あの男は許せないと思い、気にかけてしまった事が間違いの始まりだったんだ。
一人やってきたストリートテニス場。
誰もいないのかとベンチに腰かけ、ラケットの入ったバッグを下ろす。
他校の生徒が集まるここは、練習の為というよりもほとんど情報収集の為にやって来る。
しかし誰もいないとは無駄足だった。
「そういえば今はテスト期間でしたね…流石に誰も来ませんか…」
普段の授業を聞いていれば問題はないはず。
何故試験前というだけで部活が休みになり、皆躍起になって勉強するのかが理解できない。
誰か同じ考えの人がいるかと思っていたが、とんだ計算違いとなってしまった。
「……おや?」
ギャラリーとなった階段に誰かが寝転がっている。
遠目にも目立つ金色のふわふわの綿菓子頭。
「あれは……氷帝の――…」
そういえば彼は何処ででも寝る性質だったような、と頭にインプットされた情報がその不自然な情景を説明する。
近付いて顔を覗きこんでみれば、やはりその通りの人物。
制服のままラケットの刺さったリュックを枕に大きな寝息を立てて眠っているのは確かに氷帝の芥川慈郎。
先週コンソレーションで煮え湯を飲まされた、まさにその人物だった。
「こんなところでのん気に眠って…」
あの裕太があっさりと負けてしまった相手。
忌々しい思いで見下ろしていると、前触れも無く目を開いた。
「あー……」
「んふっお久しぶりですね芥が……」
「ぐー…」
「ってまた寝るんですかっっ!!ほらっ…起きなさい!!僕の話を聞きなさい!!」
わざわざしてやった挨拶も聞かない態度に腹を立て、肩を揺すれど頬を叩けど相手は一向に目を覚ます気配は無い。
一度眠ると起きないのかと、ぐったり脱力したところで、相手は思わぬ行動に出た。
「んあー…何かすっげーEーにおいー…」
「ちょ…っ!!何するんですかっっ!!」
腕を引きずられてバランスを崩してしまい、そのまま階段にへたり込み、気付けば足の上に芥川が眠っている。
それもただ膝を枕にしているだけではない。
腰に巻きつくように腕を回し、頭は膝頭ではなく大腿部に乗っかった状態でだ。
「起きなさい!!馴れ馴れしくくっつくんじゃありませんっ!」
「んーやだ…ちょー気持ちEー……」
「へっ…変なとこ触らないで下さいっ!」
結局芥川は起きる様子も見せず、脇腹を撫でるように腕を回したまま完全に眠りに落ちてしまった。
「あ――……誰あんた…」
「今まで散々抱きついておいて!寝起き第一声がそれですか!!」
「眠ぃー…ふああぁあ」
それから半時間後、ようやく腕の束縛から解放された。
だが相手はまるで自分の事など覚えていなかったらしい。
三十分も無駄にさせられた怒りと、ショックだった事も相まって思い切り頬を殴ってしまった。
いや、本当は殴るつもりなど無かったのだ。
ただあまりに呑気な顔が急に憎らしくなり思わず手が出てしまった。
「ってぇ!!!…いっきなり何すんだよー……」
「あ…あなたが悪いんでしょう?!いいから離れなさい!!」
突き飛ばすように膝の上から芥川を押しのける。
ギャラリーの階段から一段落ちたというのに、まだ完全に眠りから覚めない頭をボリボリと掻いている。
相手は悪いと思っている様子がない。
「そんな怒るなよー………」
「あなたが怒らせているんです!!」
「ふぁあああ…あー…おめぇ確か……」
目の前に指差され、ますます不機嫌が募る。
「跡部にボコボコにやられてた奴ー……」
「そんな思い出し方しないで下さい!!失礼な!」
確かに事実ではあるが、そんな事を目の前で言われてはプライドが傷付く。
「だったら勝負なさい!!叩きのめしてやります!!」
「やだよー…お前跡部より弱ぇもん…」
「この…っ!!」
悪意の無い憎まれ口をやめないその顔を、本日二度目の平手を見舞ってしまう。
「もー……殴るなよ…ヒステリックな女みてー…」
芥川は打たれた頬を撫でながら怒る様子もなく、ようやく目が覚めましたとばかりに大きく伸びをしている。
一人カッカしているのが馬鹿馬鹿しくなった。
「もういいです」
もうここにいる必要もないから早々に立ち去ろうと腰を上げた瞬間、足先から力が抜けてしまった。
三十分もの間じっと頭を乗せていた所為で完全に足が痺れてしまっている。
「あ?どした?」
「な…何でもありません!!さっさと行ってしまいなさい!」
手で追い払うように芥川をあしらうが、相手は引き下がらない。
「何何、どしたの?あ、もしかして立てないとかー?」
芥川は鈍そうに見えて、いきなり核心を突いてきた。
情けない姿を曝してしまい、消え去ってしまいたくなる。
まだ上手く動かない足は石段に縫い付けられたようで、座り込んだまま睨み上げた。
「きっ…君の所為でしょうが!まったく…人の足を三十分も枕にして……」
「そんなに怒るんなら振り払えばよかったじゃんかー…」
「そ…そうですけど…」
あの様子では振りほどこうと思えば出来たのだ。
少々乱暴に扱ったところで芥川は目を覚まさなかっただろう。
しかしそれではまるで人でなしの鬼のようではないか。
それに思わず見惚れてしまっていた。
神経質で深い眠りの得られない自分とは対照的に、気持ちよさそうに眠っている姿に。
「俺は嬉しかったけどー何かすっげー気持ちよかった」
「はぁ?!」
ほぼ初対面の相手の上に頭を置き眠るという無礼をはたらいた上、一体何を言い出すのだ。
思わず仰け反り体を離す。
「柔らかくってよーすっげーEー匂いして、こないだかーちゃんに買ってもらった枕みてぇ」
「この僕を枕呼ばわりとはいい度胸ですね…」
「褒めてやってんじゃん」
「褒められた気がしませんよ。女性じゃあるまいし」
不機嫌に口を尖らせる芥川に、呆れの顔を浮かべる。
この相手にはきっと何を言っても聞いてもらえないだろうという諦めが生れていた。
「けどお前ぇマジE匂い」
「ちょ…だから離れなさいって!!」
突然首筋に顔を埋められ、数秒前に生れた諦めが綺麗さっぱり消え去た。
しかし逃げようにも足が思うように動かず、芥川が犬のように好き勝手匂いを嗅ぎ回る。
「何の匂い?香水か?」
「香水なんてつけませんよ!あぁいう人工的な香りは好きになれないんです」
「ふーん…」
つまらなそうに言い、ようやく顔を離してくれた。
しかし解放された事に安堵した瞬間背後からする怒声に飛び上がるほどに驚いた。
「おいジロー!!」
「おー!!!跡部ー!!」
テニスコートを挟んだ向かいに、氷帝の長が仁王立ちでこちらを睨みつけている。
やっと少し動かせるようになった足を引きずり慌てて芥川から体を離した。
「てめぇまたこんなとこで寄り道しやがって…親御さんが心配して俺に電話かけてきたじゃねぇか」
「あー…帰る途中で眠くなってよー」
「で、人の膝借りて寝こけてたって訳か」
「は?!」
声を上げてからしまった、と思った。
この反応では肯定した事となってしまう。
案の定、跡部はニヤリと笑って見下しているではないか。
忌々しいと顔を逸らすと、突然腕を掴まれ立ち上がらせられる。
「なっ…何なんです?!」
「おら、ジローも来い。送ってやるよ」
「ラッキー!!!行こうぜ行こうぜ!!」
反論する余地も無く、やたら乗り心地の良い車に詰め込まれてしまった。
車体は静かに走り出したが、今しかないと口を開く。
「お…下ろしてください!」
「遠慮すんじゃねぇよ。ここからルドルフの寮まで結構距離あるだろ」
「そ…そうですけど」
どういった気の回し方かは知らないが、跡部は自ら助手席に乗り込み芥川と自分を後部座席に押し込めた。
すっかり目を覚ました芥川に懐かれてしまい、どうしたものかと頭を抱える。
今も広い車内でぴったりと張り付くよう隣に座っている。
「それにその足で歩いて帰るつもりだったのか?」
「う…」
こんな奴の世話になったなんて、恥の上塗りではないか。
唇を噛み締め俯くと、何故か芥川と目が合った。
「なっ…」
「お前ぇ何でそんな眉間に皺寄せてんだ?」
「……そういう君はどうして僕の膝に頭を乗せているんですか」
芥川は勝手に膝の上に頭を乗せ、俯く瞳を見上げている。
「えーEじゃん」
「また痺れたらどうしてくれるんです」
「おんぶしてやろっか?」
「結構です」
意外に重さのある頭を持ち上げ、シートの上に下ろす。
不満げな瞳に何も返す言葉などない。
もう目が合わないように、窓の外を流れる景色を眺める事にした。
翌週。
テスト休みを利用して、氷帝学園を訊ねていた。
偵察の為ではない。
不本意だが、仕方なかったのだ。
きょろきょろと見渡し、厳重に固められた正門の脇にある守衛室を訪ねる。
用件を伝えると、来校者章を渡され中に入る事を許可された。
広い校庭を横切っていると、大きな従者を連れたあの男に早速出会ってしまった。
「よぉ、観月。今日は誰の偵察だ?あーん?」
「今日は偵察に来た訳ではありませんよ…これを君に渡そうと思いまして」
そう言って鞄の中に入れてあった包みを手渡した。
しかし相手は何の事だか解らないと怪訝そうな顔をしている。
「あぁ?紅茶?」
「この間のお礼です。結構な銘柄のものを選びましたから君の口にでも合うかと思いますよ」
「礼なんてされる覚えなんざねぇが?」
「僕にはあるんです。借りを作ったままなんて僕の流儀に反しますから」
「俺はただジローが世話になったみてぇだから送ってやっただけだ」
「世話をした覚えなんてありませんよ!!」
思わずムキになって言い返してしまった。
これではこの間と同じだ。
跡部はまたあの時のように意地の悪い笑みを浮かべ見下ろしてきている。
「ま、お前がそう言うんなら有難くいただいてやるよ」
「それじゃぁ僕はこれで…」
これ以上居た堪れない視線に晒されるのは御免だと、早々に踵を返した。
だが相手はそれを許してはくれない。
「おい、ちょっと来い」
「は?!ちょ…っ!!放してください!」
またあの時のように腕を掴まれ、テニスコートの方へと引っ張られていく。
氷帝も休み中なのか、すれ違う生徒がいない事が不幸中の幸いだ。
でなければ今頃大騒ぎとなっていたに違いない。
「折角来たんだ。ゆっくりしていけよ」
「何なんですか…君といい芥川君といい…ここの生徒は皆こう強引なんですか?!」
「そう思いたいんならそう思っとけ」
全く何を考えているのか。
しかし考えていても埒が明かない。
ここは偵察のつもりで敵の懐に飛び込むかと、一先ず跡部に手を離してもらった。
連れて来られたテニスコートは、思ったほど人が居ない。
今日はレギュラー以外は休みだから気兼ねするなと言われたが、そのレギュラーが一番気を使うのだ。
宍戸や向日など物凄い視線を寄越している。
だがそんなものよりも気になるのがベンチで眠っている金色の頭の男だ。
寝た子を起こさなくても良いものを、跡部はわざわざ芥川を起こしている。
あれだけ寝起きの悪かった事が嘘のように飛び起き、こちらの姿を確認するや否や飛ぶように走ってきた。
「お前ぇ何でここにいんだ?!」
「少し用がありまして…」
「何だー俺に会いに来たんじゃねぇのか」
「どうして僕がっ」
今にも飛び掛らんばかりの様子の芥川から距離を取るように少しずつ後退しているのだが、相手の勢いに今にも飲まれてしまいそうだ。
顔を逸らすように喋っていても、いつの間にか正面に回りこんでじっと目を見てくる。
そうこうしているうちに逃げられなくなってしまっていた。
その上、芥川はとんでもない提案を持ち出してきた。
「じゃさ、試合しよーぜ!!」
「いきなりですね…それにこの前はしたくないって言ってたじゃありませんか」
それも失礼な一言と共に。
忘れたわけではない。
「気が変わった!お前ぇと試合してみてぇ!!」
しかし楽しそうな、子供のような目を向けられると断る気が失せてしまった。
「今日は何も用意してませんから…軽く打ち合う程度でいいですか?」
「うんうん!!全っ然OK!!はいラケット!」
何故こんな事になってしまったのか、数分後にはコートに芥川の歓喜の声が木霊していた。
「すっげーすっげー!!!お前ぇ何で俺の打つとこ解んだ?!!」
当然だ。
コンソレーションが終わってから、随分と氷帝に関するデータを研究してきたのだから。
特に芥川と跡部は念入りに。
それほど日が経っていないからか、データの変動はほとんどない。
だから芥川と打ち合うのも造作も無い事だ。
「おもしれぇーっっ!!!」
しかし相手はそんな考えなどお構いなしに大興奮している。
何故彼はこんなに楽しそうにテニスをしているんだろう。
明らかに不利であろう状況だというのに。
丁度サービスゲームが芥川に回ってきた時、コートサイドにやってきた跡部が試合を止めた。
「おいジロー!!コートを空けろ!他のレギュラーで試合をする!」
「えー!!!まだ試合終わってねーのに!」
そんな芥川の我侭などあっという間に聞き流されてしまい、コートでは跡部の指示で試合が始まった。
こんな事になるのなら、ジャージやラケットを持ってくればよかったと後悔しながら、入れ替わりにギャラリーに戻る。
そしてバッグからハンカチを取り出し額に滲む汗を拭った。
芥川はまだ不満なのかつまらなそうにラケットを振り回しながら戻ってきた。
「ちぇーっ…つまんねぇの。まだお前ぇと試合やりてぇのに」
「軽く打ち合うだけと約束したでしょう」
「そうだけどよー…あ、そうだ!またあのストテニ場来いよ!!今日の続きしよーぜ」
「僕はそんなに暇じゃありません」
飲み物も何も持ってきていなかった事が更に後悔として圧し掛かってくる。
渇いた喉と汗にイライラが募っていく。
「お前ぇさー……何でいっつもそんな険しい顔してんだ?」
「え…?」
「テニスしてる時も。何でそんなつまんなそーな顔してんだ?」
心外だ。
でも楽しいだけがテニスではない。
「…思うように試合が運んでいって、試合に勝てば表情だって和らぎますよ」
「何で?全然わかんねーとこに飛んでくるボールとかさ、すげー楽Cじゃん?!」
「そんな呑気な考えで出来ませんよ!!僕らは勝つ事でしか存在意義がないというのに!!」
思わず声を荒げてしまった。
しかし芥川は驚く事もなく見上げていた。
「勝ってもさー…楽しくなきゃ意味ねーんじゃねぇの?」
「勝ってこそ勝負というものです。君だってこの生き馬の目を抜く様なレギュラー戦線を見ていて何とも思わないんですか?!」
「俺レギュラーなんでどーでもいいCー。ただレギュラーにいたらいっつも跡部とか強ぇー奴らと試合できるからいるだけだC」
「…僕はそうは思えない!!」
勝つだけが全てだ。
その為に単身東京までやってきたのだ。
負ける事が許されない。
それは互いに同じ様な立場だというのに、この差は一体何だ。
心に風穴が開く音がした。
急速に様々な感情が押し寄せ溢れる言葉を止める事ができなかった。
「楽しいなんて感情は捨てて……それでも勝利をこの手で掴めなかった屈辱などお前に解るはずがない!!」
「あ、おいっ!!」
呼び止める声はすでに遠く、駆け出した足は気付けば正門へと体を運んでいた。
ほぼ無意識に飛び出したがバッグだけはしっかりと手に掴んでいた。
幸いだ。
そのまま振り返る事無く、氷帝学園を後にした。
テスト休みも終り、部活もスクールでの練習も再開されたというのに全く身が入らないとはどういう事だ。
周りはコンソレーションでのショックをまだ引きずっているのではないかと気を揉んでいるが、そうではない。
それよりも先日芥川に言われた言葉が心を刺したまま動かないのだ。
風穴は塞がる事なく、様々な思いを吐き出しては翻弄してゆく。
テニスをしていても、堂々巡りを繰り返してまた芥川の言葉へと戻る。
いい加減どうにかなりそうだと頭を抱えていると、従順な傭兵が近付いてきた。
着火した状態の大きな爆弾を抱えて。
「観月さん」
「何です裕太君。トレーニングは終わったんですか?」
「あ、はい。いや…あの、氷帝の芥川さんと何かあったんすか?」
「…どうしてそう思うんです?」
一刀両断にあるわけないでしょう、と言えなかったのは裕太の言葉の先が気になったからだ。
どうにも煮え切らない様子の裕太を急かして言葉を促す。
「あの、こないだストテニ場行ったんですけど……」
裕太の話では、芥川は頻繁にあのストテニ場に現れているようだ。
いつもあそこを利用している他校の生徒がそう言っていたらしい。
毎日部活が終わってからふらりと現れ、テニスをするわけでもなく階段で居眠りをする。
そして日が暮れてしまうと、何も言わずに帰る。
その繰り返しだそうだ。
裕太が行った日も同じく階段で眠っていたから声をかけた。
制服を見た途端物凄い勢いで起きたが、
「何だお前ぇーかよ…」
と再び眠ってしまった。
「お前ぇに用はねぇよー…俺が用あんのはお前ぇんとこの癇癪持ちのマネージャーだよー…渡すもんがあんのー……」
眠りに落ちる間際、ぼそりと零した言葉を裕太は聞き逃さなかった。
そして何かあったのだと思い聞きに来たのだという。
「何でもありませんよ。君は早く練習に戻りなさい」
「は…はい。すみません変な事言って…」
それにしても、癇癪持ちとは心外な。
だがそう思われても仕方がないほど、彼の前では不機嫌な姿しか見せていない気がする。
ストテニ場で今日の続きをしようなんてただの気まぐれだと思っていた。
しかし彼は待っている。
「渡すもの…か」
それが何を示すのかは解らないが、行ってみる価値はあるかもしれない。
偶然にここで出会ってから、もう半月以上が経つのだと気付く。
彼はあの時と同じようにギャラリーでリュックを枕に眠っている。
隣りに座り顔を覗きこむように声を掛けた。
「芥川君」
「ふあ…あー…やっと来たのかよー……」
あの時と違うのは、覚醒までの時間だろう。
一度声をかけただけで目を覚ましてくれた。
「裕太君に聞きましたよ。何の用なんです?試合ならしませんよ。スクールでの練習でもうくたくたですから」
「あーいいのいいの。用はそれじゃないよー」
すぐに起き上がったが、まだ半分夢の中にいるのだろう。
寝ぼけまなこのまま枕にしていたリュックをごそごそと探る。
そしてハンカチを差し出してきた。
見覚えのあるものだ。
それが氷帝学園に行った時に携帯していたものだと気付いた。
「これをわざわざ渡す為に…毎日ここで待っていたんですか?」
「んー…」
首を振り子のようにふらふらとさせながら生返事。
本当に聞いているのかと不安になる。
「意外ですね…綺麗に洗濯までしてある」
「だって俺ん家クリーニング屋だCー…」
聞いているようだ。
会話はちゃんと成り立っている。
「ありがとうございます。僕も忘れていた事すら気付いていなかったのに」
「あーそれついでね。本題はこっから」
今度はポケットの中から小さな小瓶を取り出し、中身をハンカチに垂らした。
折角綺麗にプレスまでされているのにと慌てて手を引っ込めると、ふわりと甘い香りがする。
「え…何、いい香り……」
鼻に近付けると爽やかな、それでいて甘い香りが漂ってきた。
香水ではない。
あの不快な人工臭ではない、もっと心に染み込むような良い香り。
「お前ぇイライラ治るかと思って」
「な…っ」
「かーちゃんに教えてもらったんだよ…俺の枕の匂い何かって。そしたらこれの匂いだよってさ」
「ローズウッド……」
芥川が持っていたのはアロマオイルの入った瓶だったのだ。
差し出された瓶に貼られたラベルにはローズウッドの文字があった。
「イライラとかー暗い気持ち吹っ飛ばしてくれんだって。お前ぇにピッタリだろ?」
「悪かったですね…イライラと暗く悩んでばかりで」
そんな卑下た言葉などお構いなしに、芥川はまた頭を膝の上に乗せてきた。
「んー…でもお前ぇの匂いに似てんだよなーだからすっげー好きだぜーこの匂い」
「だっ…だから僕を枕にするのは止めなさい!!!」
「やだよー俺の枕ー」
恥ずかしい言葉もあり、慌てて体を離そうとするが芥川の腕は信じられないほどの力で腰を抱きこんでいる。
がっちりと抱き込まれて離れられない。
「君の所有物になった覚えはありませんっ」
「なら俺と付き合ってよー」
「何でそうなるんですか!!!」
「彼女んなってくれたら膝枕してくれても変じゃないCー」
「どういう理屈だ!!」
この前よりも苛立つ気持ちが少ないのは、きっとこの甘い香りの所為だ。
そう思いたい。
こんな男のおかげで心が軽くなったなんて、死んでも思ってやるもんか。
でも、次に誘われたならきっと出来るだろう。
彼の言う、楽しいテニスを。
少しは思い出せるかもしれない。
純粋にテニスを楽しんでいた頃の自分を。
そう思ったら、膝の上に乗った綿菓子頭を振り払う事ができなくなった。
今日もまた痺れる足と格闘する破目になるかもしれない。
それでも構わないと思えるのは、やっぱりこの香りの所為だ。
そうでも思わなければ、きっと落ちてしまう。
紛れもない恋心に。
〜終〜
あーくそぅ…いいなぁ観月さんの膝枕………
○俺ルールのパブリックイメージ観月→いい匂い
○当初展開と怖ろしくかけ離れた話になってしまった
○最初はもっと軽い感じだった
○それがとんでもなラヴロマに
○でもジローはまだ観月の名前も知らない
○ちなみにローズウッドは催淫剤にもなるらしい
○ジローが何の下心もなく渡すはずもない…フッ
○次はたぶん橘×?
○がんばります!!