実"
そしてもう一つ。
「"堅固な愛の証"」
あえて前者を言わずにこちらを伝える。
サファイアが夫婦や恋人の絆の強さを象徴する鉱石であるのは周知の事。
だが赤也は知らずに買ってきたのだろう。
「…マジで?」
「浮気すると変色してしまうそうだぞ。これは身持ちに気をつけねばな」
バングルに嵌められた石を見せながら人差し指で叩き、冗談めかしに笑ってみせる。
そう、冗談のつもりだったが赤也は思いの外食いついてきた。
「頼んますよホントー…」
「お前は俺が浮気するとでも?」
「アンタにその気がなくても周りがほっとかないんだって!!」
これはまた誰かに、というか犯人は解りきっているが、何かを吹き込まれたのだなと思えば案の定の答えが返ってきた。
「…だって仁王さんが、柳のおる学科は別嬪さん揃いやから毎日ウハウハやのーって言ってて…」
「またあいつは…」
思わず天を仰ぎ頭を抱えた。
大方うちの学科の女性陣と合コンでもして品定めした後の話を端折って聞いたのだろう。
不安そうに見上げる瞳がまた子犬のようだ。
「赤也」
「解ってる。解ってるんだよ?頭では。そんな事ないって。けどやっぱ…」
「赤也」
「ごめんっっ…ごめんね!疑ってるわけじゃないから!絶対!」
こんな日に言い争うのも無粋な話。
言葉を選んで諭す事にした。
「…そんな不安げな顔をするな」
どんなに言葉を尽しても限界がある。
どうすれば互いの持つ不安が解消されるかなど解らない。
たぶんこれから先もずっと解らないままなのだ。
だからその度に相手に伝える以外に方法を見出す事ができない。
「俺は別嬪にも可愛い子にも興味はない」
「え…?」
「どんなに性格のいい奴も優しい奴も金持ちもいらない。俺を全身全霊で愛してくれるお前だけがいればいい」
見上げた赤也の顔が見る見る石と同じ色に変わっていく。
「どうした?」
「…恥ずかしくないんっスか?」
「何がだ?」
「やっぱ敵わねー……」
力を込めて首に噛り付かれる。
少し苦しいがそのまま赤也の背中に手を回した。
視界の端に大きなツリーが見える。
「クリスマスもいらないな」
「は?」
「お前がいれば毎日が楽しくて特別だ」
「ストップ!」
慌てた様子で体を離すので面食らう。
何か変な事でも言ったかと少し焦った。
「何だ?」
「ちょっと幸せ貯金使い切りそう…」
「何だそれは…使い切ったのならまた貯めればいいだろう」
「……そうします」
赤也の肩越しに見える時計が十時過ぎを指し示している。
そろそろ買物に出なければ夕食にありつけないと杞憂していると、タイミングを計ったように赤也が顔を上げた。
「あ、腹減ってない?何も食べてないんだよね?」
「ああ」
「そう思って色々貰ってきた!」
「…何を?」
軽い動きで膝から下り、赤也はキッチンに向かった。
カウンターに置かれていた何かに手を伸ばしている。
透明の使い捨てパックに入っているオードブルやチキンで、クリスマスパーティーで出されるようなもの。
スーパーの袋から出てきたが、買ってきた物とは思えない。
「スクールでさ、レッスン生のおばちゃん達がスタッフ巻き込んでパーティーやってたんだよ。料理持ち寄って。
室内練習場で練習終わってロビー行ったら捕まってさー巻き込まれてアレ食えコレ食えって皿持たされて食わされて…
もー今日真田さんいないからってスタッフも無礼講だし収拾つかないんスよ」
赤也は事情を説明しながら大きな皿に料理を並べ、冷めたチキンをレンジに入れて温める。
手伝おうかとキッチンに向かうが、大人しく座っていろと言うのでダイニングテーブルについた。
「家でアンタ一人いるの解ってたし早く帰りたいって訴えたら彼女が待ってんのかーってお節介なおばちゃんが一緒に食べなさいって詰めてくれた」
「そうだったのか」
最後に冷蔵庫に入れてあったジュースとグラスをテーブルに置いて赤也も席についた。
「あ…お茶のがよかった?」
「いや、これでいい」
料理の中にはサンドイッチもあり、流石にお茶で食べる気にはなれない。
だがこうして気をかけてくれる赤也の気持ちが酷く嬉しかった。
「じゃ、食べましょ。どれも美味いっスよ!」
「いただきます」
用意されたフォークで料理を刺し、口に運ぶ。
持ち寄りのパーティだと言っていた。
恐らく主婦手作りのものなのだろう。
買ったものでは味わえない温かみのある料理はどれも美味しい。
「どう?」
「うん、美味い」
「よかった!」
「…お前は食べないのか?」
「俺は腹いっぱいだから。おばちゃん達私のも食べて私のも食べてって次々皿に入れてくるんだもん…」
うんざりといった様子で頬杖つく赤也に、何となくその様子は想像がつく。
上手く可愛がられる術を知る赤也は、大人に構ってもらう頻度が高い。
「何だ、お前だってモテるんじゃないか」
「うえっっ…ききき気持ち悪い事言うなよ!!」
顎を乗せていた手が見事にテーブルから滑り落ち、激しく抗議する赤也を見て笑う。
からかわれている事が解ったのかむくれた様子でそっぽを向く。
「そうか?マダムだって立派な女性だろう。男冥利に尽きるというものだ」
「おばちゃん相手に男冥利も何もねーよ!」
「中には綺麗な人だっているんだろう?」
「あーもう…俺だって興味ねーよ!美人も可愛い子もおばちゃんも!アンタ以外どうでもいい!」
赤也の態度が面白いのであえてネチネチと責めてみればどうだ。
思いもよらない言葉を引き出せてしまった。
予想外の事に我を忘れて久々に腹を抱えて笑う。
「ちょっ…何笑ってんだよ!」
「すまん…ちょっとからかうつもりが……」
「アンタ絶対ぇー俺なんかよりずっと性格悪ぃ」
「そうだな」
「けどさっきの言葉は本気だからな」
「そうでなければ怒る」
「やっぱ性格悪ぃ…」
何とか笑いを腹に治め、冷め始めた料理を再び口に運び始める。
視線は少し拗ねた様子で呟く赤也に目を奪われたまま。
わざわざ用意したツリーも、窓の外に降る待ちわびたはずの雪も目に入らない。
やはりクリスマスなんて関係ない。
今日は少し特別な、ただの平日だ。