兄ちゃんという姉ちゃんの名前に他意はない。
彼自身は5年以上前に生まれたキャラなのですよ。
故に、某キャスの名前を見た瞬間ちょっとゲッって思ったのは内緒です。
Birthday
忙殺された午前中を何とか越え、よろよろと食堂へ向かう途中だった。
光と謙也は奇跡的に同じ時間に休憩を取れる事となり急いで歩いていたのだが、突然光は背後から衝撃を受けた。
丁度膝の辺りに受けた為思わず転びそうになるが、タイミングよく腕を伸ばした謙也に抱え込まれ倒れる事はなかった。
「大丈夫か?」
「あ…ありがとう…何かぶつかっ…え?」
体勢を立て直し、その正体を見ようと視線を落とすと小さな子供と視線がぶつかった。
謙也はしゃがみ込み、その子の視線に合わせる。
「譲ちゃんどないした?迷子か?」
職員用の通路まで迷い込んでしまったのかと、警戒させないようにこにこ笑いながら言う謙也の髪を、その子供が引っ掴む。
「いだだだだだだだだだ!!」
「誰が譲ちゃんだバーカ!」
「えっ…ああ、男の子かいな自分…すまんすまん」
真っ赤な花柄のTシャツを着ている為にすっかり女の子と信じ込んでいたが、少年の幼心を傷付けてしまったらしい。
謙也は痛む頭皮を押さえながらも素直に謝った。
「ほんで、迷子なん?」
「ううん。とーたんといっしょ」
「とーたん…お父ちゃんどこ行ったん?診察中か?誰かの見舞いか?」
「いんちょ先生にごあいさつしてるー」
院長先生の知り合いか、と光と謙也は顔を見合わせ首を傾げた。
「あ、とーたん!」
その時、少年が二人の背後を見て目を輝かせた。
よかった保護者が見つかって、と振り返り腰を抜かさんばかりに驚く。
「相変わらず仲ええわねーあんた達」
そこにいたのは昔と違わぬ華やかな笑みを振りまく、
「えっ……りょうこ先生?!」
楓の兄、涼虎だった。
驚きのあまり声も出ない光の代わりに謙也が絶叫する。
その声に周囲にいた職員が一斉に振り返る。
五月蝿い、とツッコミを入れる為に光の意識が戻った。
そして足元にいる少年に目を向け、一つ思い当たると涼虎に視線を戻す。
「えっ、ほなもしかしてこの子…ミュート?」
「そ!」
涼虎は子供を抱き上げ、小さな手を取ると二人に向けふりふりと振らせた。
「えぇ?!もうこんなおっきなってんの?!うわぁー…」
「謙也くん何やオッサンっぽいでその言い方…」
「うっ…うるさいわ……」
「久々に孫に会うたおじいちゃんみたい」
「せめておっちゃんにしてや!!っていうかまだお兄ちゃんやろ!!」
「とーたん、この二人だぁれ?」
漫才のように言葉を応酬させる謙也と光に目を彷徨わせ、少年が不思議そうに尋ねる。
「この二人はねーお母さんが、ミュート産んだ時付き添ってくれたんよー?」
「そうや、あん時まだ実習中やったから…そらこんだけ大きなって当然やわ…」
「光かてオッサンっぽいで」
「うっさい黙れアホ」
音が響くほどに脛を蹴られ、痛みに蹲る謙也を放ったまま光は涼虎と連れ立ち食堂の方へと歩き出す。
そしてこの少年が生まれるまでにあった出来事の数々を思い出した。
それは彼が、彼女がまだこの病院に勤めていた頃の話だった。
当時光は大学三年、謙也が四年生だった。
お互い学科の勉強に実習にと忙しい中、光は大いに悩んでいた。
「あーもう!!ムカつく!!」
周りに人がいない非常階段で腹にあるストレス全てを込めて絶叫する。
これで断られたのは12件目だ。
現在産婦人科実習中なのだが、男である事を理由に分娩見学を拒否されてしまうのだ。
カリキュラムを遂行する為の勉強なのだと言っても相手に理解できるわけもない。
そんな事で同級生達から若干実習が遅れ気味なのも気になる。
こんなところで足止めを食らっている場合ではないのだ。
そう考えるとイライラがますます募っていく。
「他所の嫁はんの股座になんか興味ないっちゅーねん!!!!!!!」
そう叫んだ瞬間だった。
「あっはは!!笑わせないでよっ…!もージュース零しちゃったやなーい」
頭上からする大爆笑に光は焦った。
まさかこんな場所に人がいるなどとは思っていなかった。
そして先程自分の絶叫に青くなる。
一体誰が、と思い、相手の姿が見える前に逃げようとしたが、呼び止められてしまった。
「よっ、実習生」
「え…あ……」
上階から現れたのは時々実習中に会う事のあった産婦人科の女医だった。
確か名前は、
「英先生…?」
名札を見ながら恐る恐る言うと、にっこりと綺麗な笑顔を返される。
断じて邪な気持ちではないが凄い美人だ、と以前から思っていた。
明るく誰彼分け隔てのない性格で男女問わず人気があるところは謙也にどこか似ている、とも。
すぐ側で並ぶのは初めてだが、意外と上背がある。
医師にしては高いヒールをはいている状態ではあるが、少なくとも自分より10cmは高い。
迫力満点だと思わず仰け反りながら見上げると、再びにっこりと笑顔を向けられる。
「もっとクールな子かと思ってたわぁー財前君」
「いや…まぁ……」
こんなに感情をむき出しにする事は滅多にないのだが、その滅多にないタイミングを見られてしまい光は珍しく赤面した。
「何、分娩実習断られ続けてんの?」
「はぁ…まぁ、そうです…」
「大変やわねー男の子のナース増えたって言ってもまだまだ少ないし」
黙って頷く光に、医師は慰めるように頭を撫でる。
「まあ頑張って。どうしてもあかんようなら、あたしが何とかしてあげるから」
「えっ…何とかって…誰かに頼んでくれはるんですか?」
「じゃあねぇ〜」
明確に答えは残さずひらひらと手を振りながら消えていく背中を呆然と見送った。
その数日後、とんでもない事実に光は卒倒しそうな程に驚かされる事となった。
英と再会したのはそれから3日後、光が15件目の分娩見学を断られた日。
なけなしの休憩に昼食を掻き込んだ後、トイレに行った時だった。
そろそろ午後の実習が始まるなあと思いながら手を洗い鏡を覗き込んでいると、背後にいつかの人が立っている。
「えっ……ええええっっっ?!」
「よっ、実習生」
英はいつかのように軽く手を挙げて挨拶しているものの、ここは男子トイレだ。
何故貴方がここに、と言葉にならず口をパクパクさせたままの光の隣に立ち、何でもないようにポケットから口紅を取り出し塗り直している。
「えっ…ちょっ、ここ男子トイレっ」
「いいじゃなーい別に。同じ男同士、カタい事言いっこなしよー」
「は…?」
何気なく言われた言葉に光は目を点にする。
宇宙人でも見るような目に、英は珍しい物を見る目を返した。
「何?どうしたの?」
「えっ…え…ええっ?!」
「あら?知らなかったの?」
「聞いてませんよ!!」
「見たら解るやない」
「いや解りませんし!!思いっきり女医ですやん!!だいたい名前かって…Ryoko Hanabusaって……えっ、偽名?!」
胸に付けられた名札を示しながら検討違いな事を言う光に呆れながら答える。
「…なわけないでしょ。国家資格ナメんやないでー」
ほら、とポケットに入れられていた財布の中から取り出されるIDカードには確かに"はなぶさりょうこ"の文字がある。
ただし、漢字は英涼虎。響きはともかく字面が完璧に男子だ。
「ええっ?!普通何トカ・こって言われたら女や思いますって!」
「ざーいぜん君かって光ちゃんって女の子の名前やなーい」
「そっ…それはそうですけど……」
確かに過去何度か女の名前と間違えられた事もある為に光は何も返せず黙り込む。
「何ぃ?オカマが医者になっちゃ駄目ってわーけぇー?」
「いや、そうゆうわけや…ないっスけど…」
「そーんな珍獣見るような目で見ないでくれるー?」
「すっ…すいません…」
強い調子で上から見下ろされ、光はどんどんと身を縮こまらせる。
だが次の瞬間にはすでに満面の笑みを浮かべていた。
「ぷっ…ふふっ、ほんと面白いわねーあんた達」
「……は?……達?」
「そうよーいるでしょ?財前君の大事な大事な相方。茶髪の、背のたかーい…」
「え?え?…謙也くん?ていうか何で知ってんっスか!!」
相方、という言い方をしているがこの口調だと自分たちがどのような関係なのか知っているのだろう。
一体どのような接点があるのだと目を白黒させる光に英が経緯を話す。
「元々謙也君のお父さんによぉお世話になってたんよ、あたし」
「え、ほなパパちゃん知ってんですか?」
「まだ忍足センセが総合病院勤めやった頃にねーまっさかセンセの子倅も医者になってるなんて思てへんかったから吃驚したわよーここに実習来やった時は」
「へぇー…そうなんや」
「そ!それで君の話も聞いたのよ、謙也君に」
思わぬ繋がりに感心する様に頷いていたが、腕にはめていた時計の指し示す時間に光は青くなった。
もう間もなく休憩が終わって、今から病棟に戻るとなるとギリギリになってしまう。
だが慌てて頭を下げて出て行こうとする光を英は呼び止める。
「あっ、財前君。まだ見つからないのかしら?分娩の見学さしてくれるとこ」
「え、あ……はい、まだ…です」
「しゃーないわねー…ほなあたしが何とかするから、今日実習終わってから医局来てちょうだい」
「え?え?え?ほんまですか?!」
もちろん、と言って笑顔を返す英に何度も礼を言い、光は病棟へ駆け足で戻っていった。
自分とは縁のない場所にいささか引き気味で、ドキドキしながら医局の扉を叩く。
だが間髪入れず中からする英の声にほっとする。
失礼します、と遠慮がちに中に入ると他の産婦人科担当医と共に昼に会った時より若干化粧の崩れた英がいた。
確かに綺麗ではあるが少し男の表情が見え隠れする素に近い顔に戸惑いつつ頭を下げる。
「あ、あの…お疲れさまっス…」
「何よ。こっちはあれから3人も子供取り上げてヘットヘトなのよ」
しまった表情に出ていたか、とバツが悪そうに目を泳がせる光に周りの医師からも笑いが生まれる。
「……あの、ほんで…」
「ああ、実習ね。予定日は来週なんやけどー…かまわないわよね?」
「もっもちろんです」
実習期間ギリギリになってしまうが仕方ない。
この際贅沢など言ってられないのだ。
光は何度も頷いた。
「あの…ほんでその妊婦さんって……」
「あたしの奥さん」
「…………は?」
男子トイレで明かされた衝撃的事実を上回るその攻撃に、光は大きく目と口を開けたまま固まった。
一体この人は何を言っているのかと理解出来てない光を見て、室内にいる医師が全員大爆笑を始める。
「ええっ、ちょっ…ほんまなんですか?!」
「嘘言うてどないするんよ、こんな事」
「そっ…そうです…けどっ」
「何ぃ?オカマが結婚しちゃ駄目ってわーけぇー?」
「普通しませんて!!」
昼に会った時と同じようにふざけたような口調で言ってのける英に、思わず中高生時代の先輩への態度と変わらない失礼な態度でツッコミを入れてしまう。
その様子に再び大爆笑が起きる。
「えっ…けど、ほんまにええんですか?」
「いいわよぉー他所の嫁はんの股座には興味ないんでしょ?」
「ちょっ…それっ」
そんな事言ってたのかと医師達は抱腹絶倒状態となり、いたたまれなくなった光は赤面して医局を出ようとした。
だが英に呼び止められ、ドアの前で足を止める。
「ちょーっとちょっと!ストーップ!もー短気起こさないの」
「せやかて…」
「ちょっと来て。会わせたげるから」
呼び止めておきながら英は光を連れて医局を出た。
「え…誰に?」
「奥さん」
「えっ…ええっ?!来てはるんですか?」
「今ねぇー仕事終わるの待ってもらってて…あ、さーちゃん!」
英が手を振りながら声をかけると、ベンチに座っていた身重の女性が顔を上げた。
「あ!!ちょっと化粧落ちてる!ちゃんと綺麗にしときなさいよ?!折角美人なんだから!」
英の顔を見るなりそう注意する姿に光は面食らった。
こんな旦那様の奥さんって、一体どんな人なのだと思っていたのだが、意外と普通の、
否、英と並んでいれば間違いなく二人揃ってもてはやされるであろう美貌の持ち主だ。
「このうるさい人があたしの奥さんのサユキさん」
「うるさいとは何よ、うるさいとは。御動桜雪です。よろしくねー」
「…ざ…財前光っス…」
ぺこりと頭を下げる光に、英の伴侶である御動はにっこりと笑顔を見せた。
そして鞄の中から名刺を取り出し渡してくる。
東京でかなり有名な総合病院の内科医なのかと面食らう。
「お医者さんなんですね…」
「そ。名前変わっちゃうと患者さん混乱させちゃうから結婚してからもそのままなのよ」
「へえ…」
「普段は東京に住んでるんやけど、出産でこっちに来てるの。まあ予定日まであんまり時間ないけど、仲良くしたってね」
「はっはい!こちらこそ」
勢いよく頭を下げる光に、御動はにこにこと笑いながらこちらこそと返した。
英より4歳年上の御動は、英とよく似た明るい性格で、他人に警戒心の強い光もすぐに打ち解ける事が出来た。
少し異色ではあるが、夫婦仲は良好で仲睦まじい姿が時折院内でも見かけられた。
尤も、どちらも容姿は女であるから夫婦というより親友といった風に見えるのだが。
そして光と謙也の関係も英から聞いているのか、顔を見る度にからかわれている。
男前同士、お似合いね、と。
軽く受け流す事も出来たが、光は初めて会った時から気になっていた事を聞く事にした。
実習後、御動と夕飯を食べに行く約束をしていたのだが、待ち合わせの場所には何故か謙也も一緒にいた。
雨の繁華街で目立つその二人に急いで近付く。
「え…謙也くん?」
「私が誘ったのよ。後で涼も来るけど先食べてようか」
「は、はい」
いつの間にそんな話になっていたのだ。
昨日メールで約束した時点では何も言ってなかったではないかという恨みを込めて謙也を睨むが、軽い笑顔でかわされる。
それから三人で英がおススメだという和食系居酒屋へ向かい、先に食事を始めた。
様々な話をして、丁度話題が途切れた時を見計らい光はずっと思っていた事を口にした。
どうして、どういった経緯で英と結婚する事になったのかという事を。
どう尋ねればよいか解らず、思ったままに質問してしまったが御動は笑っていて気を悪くする様子はなかった。
「涼が男だとか女だとかって考えた事なかったけど?どっちかっていうと年下って方が問題ね。
4歳は結構大きいわよーだって私が中学三年生の時小学生よ?!犯罪じゃない!!」
「は…はぁ……」
テーブルを叩きながら熱弁しているが、どう考えても性差の方が大きいのでは、と光と謙也は目で会話する。
「けど…まあ悩まなかったって事はないわね。あの人がああいう性癖で、私は女で…いつかその歪みが出るんじゃないかとか…
あとねぇ…私には双子の弟がいるから…弟の代わりなんじゃないかって思った事もあったし」
「えっ…双子の弟?!この顔がこの世に二つあるん?!」
「ちょ…謙也くん……食いつくん、そこ?」
「えっ、けど、だってやーめっちゃ凄いやん。めっちゃ美形兄弟やん」
「嬉しい事言ってくれるじゃない謙也君っ!」
もっと飲んで食べてーと酒も飲んでいないというのにテンション高く嬉しそうに御動がメニューを勧めた。
強く勧められ断りきれず、謙也は仕方なく追加注文を頼む。
奢りなんだからいっぱい食べろと言われても萎縮してなかなか食べたい物を言わない謙也を他所に、光は上機嫌の御動に向けて尋ねた。
「あの、ほな何で…結婚しようって思えたんですか?キッカケとか、ないんですか?」
「キッカケねぇ…これってないけど、まあ好きだって言ってくれる気持ち信じてみるかって思い始めて、
だらだら一緒にいたらちゃんと私の事見てるって解ったからかな。誰かを誰かの代わりにするような器用な人でもないし…
それに逆に考えれば性癖歪めてまで一緒になりたいって言うんだからねえ…嬉しくないわけないじゃない」
形は違えど同性を将来の伴侶に選ぶ事に何の躊躇いも戸惑いもなかった訳ではない。
だがそれは大した問題じゃなかったのだと御動は笑った。
「何だかんだ言っても結局大事なのってお互いの気持ちだしねー喧嘩しながらもここまで来たって感じかな」
それはよく解るかもしれない、と光はちらりと隣に座る謙也を見た。
「二人は恵まれてるわよ。理解してくれる家族がいて友達がいて。お互い好きな相手に好きって気持ちもらえて何に不安や不満があるっていうの?」
「あ…いや、まぁ…そうなんですけど…」
はっきりそう言い切られてしまうと返す言葉がない。
箸を置いて黙ってしまう光に、御動は朗らかに笑いながら言い切った。
「あのね、色々問題はあってもさー結局それって一番の問題じゃないのよ?」
「え…」
「肝心なのは自分の気持ちでしょ?同性同士だどうだとか年の差がどうだとか家柄がどうだとかー…
そんな事より好きな相手に生涯変わらない気持ちを捧げ続ける方がずっとずーっと難しいでしょ?」
「確かにそうですよね」
それまで食べる事に没頭していた謙也が突然会話に参加する。
行儀悪いなぁとぼやきながら光が甲斐甲斐しく謙也の食べ零しを片付けている姿を微笑ましく思いながら御動は口を開く。
「私は生涯変わらず涼へ自分の思いを捧げられるって確信したから結婚した。それだけよ、大切なのは」
言葉にすれば単純だが、実際そう割り切れないものだ。
英と御動も自分達と同じように様々な事を乗り越えて今があるのだろうな、と光は思った。
そしてとてもカッコいい女性だ、とも。
一本芯の通った姿に、きっと英も性別を越えて好きになったに違いない。
「二人は?」
「へ?!」
「中学の時からずっと一緒なんでしょ?これから先の事とか考えてないの?」
「いやぁ…俺らは……」
なあ、と照れながら言う謙也に容赦ない光の声が被さる。
「とりあえず謙也くんの食らいこぼし癖直ってからですかね、先の事考えんのは」
「はあ?!なんっ…何やねんそれっ!」
「せやかてあんた…子供やないんですからもうちょっと綺麗に食うてくださいよ!いっつもテーブルの上きったない事して!」
「そっそれは………ごめん」
勢いよく言い合いを始めたというのにすぐに折れてしょんぼりと頭を下げる謙也に御動は大爆笑する。
この調子ならこの先も上手くやっていけそうだと言って。
だが次の拍子に御動の顔色が変わった。
「…サユキさん?どないしたんですか?腹、痛いんっスか?」
「ん…ちょっと……」
青い顔をして腹を押さえる姿にそれまでふざけていた謙也と光も仕事中の顔になる。
「予定日って…まだ先ですよね?」
「うん…けどちょっと……ヤバい感じ、かも」
「謙也くん診たってや」
「えっ…俺?!けっ…けど専門外やし」
「役立たず!」
「ええっっ」
光の容赦ない言葉に落ち込んでいる場合ではない。だが本当に役に立たないな、と項垂れる。
現にオロオロとする謙也を他所に、光は冷静に対処している。同じ学生だというのに。
「もうすぐ英先生来ますよね……もうこっち向かってんかな」
「おっ…俺電話してくるわ!…あっ!」
「ハァーイ盛り上がってるわねー…違う方向に」
「あ…英先生!」
謙也が振り返るのと同時に目に飛び込んでくる姿に、ホッとして思わず抱きつきたくなるほど心強く思ってしまう。
すぐに何が起きているか察した英は狭い席の間を掻い潜り英が御動の隣に座る。
「ちょっとごめんなさいねー」
長椅子に横たわる御動の腹に手をやり、診察を始める英の次の指示を待ち、光はじっと二人を見つめた。
「うーん…生まれるかもねぇー…」
青い顔をして苦しむ妻にも動揺する事なく、いつもと変わらない様子だ。
いつもの冷静さはないものの、取り乱す事もない御動も流石と言える。
外野であるはずの二人が一番動揺しているのに気付き、英は安心させるようにいつもの笑顔を向ける。
「心配しなくても子供なんてそーんなすぐ出てこないわよ。謙也君はお店の人に頼んでタクシー呼んでもらってー財前君は病院に受け入れ連絡してちょうだい」
「はっ、はいっ!」
「解りました!!」
英の指示に謙也と光はそれぞれに動き、そして15分後には病院へと到着した。
すぐには生まれないと言っていたが、診察の結果そんなに悠長な事を言ってられない状況なのだと英はすぐに分娩室へと運ぶよう指示する。
「ほら、実習実習。見学するんでしょ?早よ着替えてきて」
「え、え…あ…ああ、はい!」
「ほら謙也君も一緒に」
「えっ俺も?!」
「お勉強やないー早よ早よ」
「はっはい!」
英に促され二人は急いでガウンを着ると消毒を済ませ室内へ入った。
今は痛みの波から離れているのか、御動も落ち着いた様子で分娩台に乗っている。
それでもすぐにやってくる激痛に歯を食いしばり耐え、時折叫びながら、御動は母となる為に闘っている。
「ほらぁー突っ立ってないで手ー握って汗拭いてあげてよー」
壮絶な光景に何をする事も出来ず部屋の隅でただ呆然と立ち尽くす二人に向け、英が何でもないように言う。
まさに命の現場に立ち合い、光は何も出来ずただ手を握り、一つ覚えのように頑張れという言葉以外をかけられずにいた。
先刻謙也に向けて言った言葉が今まさに自分にも言える。本当に役立たずだ、と。
だが二人の励ましは御動の耳にも届いているのか、強く二人の手を握り返し何度も頷いている。
そんな筆舌に尽くしがたい状況が2時間ほど続き、ようやく英の口からもうすぐ産まれるという言葉が出た。
長時間強く手や手首を握られ、光と謙也の手は痣だらけとなっていたが、今御動の感じている痛みはこんなものではないはずだ。
そう思いながら励まし続け、間もなく日付が変わるだろうという頃、いよいよ待ちに待った瞬間が訪れた。
室内に大きな産声が上がり、無事に元気な男の子が生まれた。
二人は両脇から疲労困ぱいする御動に何度も何度もおめでとうの言葉をかける。
汗や涙で化粧は完全に崩れているが、笑顔で応えるその姿は眩しいほどに輝いているなと光は思わず零れそうになる涙を堪える。
だがよく見れば謙也はすでにボロボロと涙を零している。
「ちょっ…謙也くん…」
「ごめ…けどめっちゃ感動してもぉて…」
「ほんまやねーもう何百人って子供取り上げてるけど、やっぱり自分の子供となるとちゃうわぁ」
産まれたばかりの我が子の検診をしていた英が戻り、涙を浮かべながら御動の手を取りお疲れ様とありがとうを繰り返す。
その輪から離れ、俯き涙を堪えている光の顔を謙也は胸に押し付けぎゅっと抱き締めた。
「すごいなぁー命産まれる瞬間って」
「……っ…うん」
「めっちゃ感動したわ」
「俺も…」
ぎゅっと縋りつく光の頭を撫でていると、呆れたような英の声がする。
「ちょっとぉーイチャついてないでこっち来なさいよー」
「なっ…違いますよ!!」
慌てて謙也の体を押し返し、光は距離を置いて睨んだ。
「抱いてみる?赤ちゃん」
「え…ええんですか?」
生まれたばかりの赤ちゃんを腕に抱き、止まったはずの涙が再び溢れ出す。
「光?どないしたんや?」
「俺も…こんな風に、産まれてきたんかなって…オカン、めっちゃ頑張って産んでくれたんかなって…思ったんスわ…」
たとえあのように育てられたとしても、産んでくれた人には変わりない。
暗闇を彷徨い続けた時間を越え、手に入れた今の幸せを思えば光の心に灯る思いはただ一つだった。
「俺……今でも時々、やっぱ…生きててええんかなって思う瞬間あるんやけど…でも、これだけははっきり言えます…」
「何?」
「生まれてきて、よかったって…」
「そうよー全部の原点はみーんなここなんだから。裸で一人で生まれてきて、たっくさんの人と出会ってこの小さな掌にいっぱいの幸せを掴むのよ」
英は光から我が子を受け取ると掌に指を入れて掴ませた。
「財前君も、この手で掴んだんでしょ?たーっくさんの幸せ」
「え…あ……」
光の手を取ると、謙也に目配せをして手を繋がせた。
「まだまだこれから人生長いんだから、何があっても離しちゃダメよー幸せの素は」
そう言って笑った英の幸せそうな表情は生涯忘れないだろうと光の心に浮かんだ。
小雨降りしきる中産まれた子供に、英は美しい雨音と書いてミウト、と名付けた。
女性だと思っていた人が実は男で、しかも身重の奥さんまでいるというサプライズ続きの為にこれ以上驚く事はないだろうと思っていたが、
彼の祖父がヨーロッパでかなり高名な音楽家であると知り、日本人離れした容姿はクォーターだった所為なのかとまた驚かされた。
英が一人家族からはみ出した時も、妹以外で唯一味方をしてくれた祖父に名前を付けてくれないかと頼んだところ、
意外な程に今風な名前を提示されてしまったらしい。
だがそんな祖父の常々言っていた、静寂の中にある雨音ほど美しい音はないという言葉に英は迷わずそれを最愛の我が子に与えたのだった。
「あれからもう3年以上になるんっスねー…ほんま早いなぁ…子供の成長て」
目の前で口の周りを真っ赤にしてオムライスを食べるミュートを優しい笑顔で見守り、その口元を紙ナプキンで拭った。
「ありあと」
珍しい程にこにこと笑いながらミュートを眺める光に、隣に座っていた謙也がぼやく。
「あの、光……俺にもそれぐらい優しぃしてくれてもバチ当たらん思うんやけど…?」
「はあ?聞こえへんわー」
「ムカつく!!ほんまムカつく!」
「子供好きなのねー財前君。意外だわー」
どちらが子供か解らないやり取りを眺めていた英が笑いながら言う。
「まあ…中学ん時甥っ子産まれたんでそれでこれぐらいの子の面倒見るん慣れてんっスわ。これもですけど」
チラリと横目で見る光に、それを示す先が自分だと気付いた謙也がテーブルを叩いて抗議する。
「ちょっ…俺は三歳児か!!」
「文句は口の周りに付いたカレー拭いてから聞きます」
謙也はそれまでの大きな態度を止め、光の指摘に慌てて口を拭う。
「あ、そういや先生…何でこっちに?」
「ああ、そうそう。あたし大阪戻ってくるんよ。今度は奥さんも一緒に」
「えっ…そうなんですか?ほなうちの病院に…」
「そうよー再来月からここでお世話になるから、よろしくねー」
これで英家姉妹の最強布陣が敷かれるのか、と若干末恐ろしい気がするが、喜ぶ光を見て謙也はそれ以上何も言えなかった。
「やっとこっちで三人で暮らせるかって思ったら嬉しいわー」
「幸せそうっスね」
「まあね。ほら、あたしこんなだし…一生独り身だと思ってたからねーまっさかこんな風に家族が出来るなんて思ってなかったし…
けどずっと一緒にいると、こうなるのも必然だったのかなーって思うわけなのよ」
「へぇ…」
「あ、けどそれはあたしの場合ね。あたしはさーちゃんとミュートと三人が最強やけど、財前君と謙也君は二人でいるのが最強なんだからね」
二人の心の隙を見透かす言葉に、様々を乗り越えた人は強いと改めて感じた。
だがその言葉は一つ訂正があると光は思った。
こうして時折道を指し示してくれる英も、妹の楓も、謙也の家族も自分の家族も白石達始め友人一同。
彼らの存在なくして二人でいられないのだと常々思っている。
一人で生まれて長く暗闇を彷徨っていたが、それでもその先で掴んだものは確かに心に幸せを運んでくれている。