恋路十六夜・二季の恋

この俺に、もう少しの勇気があれば
こんな結末にはならなかったのにと
アンタを夢で見るたびに後悔してしまう
でもこの想いも、この気持ちも
消えることはない
絶対に―――…





あれは俺が大学三年の頃だった。
後期が始まる直前の九月頭。
まだ蒸し暑い日が続く夜、アンタと出逢った。

大学の授業が始まれば、今のようには働けない。
だから今のうちに稼いでおこうと深夜のコンビニで働きだして約2週間、あの人の存在に気付いた。
いつも同じ時間にやって来るあの人。



「いらっしゃいませー」
今日も同じ時間。
アンタは店にやって来た。
学生が多く住むマンションが立ち並ぶ住宅街にあるこのコンビニは深夜でも利用客が多い。
いつもは何人か友達と来ていたが、彼は異質で目立っていた。
痩せた体だが身長は結構高い。いや、かなり高い。
今時珍しい綺麗な黒髪が似合う、純日本人って感じの顔。
伏し目がちで本当に見えてんのか、と思ってよく観察してたが店の棚にぶつかる事はなかった。

今日は一人みたいだ。
このチャンスを逃すわけにはいかない。
初めて見た時からずっと狙っていた話し掛けるチャンスを。
いつもは友達と買い物をしていたが、一人分の食料を手にレジへとやってきた。
俺は商品をレジに通しながら表情を盗み見た。

絶対に知り合いになりてぇ…
凄ぇ興味がある。
一体どんな人なんだろう。
買ってるのはおにぎりが3個だけ。
これだけで足りるのか?
すっげー小食じゃん。
俺なんてこれの三倍食っても足りない。絶対。

ふと見れば、カバンの中から財布を探している。
「378円になります」
マニュアル通りの受け答えも緊張する。
レジ画面に提示された金額を言うと、彼は青い顔をしながらレジカウンターにカバンを置き、中を派手に探し始めた。
「あの…どうされました?」
「いや…すみません。財布を忘れたようで……」
俺は周りに人がいないのを確認すると自分の財布から千円札を抜き取り彼に渡した。
「え?」
何のことだか理解していない彼は呆けたような顔で見下ろしてきた。
こんな顔もできるんだ、と思わず見とれた。

くそっやっぱ背高ぇな…見上げないと顔が見えない。
大学に入ってもまだ伸びる身長は、いつしか平均を超えていた。
それでもまだ少し彼の方が高い。

「貸しときますよ。返すのいつでもいいから」
「いや、そんな…そういうわけにはいかない」
堅いなー…俺ならこんな風に出されたら絶対受け取る。
そんで返さない。
「遠慮しなくていいっスよ。腹減ってんでしょ?」
「そんな事は…」
その冷静な否定の言葉を腹の虫が否定した。
彼のお腹が俺に聞こえるほど鳴ったのだ。
真っ白な肌をした顔は見る見る真っ赤になり羞恥に俯いてしまった。

こんな顔も出来るんだ。
何か可愛いかも。

「ほら。受け取って下さいよ」
再び札を差し出すと、今度は素直に受け取った。
蚊の鳴くような小さな声と共に。
「すまない…ありがとうございます」



これが俺たちの馴れ初め。
俺だっていくら困ってるからって見ず知らずの奴に金を貸すほどバカじゃない。
ただキッカケが欲しかった。
彼と話す、彼と仲良くなるきっかけが。
これはかなりの確信犯だと自分でも思う。
見たところ彼は見るからに真面目そうで、軽いイメージがまるでない。
俺はそれに付け込んだのだ。
きっと金を返しに来た時、何かお礼をと言ってくるの待っていたのかもしれない。
そうなれば当然『オトモダチ』になりましょう、だろう。
そうそう上手くはいかないと思っていた作戦も、あっさりと成功してしまった。
次の日。
案の定彼は千円札を握り締め、店にやってきた。
休憩中はいつも決まって近所の河原で過ごしていた。
休憩室は狭っ苦しくて、何か息がつまるから。
俺が上着と財布を持って休憩室を出た時、他の店員と話している彼の姿を確認した。

「あれ?アンタ昨日の…」
彼の後ろからさり気なさを装って声をかける。
振り返った彼の顔に笑みが零れた。
「昨日はありがとう。とても助かりました」
そう言って恭しく差し出された千円札を受け取った。
「あぁ…別にいつでもよかったのに」
これは本音。
そうすれば少しでも彼との関係が引き伸ばせそうな気がしたから。
バカだね、俺も。
いつからこんな駆け引きしかできなくなったんだか。
「でも借りたものはすぐ返さないと。ほんとにありがとうございました」
いつまでも店内の通路で立ち話をしていても他のお客さんの邪魔になるので彼を連れて店の外へと出た。


いつも過ごす河原の土手で腰を下ろすと隣りに遠慮がちに座ってきた。
「無理矢理引っ張ってきたけど時間とか大丈夫なんっスか?」
「ああ、大丈夫。明日は授業もないからゆっくりできますよ」
絶対この人のが年上なのに敬語使われて、何だか気持ち悪い。
「あ、自己紹介まだでしたよね。俺、切原赤也っス!」
ポケットに入れたままの名札を出す。
それを見せると、ふっと笑みを浮かべてくれる。
「俺は柳蓮二。よろしく切原君」
「赤也でいいっスよ。皆そう呼ぶからその方が慣れてる。あと敬語も気持ち悪いから止めて下さいよ」
「そうか。解った」

これでキッカケはできたわけで、あとはどう上手く進めていくかだ。

今まで色んな人を好きになってきたけど、何故かこの時の胸の高鳴りは他にはなかった。
一目惚れじゃない。
ずっと見てきたから。
三目惚れぐらいか?
ただの客として見てきて、昨日初めて言葉を交わして、そんで今。
俺、この人の事を好きになる。絶対。
そう確信した。

「柳さんは大学生?」
「ああ、今四年」
「どこの?」
「立海だ」
「えっ…マジで?!俺もなんっスよ!!三年だからいっこ下だけど」
「そうなのか?」
「うわっ…全っ然知らなかった…何学部?俺は社会」
「俺は文学だから校舎が違うな…あれだけの生徒数だから今まで気付かなかったが、そうだったのか」
それから30分という短い時間だったが色々な事を、お互いの事を話した。
柳さんは色々なことを話してくれたが、何故か家の事となると決まって影のある表情を見せ口を噤んだ。
俺はただ柳さんと話が出来た事に舞い上がっていて、
そんなことを気に止めずただ柳さんの笑っている顔が見たくて話を盛り上げておどけてみせた。

「明日もバイト入ってるのか?」
「ハイ!夏休み明けるまではほぼ毎日いるからまた遊びに来て下さいよ。今度はちゃんと財布持って」
「そうだな。解ったよ。またな、赤也」
そうして夜はまたアンタを連れ去った。
手を振り返し、彼の言葉を飲み込んだ。

きっとこの夜が永遠に続くんだなんて、馬鹿げているにも程がある。
舞い上がった思考にはそんな冷静な意見など聞き入れもしない。
きっと彼は、また来る。その次の日も。
またその次の日も。

子供じみた確信。
だけどそれは彼が叶えてくれた。
本当に毎日、会いに来てくれた。
買い物をしに、俺に会いに。

バイトをしている以上他の店員の目もあるわけで、わざとお釣が切れた振りをしてレジの前に引き留めたりもした。
いつも友達と来ていた彼だったけど、いつしか一人でやってくるようになった。
それも俺の休憩時間に合わせて。
俺は店のお菓子をこっそり持ち出しては最初に喋った河原に行き、短い時間だが柳さんと話をするのが楽しみになった。
そんなことが続いたある日。
柳さんは来なかった。
いつもは休憩時間の5分前に店にやってきて、俺と一緒に店を出るのが習慣になっていたのに。
時刻はもう夜明け前。
バイトを上がる時間が刻一刻と近付いてきている。
風邪でもひいたとか、他に用事ができたとか。
来ない日があっても当然だ。
この狭い店内と、河原での彼しか知らない。
友達もいるだろうし、もしかしたら彼女がいるかもしれない。
怖くて聞けなかったが、その可能性だってまだ残ってる。
何とか諦めようとしたが淋しい気持ちは押し寄せてくる。
きっとこんな気持ちは俺だけが持っているものだけだろう。
柳さんにとっては何人もいる友達の中の一人なんだろう。
そして、こんな気持ちを知られては今のようにもう会ってはくれないだろう。


「お疲れ様でーす。お先っス!!」
一緒に勤務を終えた仲間を置いて店の外に出ると、向こうから見慣れた人影が走ってきた。
「赤也!」
「柳さん…?!何で?!」
息を切らせながら走ってきてくれた。
驚いてこれ以上言葉が出ない。
「もう…バイトは終わったのか?」
「あ…今日は来ないのかと思ってた」
「友達のところで課題をしてたらこんな時間になってしまってな。よかった、間に合って」

わざわざ走ってまで会いに来てくれた。
俺の終業時間に間に合わせる為に。

やっべぇ嬉しくて顔が自然とニヤけちまう。

柳さんにとってのその他大勢にはなりたくない。
日増しに強まるその気持ちに戸惑いながらも、その優しい笑顔に笑い返す。

「これから家帰るとこっスか?俺もだけど」
「ああ。それより赤也、朝食はまだか?よければ一緒に食べに行かないか?」
「いいっスよ。どこ行きましょうか?」
「この時間では駅前のファミレスか…嫌でなければ俺の家に来るか?」
「え…っっ…いいんですか?!」
「ああ構わない。ただし、俺の作った朝食に文句は言うなよ」

言うわけねぇし。
むしろファミレスの誰が作ったかもわかんねぇ飯なんかよりずっとずっと食いたい。
それにどんな所に住んでいるのか、凄く興味があった。

お互い初めて明かす私生活だった。
会うのはいつも店か河原ばかりだったから。
それに俺、よく考えたらこの人の携帯電話の番号もメアドも知らない。
いつも連絡するより先に会いにきてくれていたから。

柳さんの住む部屋は想像していた以上に綺麗でよく整理されていた。
シンプルで物があまりなくて、少しの人の気配もない部屋だ。
どこか閑散として淋しい雰囲気がある。

「どうぞ座って」
「ういっス!」
手際よく用意された純和風の朝食が目の前に並ぶ。
どれも俺の好みより薄味だったが感動を覚えるには充分。
俺はしっかりと噛み締めて味わった。

「今日はどうするんだ?」
「んー…帰って寝る、かな…コンビニのバイト以外何も予定ないし明日は久々の休みだしゆっくり出来そう」
「そうなのか?」
「う…ん…あーヤバイ。かなり眠くなってきた……」
腹が満たされて次にやってきたのは眠気だった。
策を弄する間もなく、人間本能には逆らえないもので本気で眠くなってきた。
「おい赤也。ここで寝たら風邪をひくぞ」
「うー……ん」
「ベッドを貸してやるからそっちへ行け」
柳さんの腕が肩にかけられ途端に鼓動が跳ね上がる。
危険な予感。
性欲が睡眠欲を飲み込もうとするが、嫌われたくないという一心で思いとどまる。
そしてそのまま柳さんのベッドで眠りに堕ちた。



"…――――赤也…"
柳さん?
"赤也……"
アンタ…どうしていつも
そんな泣き出しそうな顔をしてるんですか――――…?


「おはよう赤也」
「ん…おはよー…っス…」

あれ?
俺は見慣れない景色に思考がついていかない。
何で柳さんが目の前にいるんだ?

「寝ぼけているな。ここは俺の部屋だ」
「あ…そっか」
「よっぽど疲れていたんだな。ぐっすり眠っていたぞ」
「マジで?!今何時っスか?!」

ちょっと寝たら起きるつもりが何で人のベッド占領してまで熟睡してるんだ俺…
情けねぇー…

「九時だ」
「って…夜の…だよな」

窓の外はもう真っ暗で一気に現実に引き戻される。
確か寝たのは日の出直前のまだ薄暗い頃で、一体何時間寝たのだと指折り数えた。

「すんません…ベッド占領して寝ちまって」
「構わないよ。俺もちゃんと寝たから」
「嘘っ!!げっ!床で?!ほんとすみませんっっ!!!」
「いいからそんな謝るな。それより風呂に入って来い。夕食の用意をしておくから」

そういえば家に帰ってないから風呂にも入ってない。
俺は言われるままシャワーを浴びる事にした。
狭いユニットバスの中。
昨日の出来事を反芻してみる。
柳さんと朝飯食ってそのまま寝たんだ。
湧き上がる邪な気持ちを隠して。

それから、柳さんの作ったパスタで少し遅い夕食となった。

何か似合わない。
柳さんってパスタよりソバとかうどんだよな……イメージ的に。
音もなく口へ麺を運ぶ姿が何かやらしい。
油でテカった唇がエロい。

このまま柳さんといる自信なんてない。
危険数値はもうリミット寸前まできている。
それなのに、柳さんは食事を済ませて帰ろうとする俺を引き止めた。
「明日もバイトは休みなんだろう?もう遅いし泊まって行ったらどうだ?」
なんて言われて断れなかった。
柳さんが風呂に入っている間中、気が気ではなかった。
どうすればこの危険な夜を無事過ごせるかと。
テレビを見たり、雑誌読んだりして一生懸命気を紛らわせた。
しかし。
湯上りで頬を上気させた柳さんを見て、残り僅かの理性は彼方へと飛び去った。
夏も終わったばかりだというのに全く日に焼けていない体がほんのり色付いている。

やばい。
本気でやばい。

「柳さん…」
「何だ?どうした赤也」
濡れた髪の毛をタオルで無造作に拭く仕草でさえ刺激的で、腕を掴み体を引き寄せるとそのままベッドへと押し倒した。
驚いた様子だったが抵抗を見せない柳さんの唇をさんざん貪った後、顔を離して思わず呟いた。
「ごめん…なさい……」
「何故謝る?謝るぐらいなら最初からするな。お前の気持ちはその程度だったのか?」
真っ赤に熟れた唇から漏れた意外な言葉。
逆に驚かされてしまう。
嫌われてしまうものだと思っていたから。
「いや、だって…軽蔑したんじゃないんですか?こんな風に…アンタの事ずっと見てて」
「そんな事、初めから気付いていた」
「っっっえええっっ?!はじっ初めからって…」
「お前、俺があのコンビニへ行く度物凄い勢いで睨んでいただろう」
「いや…睨んでって…」
確かに凝視はしていたが、睨んでるつもりなんて全然なかったのに。
自分の目付きの悪さを忘れていた。
知らない人間が見ればそう思っても仕方ないだろう。
反省。
「最初は嫌われているのかと思ってたが…あの日…お前が金を貸してくれた日、そうじゃないのだと解って嬉しかった」
「それって…」
「お前の目は正直すぎる。怖いぐらいにな」
「俺……アンタの事が好きだ…こんな…いきなりキスとか…アンタの気持ち構ってらんねぇぐらい…」
精一杯の告白に、柳さんは明確な答えはくれなかった。
ただいつものように優しく微笑んでくれた。
それを合図に二つの影は一つに重なり合った。
その時は、ここから永遠が続くものだと信じていたのに。




「大丈夫っスか?」
「うん…いや、ちょっと…かなり辛いものだな」
お互い男同士でするのは初めてだというのに、柳さんも俺も少し張り切り過ぎた。
柳さんはそれから半日ベッドから動けないでいた。
折角の休みなのだから二人で出かけようかと思っていたが、それは違う幸せな時間へとすり変わった。
「すみません…」
「だから謝るな。俺が…そうさせたのだから」
照れながらはにかむ顔があまりに可愛く見えて、思わず抱き締めた。

この人、こんな顔もできるんだ。

無表情だとばかり思っていた。
でも今は違う表情を沢山見せてくれる。
その度愛しさが増していく。
「これからはずっと一緒にいよう柳さん…」
しかし、その言葉に向けられる笑顔はとても悲しげで。
柳さんはそれに気付かれまいとしているようだが、俺は気付いてしまっていた。
気付かない方がよかったかもしれない。

「…何でそんな泣きそうな顔してんだよ」
抱き寄せた体はあまりにも細くて、泣き出したくなる気持ちが伝染ってしまいそうになる。
「何でもない…」
「何でもなくないだろ?!そんな顔して…アンタ自分で解ってる?いつも泣きそうな顔して笑ってる」
「……ずっと一緒なんて…無理だよ赤也…」
低く小さく呟かれる言葉に体中の血が凍りつく。
「え…?どうして?」
「俺は……卒業したらここからいなくなる…田舎に帰るから―――…」



初めから終わりの見えている恋なんて。
期限付きの恋なんて。
どこに幸せを求めればいいのだろう?
今ここに、確かにあるはずの温もりなのに。
今ここに、確かにあるはずの気持ちなのに。

「初めから四年間だけの約束だったんだ…」
柳さん大学を卒業した後は必ず生まれ育った故郷に帰る事を条件に田舎を出た。
それまで決して明かしてはくれなかった内面。
知ったことへの喜びよりもその残酷な現実に悲しむ結果が待っているなら、知らないほうがよかったのだろうか。
しかし柳さんは淡々と語り続けた。
俺は必死に説得した。
「こっちに残れないんですか?絶対…どうしても帰らないとダメなんですか?!」
頭は弱々しく横に振られる。
「無理だ。最初からそれが約束だから」

だったら。
離れていても気持ちは変わらないと、そう言ったのに。
柳さんが縦に首を振ることはなかった。

絶望的だった。

俺は大学を辞めてでも柳さんの側にいようかとまで考えた。
だが結果は同じだ。
そんなガキみたいな感情でどうかなってしまう程、世の中は甘くはない。
俺は何度も何度も引き止めたが。
柳さんは困ったように笑うだけで、ついに首が縦に振られることはなかった。

「何で…だったら何で……同情したのか?俺が必死になってるからって」
「違う」
「最初っから終わりが見えてるからお手軽だって思ってたのか?!」
「違う!」
「だったら何で…何で別れ話から始めなきゃなんねぇんだよ!!」
「…赤也……」

こんな風に責めたいわけじゃない。
こんな風に泣きそうな顔をさせたいわけじゃない。

だけど漏れる言葉を止める事はできなかった。

「俺嬉しかったのに……アンタとこんな風に…抱き合えるなんて夢にも思ってなくて…
好きだって事も伝えらんねぇって…思ってたから」
「俺だってそうだ」
「なら離れるなんて言うな!!!どんなに遠くに行っても絶対気持ちは変わんねーよ!!」
「……離れて暮らせば、互いの時間で生活が始まる。どんなに願ってもどうにもならない事があるんだ」
「何始まってもない先の心配してんだよアンタ。おかしいよ!」
「赤也」
「クソッ……」

俺はそれ以上泣き出しそうな柳さんの顔を見ていられなくて、部屋を飛び出した。

家に戻り、徐々に冷静になっていく頭の中で柳さんの事ばかりを考えた。
あの人は何をあんなに怯えていたのだろう。
離れてしまえば、気持ちまで離れてしまうというのだろうか。

あの人は、そんな経験をしたのだろうか?

嫌だ。
泣きそうに笑う姿なんて見たくない。
いつもみたいに優しく笑ってよ。
俺が馬鹿してはしゃぐのを、笑って咎めてよ。


翌日、冷静になった頭を連れてもう一度柳さんの部屋を訪ねた。
一大決心を秘めて。
あんな風に一方的に責めてしまって怒っているかもしれないけど、言わなければ。
絶対一生後悔する。
言うぞ、と意を決してインターホンを押す。
ハイ、という静かな声に心臓が口から飛び出しそうなぐらいドキドキした。
「あの…俺……赤也…」
それに何も答えられず、ブツッという電源の切れる音がする。
絶望で背中が冷やりとした。
怒っているのだ、と決心が鈍ってしまいそうになる。
しかしどうしても伝えなければと、もう一度インターホンのボタンに手を伸ばした瞬間。
玄関の扉が勢いよく開かれた。
「え?柳さん?」
今まで見た事もないような切羽詰った焦ったような顔。

こんな顔もできるんだ、この人。

冷静にそんな事を思った瞬間、強く腕を引かれて玄関の中へと連れ込まれた。
一瞬何が起きたのか解らなかった。

抱き締められている?

息も出来ないほど強い力で、俺は抱き締められていた。
マンションの狭い玄関先。
電気もつけられていない、薄暗い中。
柳さんは靴もはかずに飛び出し、俺を抱き締めてきた。
肩口に乗せられていて顔は見えない。
見られないようにしているのだろう。
「あの……昨日は―――」
「ごめん赤也」
先に言われてしまった謝罪の言葉。
この人は一体何に対して謝っているのだろう。
怖くて聞けない。
でもこんなに焦った様子の柳さんを見るのは初めてだ。
いつも余裕綽々って顔して澄ましているから。
「柳さん…俺の話聞いてよ」
答えは無い。
ただ肩口で小さく頷くのが解った。
「俺……昨日は焦ってあんな一方的に言って…ごめん……アンタにも色々事情あるはずなのに」

―――泣いてる?

柳さんの震える肩に気付いて、俺は形勢逆転を図った。
身を屈めるようにしていた頭を抱え込むように抱き締める。
「もう行くなとか…離れるなとか……言わない。言わないから…俺のモンでいてよ。残り半年の時間…全部俺にちょうだい」
「……離れられなくなるぞ」
「それでもだよ。たとえ半年でも、アンタが他の奴に取られるとこなんて見たくない」

期間限定でも構わない。
アンタの決心が変わらない事も解ってる。

それでも構わない。
全部受け止める。
この現実からは絶対目を逸らさないから。
この先半年だけは、俺の側にいてよ。

そう伝えると、柳さんはようやく笑ってくれた。

やっぱり柳さんは、辛い過去があったから離れて暮らすと同時に別れるって決めたらしい。

高校を卒業して、大学に入る時。
地元にとても好きだった人がいた。
離れて暮らしていく中で、すれ違う気持ちに気付いた。
ずっと変わらないと思っていた気持ちが、時間と距離に流されている。
あんなに好きだったのに。
あんなに一緒にいたのに。
こんなに辛い思いをするぐらいなら出会わなければよかった。
そう言って別れたのだ。
それは心に大きな闇を残してしまった。
大好きだった事も、一緒に過ごした時間も、そして互いの存在も全部否定してしまった。

「辛くて、悲しくて、あんな思いをするぐらいなら…もう誰も好きになりたくないと思った。
でもお前と出会って……気持ちが止められなかった。俺はお前と出会った事を後悔したくない」
「期限付きって…そういう事だったんだ……」
「すまない赤也……俺が…弱い所為で」
「俺……アンタと出会えてよかったよ。後悔なんて全然してねぇし……今の瞬間アンタがこうして俺の側にいてくれて嬉しい」

瞬間だけの為の恋人だって。
何か陳腐なラブソングみたいだ。

キレイに別れるなんて出来ない。
絶対未練タラタラで、きっとしばらくはまともな生活なんて無理。
それが解っていても、今この瞬間を共有できない事はもっと嫌だ。


俺はこの人の傷を癒してやる事はできない。
そして離れてまで縛り付ける事が、また新たに傷付ける事になってしまう。

怖くてできない。

好きだという気持ちは止められない。
それでも、今以上に傷つけてしまうなんて。
怖くて俺にはできない。
矛盾した気持ちだ。

ずっと一緒にいられないのなら。
ずっと忘れられない存在になれるようこの人の側にいよう。
どうしたって時間は経ってしまう。
それなら、限りある時間の全てを楽しい思い出いっぱいにしてあげよう。
たとえ半年だけでもこの人が笑っていられるように。
その為に俺は存在しよう。
アンタは一瞬でも俺を選んでくれたのだから。



時間なんて、皮肉だ。
楽しければ楽しいほど、あっという間に過ぎてしまう。

俺の誕生日、クリスマス。
年を越えて正月、バレンタイン。

すぐに半年は経ってしまった。
あの告白の日から、時間が許す限り俺たちはずっとずっと一緒にいた。
それが後で互いに重く圧し掛かる負担になることを知りながら。

ずっとずっと一緒にいたかった。
だけどそれを実現するにはあまりにも子供過ぎた。
そして、大人になった事で自分の力ではどうにもならない時間と距離があるのだという事が解った。
ただ愛しあう気持ちだけではどうにもならないという事を知ってしまった。


朝霧が立ち込める駅のホームで、俺たちは二人きり。
始発で旅立つ柳さん。
本当は乗り換え駅まで行きたかったが一緒に特急に飛び乗ってしまいそうで、俺は地元の駅での別れを選んだ。
昨日は柳さんの卒業式だった。

紙吹雪舞う構内で一際目立つ姿。
滅多に見せない嬉しそうな笑顔。
でもやっぱり泣きそうな顔をしてる。
たぶん周りの誰も気付いていない。
俺はずっと柳さんのそんな顔を見てきたから気付いてしまった。
あの人は顔で笑って、心の中で泣いているんだ。
それは明日が旅立ちの日だということを振り切るかのようで、俺まで泣きそうになってしまった。
「柳さん、卒業おめでとう」
それが精一杯の言葉で、それ以上何か言葉を交わした覚えは無い。
ただ、初めての夜と同じように。
荷物がなくなった柳さんの部屋で狂おしい程に抱き合った。
あれからもう数え切れないほど肌を重ねていたが、これほど悲しい夜はなかった。
夜が明ければ太陽が夜空の星をさらう様に、朝がこの人を連れて行ってしまう。
せめてこの夜だけは忘れまいと、眠ることなくずっときつく抱き締めたままでいた。


見送りは結構。
別れが辛くなるだけだから、と柳さんは言った。
しかし俺は最後の我が侭だからと地元の駅での別れを選んだ。
柳さんの細くて白い手首には、クリスマスに俺が贈った腕時計がはめられている。
揃いで買ったそれは、同じものが俺の手首にもある。
これからは、離れた場所でそれぞれの時間を刻むのだ。
思いの残った物は持っていけないと返される事を覚悟していたが、
柳さんはちゃんと俺と過ごした時間を連れて行ってくれる。
それで充分だ。

「元気で…」
「赤也もな。夜更かしばかりしないように。あと外食にばかり頼るなよ」
「はいはい解ってますよ…ったく最後の最後まで心配性っスね」
俺の苦笑いは電車の音にかき消された。
電車が目の前に滑り込んでくる。
乗降者は柳さん以外誰もいない。
「じゃ…」
小さな荷物を手に取ると俺に背中を向けた。
刹那、二人の間に沈黙が訪れたがそれは柳さんによって破られた。
勢いよく振り返り向けられる一番の笑顔。
それは何の迷いも無い、一番キレイな笑顔だった。

こんな顔もできるんだ、この人。

呆気に取られていると、不意に寄せられた唇。
軽く触れたそれが最後の口付け。


柳さんは電車に飛び乗った。
ドアは閉められ、電車は朝の光へと吸い込まれていった。





いつだって思い出してしまう
アンタと過ごした六ヶ月
この先どんな恋をしたって忘れない
この想い出
絶対に―――



endless end

 

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